秘めごとはふたつ

「はい確かに。有難うございますです、ナナシくん」
 おれが差し出したプリントの束をハッサク先生は快く受け取った。
 
 街の大階段を登りきった先に建つアカデミーの窓からはいつも爽やかな風が吹いてくる。
 運ばれてきたばかりの新鮮な空気を吸い込んで、おれは精一杯自分を落ち着かせた。
「しかしナナシくん。きみ……、」
 突然生徒に訪ねられても、先生はいやな顔をしたことがない。それが今日に限って表情を曇らせるのでおれはぎょっと顔を強張らせた。
 なにかまずかっただろうか。言いよどむ先の言葉に怯えておそるおそる顔色を窺うと先生は風格のある顔で八の字眉をつくって続けた。
 
「何度かこうしてお友達のプリントを届けに来てくれていますが、大丈夫でしょうか。無理強いなどされていませんか?」
「や、おれ、校舎歩き回るの好きなんで!」
 
 ……咄嗟に叫んだのはそんな意味不明の供述だった。先生を前にするとおれはいつも意味不明になってしまう。
 実際、おれがこうして美術の授業の提出プリントを持ってきているのは押し付けられたわけではけしてない。いや、クラスメイトの名誉のためにも断言しておくとこれは寧ろおれのほうから頼み込んで奪ってきたのだ。理由はおれの挙動不審な様子を見れば分かることだろう。
「きみはいつも元気があっていいですね」
「ひゃわ」
 喉から勝手に変な声が出た。突然の校舎徘徊癖の告白にも先生は蒸し返すことなく笑顔で受け止めてくれる。ハッサク先生はアカデミーの美術教師だ。話に聞くとリーグ四天王も兼任しているらしいがそこでのことはおれはよく知らない。知らないなりにも、先生は傍から見るとかなり迫力があるのでそれも頷ける話だった。
 
 窓からパルデアの風がさっと吹いておれの熱くなった頬を冷ます。それでようやっと視線を前に戻すことに成功すると、ハッサク先生は机の上で紙をとんとんと整えていた。背が高い彼を、いつもは見上げるばかりであまりお目にかかれないその手付きをまじまじ見てしまい、ぼんやりと思う。
「せんせ、指長いんですね」
 感嘆って部類の声だった。おれ自身で聞き覚えがない声色だったからって驚いている場合ではない。え、と声を漏らして先生がおれを見てる。一見して鋭く、印象深い瞳のなかにばっちりとおれが映り込んだ。そこからはなんの感情も受け取れない。不審な生徒にも寛大な態度でいてくれるのは先生の人徳のおかげだ。でなきゃおれはとっくに見放されているだろう。しかし今回のは輪をかけて不審な発言だった。急いで弁解しなくてはと思えば思うほど、あうあうと溺れかけのコダックみたいな声しか出ない。
 一拍ほどの沈黙を経て、先生はようやく合点がいったのかその口もとに微笑を浮かべる。
 
「ああ。やはりそうなのですかね」
 おれの素っ頓狂な言葉に思い当たるふしがあるらしく、先生は続けた。
「いえ、まさかきみにまでそう言われるとは思わなかったので……」
 
 いつもはきはきとした口調の彼にしては珍しく、最後のほうは消え入るような声だった。おおらかな笑みはいつのまにかはにかみに変わって、何かを取り繕うみたいだ。それを認めた瞬間、頭に衝撃が走る。たまらずおれは職員室から駆け出した。
「あ! 廊下を走ってはいけませんよ!」
 背後で先生が注意するのが聞こえたが構っていられなかった。
 
(え!? なになになにそれ!?)
 廊下で風を切りながらおれの頭は先生のさっきの表情でいっぱいだった。先生は「きみにまで」、とそう言った。おれより以前に同じことを言った人間がいるのだ。今日たまたま目に入ったおれですら思ったくらいなのだから特段驚くことじゃない。
 でもそれを言ったときの先生の目は微かに潤み、目もとには間違いなく赤みが灯っていた。その反応はその話題が先生にとっては単なる世間話の類ではないことを示していた。ひとの容姿にずけずけと物を言うのがそもそもマナー違反というのをすっかり棚に上げて、混乱しているうちにおれはグラウンドへたどり着いていた。外の気配を感じ取り手持ちのボールから相棒のアオガラスが飛び出して、肩で息をするおれを小突く。
 このアオガラスとはココガラのときからの仲だ。おれのことをよく知るそいつは暴走するおれを宥めるように翼で空気を扇いだ。
 
 先生は落ち着きのないおれのことを肯定的に形容してくれたが、故郷でのおれの評価は良くて「やんちゃ」、もしくは「乱暴者」だった。いつも、考えるよりさきに身体が動いてしまうのだ。他人から勝手に投げつけられたものであってもそれは正しい評価だと思う。アオガラスは手持ちポケモンであり、そんなおれのお目付け役でもあるのだ。
 その性格を変えようと思ったのは生まれ育った町を離れてアカデミーに入学してからだ。教壇に立ち、生徒たちに語りかけるハッサク先生の堂々としていながら丁寧な所作を見て、かっこいいと思ったのだ。品のある男というのはこういうことを言うのだとはじめて腑に落ちた。ひと目で先生はおれの憧れになってしまった。
 
 そんな先生からあの表情を引き出したのは一体誰なのだろう。
 それが誰だって、おれには到底関係のないことだ。論理的に考えることを覚えだしている思考はおれにそう告げるのに、つぎつぎいろんなひとを思い浮かべるのが止まらない。それは学校内の誰かかも。はたまたおれがまだ会ったことない、リーグの四天王なのかも。あ、一度授業に来てくれたジムリーダーのコルサさんかも。あの以心伝心っぷりは只事ではなかったし。仲良いのが伝わってきてほっこりしたよね。……とまあ、ちょっと思いつく限りでもこれだけいるのだから途方もない。
 頭を抱えて唸るおれの足元でアオガラスがギャア、とひとつ鳴いた。傾きはじめた陽の光を伸びてきた影が遮る。
 
「まったく、驚きましたですよ!」
 影の持ち主は先生だった。背丈と同じく、先生の影もやっぱり大きい。彼はざくざくとグラウンドの土を踏みしめながらこちらへ歩み寄る。どことなくお説教の気配を感じ、先生が職員室からここまでおれを追ってきたのだ悟った。
 
「先生」
 これだけ長身なのだから、指が長いのも当たり前のことなのに馬鹿なこと言ったもんだ。意識するとまたおれの目は先生の手のほうへ向かってしまう。その両手にやさしく包まれて、ハネッコが上機嫌に身体を揺らしていた。
「あっ! ハネッコ!? あれ!?」
 名前を呼ばれたからかハネッコは嬉しそうにまた揺れる。彼もまた、おれと一緒に故郷からやってきた子だ。見間違えるわけはない。
「急いでいてボールを取り落としたのでしょう。ポケモンの管理はしっかりしなければいけませんよ」
 幾分か口調を厳しくした先生の手から、ハネッコはおれのもとへぽよんと跳ねた。
 
「ご、ごめんなさい」
「謝るのならハネッコに謝りなさい」
 先生の言うことはもっともだ。ごめんねと伝えるとハネッコは置き去りにされてしまったことを分かっているのかいないのか、風に揺れるだけだった。彼の代わりとばかりに咎める目を向けているアオガラスにも謝ると、その一連のやりとりを見守っていた先生は空気をやわらげた。
「先生、ハネッコを届けてくれてありがとうございました」
 そのうえこんなところまで追ってこさせてしまって、おれは申し訳ないやら情けないやらでいっぱいだ。まともに顔を合わせるのも気おくれしてしまって、思わずハネッコのピンクの体で視界を隠す。
 
「きみ、弾かれたように走り去ってしまうものだから。もしかして小生がなにか気に障るようなことをしてしまったでしょうか?」
「いえいえいえ! 違います!そんなこと一個もないですっ!」
「そうですか、よかった」
 
 慌てて首を振るおれを見て、ハッサク先生は心底安心したように息をついた。おれとの繋がりを心配してここまで駆けつけてくれたんだろうか。誤解させてしまったことに心苦しさを覚えながら、おれは質(たち)のよくない喜びを感じていた。それを振り払いたくてもう一度頭を振る。そんなおれの足掻きも含めて、先生はやさしく見守ってくれている。
「では一体どうしたのでしょう。良ければ教えてくれませんか」
「え、えっと」
 え、これで話は終わりなんじゃないのか。先生の追及はやわらかいが、こちらから押し返したところでびくともしないような強さがある。そのうえ自分の考えを知られることが憚られて言い淀むと凛々しい眉は悲し気に歪むのだ。
 
「さっき、おれ変なこと言いましたよね。あれ、もしかして誰かからの大事な言葉だったのかなって……」
 逃げ場がないことを理解しておれは白状した。再びあがった話題にハッサク先生はさっと頬を赤くする。大人の男の人もこういう顔をするんだ。正体不明の感情が伝播しておれまで気まずくなってくる。それでも先生は生徒からの不純な疑問に応えようとしてくれているようで、口を開くのに数度失敗してから答え合わせを始めた。
 
「実は小生、昔ピアノを習っていまして。だから、言ってくれたのはピアノの先生です」
 ピアノの、せんせい。明かされた事実に全身の力が抜けるほど拍子抜けする。
 
「すごいことじゃないですか!」
「そんな大それた腕ではないのです!本当です! とにかく、その方に指が長いので奏者向きだと言われたことがあるだけなのです!」
 ハッサク先生は早口でそう言うと、余程居たたまれないようで手で顔面を覆ってしまった。僅かに覗く額まで赤くなっているようだ。おれからすれば恥じるどころかまたひとつ尊敬するところが増えたくらいなのに当人にとっては違うらしい。
 
「そっか……。そうだったんですね」
 改めて事態を反芻するように息をつくとなおも赤面中の先生が声をあげる。
「ナナシくん! 大人にも恥ずかしいことはあるのですよ!!」
 いつの間にかおれが先生を辱める感じになってる。勿論そんな意図はない。
「わ、分かりました! この話はもうやめます」
 
 本当はなんでそこまで過剰に反応するのかちっとも分かってないのだが、おれは物分かりがいい振りをした。そうでもしないとどんどん大きくなる先生の声は止められないと思ったからだ。
「面目ありませんです。どうか内密にしていただけると」
 おれとしては先生のサイレンのような大声がグラウンドに響き渡るのが止められるのならお安い御用だ。
 口約束を取り付けるころにはハッサク先生はあの日教壇で見たときの様子を取り戻していた。大人になるってもしかしたら、こうして秘密ごとが増えていくことなのかもしれない。目の前のひとに心のうちを気付かれないよう誤魔化すように、おれはハネッコをもちもちと触りながらそんなことを思った。