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 アカデミーには生徒が自由に使えるさまざまな設備がある。家庭科室もそのひとつで、授業がないときには好きに調理場と器具を使うことができるのだ。そもそもテーブルタウンには飲食店がたくさんあるし、学食に頼れば食生活にはまず困らない。しかし運が良ければ家庭科教師のサワロ先生に直接指導だってしてもらえるとあっては料理好きの生徒が集まらない理由はないのである。
 
 サワロ先生に見守られながら、おれはオーブンから慎重にケーキ型を取り出した。初回にオーブンの熱気に驚いて鉄板を取り落としそうになったのを先生も覚えていたようで、両腕を組んで固唾を飲んでいる。その視線を感じつつ型の周りをケーキナイフで切り出すと、紙皿の上にさっくりとした感触の生地が取り出された。バターの焼きあがる香りが広がる。
「どうでしょうか!」
 焦げてなければ生焼けでもない。完全なパウンドケーキがそこにあった。期待を込めて見上げるとサワロ先生からは大輪の笑顔が降ってきた。
「文句のつけようがない出来だ! 努力が実を結んだな」
「有難うございますっ!」
 
 オーブンの使い方どころか、お菓子作りなんてしたことがなかったおれがここまでやり遂げられたのは先生が根気よく付き合ってくれたおかげだ。想像以上の出来栄えを前に自然と感謝の気持ちが溢れだす。傍から見れば運動部の師弟関係のようだが、ここは道場やグラウンドではなく家庭科室である。
「気を抜くのは早いぞ、火傷に気を付けたまえ」
 その言葉で我に返り、また気を取り直してケーキを切り分けていく。先生の指導のおかげで中はしっとりの断面はナイフを入れても崩れることはなかった。包装する袋の端をリボンで結ぶのもサワロ先生のアイデアだ。淡いピンクのかわいいリボンがあるだけで贈り物としての風格がぐっと増す。おれひとりではここまで考えは回らなかっただろう。ただでさえ作るのに必死だったわけだし。
 
「先生がたまたまかわいいリボン持っててくれてよかったです!」
「そ、そうかね? 役に立ったのならよかった」
「あ! でも全部袋に入れちゃいました!」
 
 サワロ先生にも食べてもらおうと思っていたのに!つい必死になって忘れてしまったようだ。家庭科の先生に胸を張って出せる出来かは分からないが、ここまで付き合ってもらったのに何も渡さないのも恩知らずな気がする。いつの間にかボールから出ていたペルシアンがちょいちょいと前足でリボンを弄りはじめている。それをやめさせながらサワロ先生を見ると彼はむしろこちらを急かすように背を押した。
 
「食べずともわかる。味はこのサワロが保証しよう。ぜひ、出来立てを持っていきなさい」
「でも片付け……」
「そうだ、片付けをするまでが料理だな。それが分かっているなら十分」
 さあさあ、とおれを調理場から押し出すサワロ先生はなんでかご機嫌だ。それを見ていると嬉しい気持ちが罪悪感を簡単に上回っていく。正直なところ、おれの身体もいますぐ駆け出していきたくてたまらないのだ。おれは振り返って何度も先生にお礼を言うと、落とさないように贈り物を抱えて家庭科室をあとにした。
 
 アカデミーはまもなく「宝探し」という大行事の期間に入る。ポケモンたちを連れてたった一人でパルデア中を旅する本格的な課外イベントだ。その期間中は基本的にアカデミーからは離れることになる。どう過ごすかは個々の自由に委ねられるが、いままでと比べれば圧倒的に登校回数は減るだろう。
 「宝探し」が迫るにつれ、まわりもそれに向けてどこかそわそわとし出す。その雰囲気に飲まれて、おれも身の振り方をぼんやり考えていた。
 
──そうだ。しばらくは先生たちの授業を受けることも少なくなる。
 それを自覚したのがサワロ先生の調理実習中だったからだろう。そういう単純なからくりで、おれはハッサク先生になにか作って渡したいなと考えた。
 ハッサク先生は学校の先生、リーグの四天王とすごい肩書を持った大人だし、学生のおれがどんなに背伸びしたところで金銭的に満足してもらえる贈り物なんてできるわけがない。そもそも物を渡してそれでなにか気持ちを返してもらおうとか、そういう大それたことじゃないのだ。ちょっとした差し入れみたいな。そういう軽いものでいい。いわばこれは手段が目的なんであって、要は会うための口実がほしいだけなのだ。
 
 そうと決めたおれはその日の授業が終わるとすぐにサワロ先生に今回の相談を持ち掛けた。「ハッサク先生宛てに渡したい」という部分も含めてはっきり伝えた。なにしろこんなに思い切ったことをするのだから失敗は許されない。おれの申し出を聞いたサワロ先生は少しだけ目を丸くして、それでもしっかり話を聞いてくれた。
「むう……、彼のような御仁が相手なら、相当苦手なもの以外は快く受け取ってくれるだろうがなあ」
「おれ、ハッサク先生の嫌いなものって知らないです! どうしよう! 先生知ってますか!?」
「む、むうう……!?」
 というやり取りのあと、おれの料理スキルなども鑑みたサワロ先生の提案で甘さひかえめパウンドケーキを作ることに決まったのだ。
 
(サワロ先生、おれ絶対やり遂げてみせます!)
 先生との特訓の日々を回想して美術室の扉の前に立つ。足をとめたおれにあわせてペルシアンも足元で座り込む。入るならはやく入れよ、という気だるげな眼がおれを見上げた。ペルシアンにとってはおれの心持ちよりも揺れるリボンのほうが気になることのようだ。綺麗に飾り付けたケーキを見て、決心を固める。ようやくおれは目の前の扉をノックした。
 
「おや、ナナシくん」
 そっと中を窺うと、ハッサク先生はすぐにおれのことを認めて座っていた椅子から半身を起こした。先生と向かい合う形で腰掛ける人物も同時にこちらに目を遣る。
「なんだ? キサマ」
 鋭い声を飛ばすのはボウルタウンのジムリーダー、コルサさんだ。おれは反射的に手に持っている袋を後ろに隠した。しまった。来客中だ。事前に約束もしていないのだから当然のことだった。二人の雰囲気からは、おれが入るまではきっと楽しく歓談の真っ最中だったことが窺える。出直そう。真っ白になった頭でそれだけははっきりと判断できた。
 
「コルさんはけしてこわいひとではないですよ! どうぞお入りくださいです」
 おれが入り口で固まっているのをハッサク先生は怖がっていると思ったようだ。たしかにどんどん血の気が失せているおれの様子は怯えと取られたって不思議じゃない。
「……ああ。キサマ、ハッさんの授業に出ていた学生か」
 意外にもコルサさんはおれの顔に覚えがあるようだった。彼は一人で納得したようになると、それで会話は終了とばかりにそれきり壁際の石膏像に目を向けてしまう。いかにもこっちには無関心といった風だが、その様子はハッサク先生に用があるおれのために、時間を取ってくれようとしているようにも見える。
 
(いま、やるしかない。)
 いまやらなければ次のチャンスなんて巡ってこないかもしれない。サワロ先生との特訓を思い出せ。自分を必死に鼓舞すると、足もとではペルシアンが暢気に大きな欠伸をしているのが見えた。
 
「あの、おれ、もうすぐ『宝探し』で……」
「ああそうですね! 応援してますですよ」
「それで、それでって言うのも変なんですけど、お世話になってるので、その。これ……良かったら」
 気が動転してていつも以上に言葉が出てこない。先生の前でおれっていつもわけわかんないことばっかり言ってる生徒な気がする。それを自覚すると余計に言葉が詰まってしまい、もごもごと口を動かすだけで贈り物を前へ差し出した。
「おやパウンドケーキですか?」
 ハッサク先生が言うのと同時に、手のなかの重みがなくなる。うまく前を見れないおれはそれでケーキが先生の手に移ったことを悟った。
「味は大丈夫なはずですっ、サワロ先生に教えてもらったので!」
「え! それではきみが作ったのですか!」
 
 予防線のように言った言葉にハッサク先生からは予想よりも大きな反応が返ってきた。言わないほうが良かっただろうか。でも万一既製品と思われて変にハードルが上がったら困るし……。なおも不安と緊張で頭を回しながら、ふと何かの気配を感じておれはやっと目線をあげた。
 
──そこには遠くで座っていたはずのコルサさんが超至近距離でおれを覗き込んでいた。
 
「ぎゃあ!!!」
 予想だにしないことにおれは本物の悲鳴をあげる。
 それを間近で聞いてもコルサさんは平然とした顔だ。いっぱいいっぱいだったおれもおれだけど、ほんとにいつの間に接近したんだ!?
 
「ナナシくん。小生、開けてしまっても良いですか?」
 コルサさんの瞬間移動にも、ハッサク先生は気にする素振りなく声を弾ませる。おれは顔を赤くすればいいのか青くすればいいのか分からない。そんな処理能力オーバーの頭で、もしかしたらコルサさんにもお裾分けをするべきなのかもしれない。とはじき出した。
「えっとあの、量は足りるんでコルサさんもどうぞ……!」
「いや、ワタシは構わん。それよりそのまま続けろ」
「は、え? 続ける?」
 あまりの目つきで見られるのでてっきり催促なのかと思ったが、なんか違ったっぽい。首を捻るおれを放っぽりだすと、椅子を運び出したコルサさんは、おれとハッサク先生をまとめて見える位置で悠然と腰を掛けだした。
 
「コルさん、本当によろしいのですか?」
「ああ。」
「そうですか。ではこちらだけでいただいてしまいましょうね」
 おれからすると奇行としか思えないコルサさんの行動に先生はとくに疑問を抱いていないようだ。仲良しの先生がそうならきっと問題ないってことなんだろう。そう思うことでおれはなんとか状況を納得した。折り合いをつけなければ、ハッサク先生が美術室の椅子を引きながらおれを待っている。
「紙皿とカトラリーまで持ってきてくださって。どうぞお寛ぎくださいですよ」
「おかまいなく!」
 
 促されるままに座り慣れているはずの椅子へ腰をおろす。ハッサク先生の器用な手つきでリボンが解かれるとそれを狙っていたペルシアンが目敏く目を光らせる。うにゃうにゃと前足でじゃれだすのでその爪が先生を傷つけやしないかと冷や冷やする。
「随分気に入ってしまったようですね」
「サワロ先生がくれたんです」
「なるほど、そうでしたか。確かに彼らしいチョイスです」
「そうなんです、おれだけじゃこんな、とても」
「小生のために頑張ってくださったのですね」
 図星をつかれて背筋がぎゅっと伸びる。座ったまま固まるおれを前にケーキを取り分け終えると先生はそれをしげしげ眺めていた。その眼光を前にするとおれの気付いてない粗があるような気がしてきて、勝手に渡したくせに後悔が浮かぶ。
「ほう……ふむ……いいぞ……」
 あと、なおもわりと近くでこっちを熱心に見ているコルサさんのぼやきも怖い。
 
「ナナシくん、ナナシくん」
「ひゃいっ!」
 いろんなところに注意が向いて散漫になっているおれを、先生は数度呼びかけて現実に引き戻した。
「いただいてしまいました。とても美味しいですよ!」
 そう言って、先生は躊躇いなく二口目も頬張った。疑う余地を与えないごく率直な言葉節のおかげで、おれは安心のあまり力が抜けてしまう。
「よかった……」
 胸の奥のほうから漏れ出たような安堵に、ハッサク先生はちょっと意外そうな顔をしてみせた。
 
「自信がなかったわけじゃないんです! おれもこんなに緊張するつもりじゃなくて、ちゃんと練習したし……でもサワロ先生に合格をもらったんだから取り越し苦労ってやつですよね、不安になったらサワロ先生にも悪」
「ナナシくん」
 先生の呼びかけは口走るばかりで要領を得ないおれを制止する。
「有難う。きみのこころが、小生には嬉しいですよ」
 ハッサク先生を前にしていつもから回ってしまうのは、おれ自身でおれの気持ちが明確にできていないからなのだ。なのに、先生はそんなおれの焦りも含めてぜんぶ分かっているというふうに微笑みを浮かべる。ハッサク先生のことは好き。それこそ、無理に理由をつけて会いに来るくらいのきらきらした憧れ。でもその想いを突き詰めればいったいどこに行き着くのか分からない。先生はそれをどこまで知ってるんだろう。
 
「じきに課外授業が始まると言ったな」
 凝視の目を止め、乱暴にクロッキー帳を取り出しながらコルサさんが少し振りに声を出す。今度の言葉は独り言じゃなくておれに向かっているようだ
 言いながら、こちらの返事なんて構わない彼はまったく変わらないトーンで続けた。
 
「そのペルシアンとともにボウルタウンまで来るがいい。ワタシが相手になろう。ハッさんを慕うとはなかなか見所がある」
「慕う!?」
「それは小生からもぜひお勧めしますですよ! ボウルタウンはその気候も然ることながら、町全体が美術館と言っていいほど素晴らしい町ですから!」
 いま、あまりにもあっさり確信を突く言葉が出た気がするがそれに躓くのはおれだけで、話は流れてしまう。あれ、「慕う」ってどういう意味だっけ。教師と生徒でも使っていい言葉なんだっけ……。
「ああ、それとセルクルタウンもいいですね! あそこには有名なパティスリーがありますので行ってみると良いです。きみのお菓子からは才能を感じますですよ」
「あ、ありがとうございます……」
 
 どうやらおれの作ったパウンドケーキはお気に召してもらえたようだ。あれの出来が良かったのは試行錯誤の結果なんだけど、先生は知る由もない。
 
 ハッサク先生の語り口はすっかり教師然としたものになっていた。生徒ひとりひとりに心を砕いて道を示してくれる。いつも授業で見る先生の姿に、おれは僅かな寂しさを覚えながらほっと息をついた。すると紙から視線をあげたコルサさんが喉奥から愉快そうな笑い声をあげた。
「そう気に病むな、キサマのおかげでワタシは絶好調だぞ。ハッさんのなかなか珍しい表情が見物できたからな」
「……意地が悪いですよコルさん」