夕暮れどきの廊下のあちこちで話し声がざわめく。今日はどの教室でも授業は休みなのに、いつまでたっても人気(ひとけ)が引く様子はない。教室から出てきた男子生徒がおれに声をかける。
「ナナシ! いまからグラウンド借りてバトルするけどお前はどうする?」
一緒に学園生活を送った顔、何度も授業で合わせた顔、「宝探し」中は一度も見なかった顔たちが胸元に花を飾ってみんな誇らしげにしている。
今日はアカデミーの卒業式だ。自由な校風で学び方も様々だから、同期であっても同じ日に卒業するとは限らない。だからこそしっかりした区切りが必要なんだと校長先生はおれたちの前で語った。たぶんおれたちの誰も、もう明日からはアカデミーの生徒じゃないなんて実感できてなくて、少しでもいまの時間を引き延ばそうとしているんだと思う。クラスメイトの誘い文句はあえてこれまで通りを装っているように聞こえた。その声に後ろ髪を引かれて、おれは振り返る。
そのとき、廊下の端で卒業生たちを見守るまなざしと目が合った。ハッサク先生、いつのまにか卒業式の会場から戻ってきてたみたいだ。
あ、と思って足を踏み出そうとすると、先生は一度会釈をしたのち、ケープを翻して背を向けてしまう。痺れを切らしたクラスメイトが一段階声を大きくしておれを呼んだ。
「おいどうすんだよって!」
「おれはいいや! じゃあな!」
被せ気味に叫ぶと後ろから薄情者、とか聞こえた。
ざわめきをかき分けていっても、早歩きでは大人の歩幅に追いつくのは簡単じゃない。それでもおれは廊下を走らないよう、という教えをちゃんと守って、なるべく、あくまで主観の範囲でぎりぎり早歩きに含まれる程度のスピードで進んだ。
部活棟まで差し掛かるとと少しだけ人の出入りは少なくなる。近づく気配にようやく気付いた先生は驚いた顔で振り返った。
「ご友人はどうしたのですか?」
どうやらさっきのやりとりを聞いていたようだ。おれは少し乱れる息をばれないように落ち着かせながら言った。
「いいんです、みんな番号とか知ってるし、SNSもやってるし」
「そうですか……、いまは随分便利なのですね」
だから卒業といったって今生の別れというほどではないのだ。いまの学生事情を先生は意外そうに受け止めながらも納得したようだった。
「それでも今日がきみにとって大事な日なことに変わりはないと思うのですが……。いえ、そうですね」
先生は小さく呟きながら少しだけ考え込むようになると、扉を開けておれを美術室の中へ招いた。
絵の具のにおい、水っぽいにおい、削れた木のにおい。今日は部活も休みらしく、中にはパモの子一匹いない。
「どうぞこちらへ」
静かな美術室に佇む先生の姿を目にしてしまうと、卒業という実感が一気におれを襲った。今日、これっきり、もうここには来れないのだと。
実のところ、おれにはクラスメイトの誘いを投げ打ってでもここに来なきゃいけない理由があった。伝えたいことがあるのだ。目頭が滲みそうになるのをぐっとこらえておれは口を開いた。
「大きくなりましたね、ナナシくん」
しかし先生の言葉がやわらかく思考を覆うので、おれは逸る衝動のまま開いた口をまた閉ざすことになった。
確かに多少身長は伸びたけど、大人の中でも背の高いハッサク先生からそう言われるのはちょっと変な心地だ。
「そう、ですか?」
「いえ、背丈だけではなくて……、宝探しで多くの出会いがあったのでしょう。折々にここを訪ねて顔を見せてくれるのが嬉しかったですよ」
ろくに用もないのに通いすぎてるのをあらためて指摘されると気恥ずかしい。どぎまぎしながら、おれは話をいつ切り出そうかとタイミングを窺う。でも、どうやら先生もなにか話したいことがあるようだ。それならおれのはそのあとでいいか。
「きみが今日という日を迎えることを、小生は……」
耳心地のいい、低い声を聞きながら次の言葉を待ってもそれはやってこない。
「ハッサク先生?」
「う」
おれの呼びかけに先生は言葉にもなっていない奇妙な声で応える。一体どうしたんだろう。思わず見上げると先生の力強い両目からガラス玉みたいな涙がぼろっと零れた。
決壊。先生の涙はまさしく堰き止めていた流れがどっと溢れ出すかのようだった。
「うう、す、ずびま、せ……っ」
嗚咽の合間に謝罪しているらしいのをなんとか聞き取ると、そこから先生の嘆きは一段と強くなる。大の大人の突然の号泣におれは呆気に取られてしまって反応が遅れてしまった。
「きょ、今日は小生、たくさんの子におめでとうを言ったのです……ッ! きみにもそれを伝えてあげたいのに、あげたいのにぃ!」
「せ、せんせ、大丈夫です。おれ、ちゃんと聞いてますから……!」
目の前で誰かにここまで泣かれたのは初めてで、宥めるような言葉を選びながらおれの気も焦ってくる。先生の泣き方はもはや何かの咆哮に近かった。でも泣き出してしまったあとにそれを止めるのが難しいことはおれにも覚えがある。
なんとか彼の涙を止めたくて、気付けばおれは先生の胸もとにまで駆け寄っていた。おいおいと泣き崩れる先生の頬を伸ばした手で拭っても、次から次に流れてくる涙には間に合わない。ハンカチを常備してればよかった。自分のがさつさが悔やまれる。
ふやけそうな指先で目もとを拭うと、瞼の隙間からきらりと輝くものが見えた。先生の瞳は旅の最中で目にした強いポケモンたちにも劣らない、鋭い色をしている。どこからか夕暮れの光が差し込んだのか、それが輝いたかと思うと先生の大きな手で、おれの手首は握りこまれてしまう。あれ、もしかして止められたの?擦りすぎて痛かったんだろうか。
おれはどうも乱暴というか、力任せにしすぎるところがある。先生の目が真っ赤になってしまったら大変だ。読めない表情を窺うように覗き込もうとすると力強くおれの身体は引き寄せられた。
「ふぎゃっ!?」
驚きと、顔が先生の胸板と衝突したことで格好の悪い声が出た。先生は両腕でおれを抱き込みながらしゃくりあげ続けている。彼がひっくひっくと喉を鳴らすたびにおれの身体まで一緒に上下した。
「せんせ、どうしたんですか。言ってくれなきゃ、おれ分かんないです」
「ナナシくん……」
苦しいくらいに抱きしめられた隙間からなんとか腕を這い出して、先生の大きな背までたどり着かせる。他人の慰め方なんてわからないから、こどもにしてあげるように背中をぽんぽんと叩いた。おれの肩のあたりは先生のとめどない涙でちょっと濡れてきている。
「ああ。きみはやっぱり成長しました。それに比べ小生は……」
やっぱり、ハッサク先生に褒めてもらえるとそれがどんな状況でもおれの頭はぽっとしてしまう。
「身勝手な想いできみを留めておきたいなんて。きみに対して、あまりに失礼で……」
先生の声は震えていた。喜んでいる場合ではまったくないのを知って、おれはなんとか頭を切り替えようとする。
「先生、もしかして寂しいってことですか?」
それはあくまでおれなりの解釈でしかない。先生の、たぶん複雑な心理に、そうならいいなという希望をたくさん含んで。先生はちょっと目を丸くして、それから言いづらそうに視線を伏せた。
「そ……そうです」
「おれも、おれもですっ!」
絞り出すかのような彼の言葉におれは思わず飛びついた。すると吃驚させてしまったのか、あれだけ溢れて止まらなかった先生の涙が止む。
先生もおれと同じきもちだった!おれはすっかり舞い上がるような気分で真上にある顔を覗き込んだ。目が合うと先生はいつものやさしい顔を作りかけて、うまくいかず眉根を歪めた。
「でも、きみはパルデアを巡ってたくさんの経験をした。きみは巣立っていくひとなのですよ」
言い聞かせるような声はやっぱり悲しげに揺れている。
確かに彼の言う通り、「宝探し」の期間はより広い世界を教えてくれた。いろんな町で、いろんなひとたちに会って、旅するなかで自分の進路を決める生徒も多いだろう。おれもその当事者だ。
「先生、聞いてください」
だからこれを伝えるならいまだ。先生がおれとの別れを惜しいと思ってくれるなら。おれは本当なら真っ先に伝えたかったことをようやく口にする。
「──おれ、リーグ職員の募集に受かりました!」
「ええっ!?」
見開かれた両目が、ぱっとおれを正面から捉えた。その目もとはさっきまでの涙のせいで少しだけ赤くなってしまっていて痛ましい。
「お、おめでとうございます」
「有難うございますっ!」
先生は反射的にリアクションをしながらも、おれの言わんとするところを掴みきれていないようだ。おれもおれで、何の前置きもしていなかったので仕方ない。
だってハッサク先生はリーグの中枢を担うひとなのだ。そんなひとに募集受けました、なんてしっかり合格をもらうまでは言い出しにくいものだ。
「それはそうかもしれませんが、これまたどうして……」
どうしてかと問われて、つい面接でのことを思い出してしまう。だから志望動機ならはっきりしていた。
各地のジムを巡って、リーグにまでたどり着けるトレーナーは全体の一握りだ。勝負であるからには当然勝ち敗けがあって、ここまで進んできたことも、負かせてしまったポケモンたちともぜんぶそこでおしまい。旅に出る前はそう思っていたのに、おれが思い至ったのは挫折じゃなかった。
「挑戦してみて、おれ、楽しかったんです」
全力で挑んだのち、それを見ていた周りのひとたちがおれに声をかけた。「惜しかったなあ」とか「うちのジムリーダーは手ごわいから!」とか口々に言っていたけどそのどれも興奮冷めやらぬ様子で、おれは無意識に身構えてしまった緊張を解いたのだった。
だって負けてしまったのだから、てっきり誰かから怒られでもするような気がしていたのだ。でもそのときの人々の言葉はおれには不思議と称賛するようにも聞こえた。それではっきり分かったのだ。リーグのシステムはチャンピオンを決めるものだけど、それ以外を振るいにかけるものじゃない。アカデミーでのハッサク先生のまなざしを思い出す。そもそもその先生がいる機関なんだった、というのに気づくとそれはあっさり納得できる話だった。
「それで、力になれたらいいなって」
「そうですか、そうでしたか……」
おれの話を聞き届け、先生は深く息を吐きながら腕の力を緩めた。
動機は別にあるとしても、結果としてさらにハッサク先生を追いかけるようになってしまうのは我ながらどうかと思ったけれど、先生の心底安心したような顔を見てそれは思い直す。どうやらその点の遠慮は無用らしい。
「それにまだおれ自身も諦めてないですから! 社会人でもリーグに挑戦するひとはいますもんね」
「ええ、楽しみに待ってますですよ」
嬉々となってつい声が大きくなるおれに先生は笑いかけた。見上げる先の瞳は涙のあとでまだきらきらして見えた。
「ナナシくん。改めてになりますが本当におめでとう。お恥ずかしいところを……困らせてしまったでしょう」
「困ってなんか、」
おれだってああも泣きじゃくることなんてなかなかないから、大人である先生がそれを恥ずかしく思うのは当然だろう。確かにびっくりしたし、どうしようかと迷いもしたけどそれは困るのとはちょっと違った気がする。むしろいち生徒の卒業でそこまで感傷的になってくれるのは先生の優しさの表れであるとも思うのだ。
「きみの優しさに感謝します。なにより、小生との別れを惜しんでくれてありがとう」
自分の気持ちをうまく言い当てられないでいると、先生は言葉を続けた。先生の言うことはまるきりおれが彼に伝えたいことでもあった。おれから離れていた先生の掌がおれの手を覆う。大きさもこんなに違うのに、同じことを想っているんだと思うとなんだかこそばゆい気持ちがした。
「しかしきみ、職員といっても配属はいったいどこなのですか?」
少し口調を早めて、さっきまでとは種類の違う声で先生は言った。おれはとにかく合格できたことで頭がいっぱいであんまり細かいところまで確認していない。
「パルデアは広いですから場所の確認は重要ですよ。……小生から確認を取ったほうが早いですね」
ぽかんとしているとそれで全て察したのか、先生はすみやかに懐からスマホロトムを取り出した。飾りっけのない初期使用のカバーだ。先生もスマホ持ってたのか。現代人として当然のことだけど、なんとなくイメージになかったので先生とやり取りするには最悪アオガラスに伝書鳩を頼み込むところまでは考えていた。ひと安心しているおれの視線に気が付いて、先生はスマホから顔をあげる。
「あ、そうですね。きみの連絡先も教えていただかなければ。あと、きみがしているならSNSとやらも……」
「せんせ、SNSやってんですか!?」
「いえ、したことはないですが。正直こういったものにはあまり明るくなくて」
思わず声をあげたけど、先生はそれを否定して人差し指一本で画面を操作している。その様子からは連絡先の登録も手慣れていないのが窺えた。
「先生がそんなの始めたら人気コンテンツになっちゃいます!!」
少なくともおれはめちゃくちゃアクセスしてしまう。先生がそういうのやってなくてよかった。
「そうすると、いけないでしょうか?」
「ど、どうなんでしょう、ちょっとおれにも予測つかないというか、いや、個人の自由なんで全然いいとは思うんですけど」
「でもきみもやってるんですよね?」
「おれみたいのがやるのとは違うんですよお!」
必死に訴えても先生には未知の領域の話らしくあまり響いていない。実際のところおれにそれを止める権利はないんだけど、でも絶対毎日チェックしちゃうし、そうなると余計付きまとってるみたいだからよくないし。
「でも羨ましいじゃないですか、関係が変わっても繋がっていられる手段があるというのは」
その口振りはいつもよりちょっとあどけないものにも聞こえた。
そんな風に言いながら、先生の指は連絡帳の画面をまだ右往左往さまよっている。ひとまずおれは彼のスマホロトムにおれの番号を教え込むことからすることにした。
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