耳元に燈る

 ウァプラが家に帰ってくるのには相変わらず何の前触れもない。
 せめて事前に便りでもあれば夕食を一人分多く用意しておいたりなどできるのだが、急激に気温が冷えた日も、嵐の日さえも帰ってこなかったとなればその予測は困難だ。弟の考えを読み取ることができたら苦労はないのに、かなしいことにそれも難しいことだった。
 いままさにこちらを凝視している彼の心情すら、僕にはまったく分からないのだから。
 
「おかえり。あのね。今日はポトフがあるよ」
 ひとまず、とばかりに声をかけてみてもウァプラは応じず、大股でずんずんと距離を詰めた。
 ただいまの挨拶どころか、兄の胸ぐらを掴むことに一片の躊躇いもない。遠慮なく引き寄せられた先でウァプラの両目がじろりと僕を睨みあげる。
「これは、なんだ?」
 至極単純な言葉は非難の色をしていた。ウァプラはそれだけ投げかけると空いたほうの指で僕の耳たぶへ触れる。柔いそこはすぐに形を変えるが、彼の指先はそこに存在する金属の感触を捕らえていた。
「なにって……」
 
 実は一週間ほど前から僕の耳にはピアスがはまっている。彼が詰め寄る原因がそれにあると気付くのに時間が要したのは、時が経って、僕の中で違和感が薄らいでいたからだ。確かにこれを彼に見せるのは今日が初めてだろう。それでも、ここまで詰め寄られる理由がいまひとつわからない。少し会わないうちにお兄ちゃんが不良になったとか、そういうショックを感じているんだろうか?でもピアスなんて、こう言ってはなんだが、ありきたりな装飾品なのだ。
 
「隣領の特産で装飾を作るのが流行っているというから、それで参考までにいくつか貰ってね」
「あのクソ領のクソ領主かよ」
「こらこら」
 暴言の多さはそのまま機嫌の悪さを表している。
 
 これまでピアスを空けたことがなかった人間からすると、耳に穴を空けるというのは恐ろしいことのようにも思えたけど耳たぶの痛覚は案外鈍い。空けてから数日は熱を持つこともあっても、鉱石の嵌められた耳飾りはいまは難なく耳に収まっている。
「当然だろ。身体からしたら単なる傷と同じだ、こんなもん」
 ウァプラは吐き捨てるように言った。
「自分で空けたのか? んなことお前はできねえよな? それもクソ領主か?あ?」
 今日の彼の詰め寄り方と言ったらすごい。なんだか知らないが、隣領を相当毛嫌いしてるらしい。
 確かに、着飾るためだけに自分から傷をつけるのは自然的なことではないし、ある種不条理ともいえるだろう。でも、ただのおしゃれなのだ。そこにそれ以上の意味なんてない。
 僕より年下のはずなのに、ウァプラはときどき保守的な面がある。それは本当の彼が人間ではないからだろうか。ともかく、ウァプラには考えの凝り固まったところがある。それは確かだ。
 
 なおも非難めいたまなざしを向けられたままでいると、ふと僕のなかに反抗的な気持ちがわいてくる。
「僕の身体は僕のだもの……」
 それは叱られた子どもが拗ねるのとまったく同じ口振りだった。力ない声でも至近距離のウァプラにはしっかり聞き取れたことだろう。口に出してから、子どもっぽい言い方をしてしまったことが恥ずかしくなる。ウァプラは何も言わず唇を引き結んだままだ。しかしその目の色が僅かに濃くなる気配を、僕は確かに感じ取った。
 と、思えば僕の上半身は手荒な力でさらに引き寄せられた。何も言わないままの彼の唇が耳元へ寄せられる。
──そして思い切りよく歯を立てた。
 
「いたァ!」
 さすがに加減はされたようで血が出るほどではないにしても、突然の痛みに僕は声をあげた。
「な、何するんだい!」
「ふん」
 ちょっと涙目になる僕に、またしても答えは与えられない。ただ、どこかやり遂げたような表情でウァプラは踵を返して歩き出してしまった。
「え。お、おい」
 どんどん離れていく背に僕はじんじん熱を持つ耳の痛みも放って声をあげる。今日はご飯もあるんだよと言ったって、残念ながらそれは彼の歩みを引き留める理屈にはならなかった。

 

 

 次に彼と再会するのに、今度は三日とかからなかった。
 この前の反省を活かして、僕はやや強引に食卓へと彼を招き入れることに成功した。テーブルには綺麗に並べたカトラリーと、今日は木苺のタルトがある。ウァプラは小さいころからあまり食に頓着しない質だが、甘いものなら素直に受け取るのだ。僕は兄としてそれを知っている。
「その誤解いい加減……。はあ、仕方ねえな」
 こちらの期待を悟ってかウァプラは口を開いた。億劫そうに装うのもまったく気にならない僕は、どうぞどうぞと彼のために椅子を引く。それを彼の視線が射抜いた。一体なんだろう。と僕もそちらを覗き込む。そして食卓の明かりに照らされて、彼の耳に緑色が控えめに光を反射するのをやっと目にした。
「あれ、ウァプラ、耳!」
 そう。ウァプラの耳には数日前にはなかったピアスが光っていた。
「遅え」
「それはごめん、でも、どうして?」
 この間の反応から彼がピアスに関して良い印象を持っていないのは明らかだった。あんなおじいちゃんみたいなこと言ってたのに、突然どんな心境の変化だろう。
 疑問符を浮かべているうちにウァプラの骨ばった腕がのびて、僕の肩を掴んだ。とてもそんな腕力を持っているとは思えない強さで、僕は自分が引いたばかりの椅子に座らされてしまう。その背後にウァプラが立つ。
「……傷にはなってねえみたいだな」
「え? ああ、この前の」
 
 開けた穴はとっくに治っているが、僕の髪を指で除けるウァプラが言っているのはそれではなくて、兄の耳に勢いよく歯を立てたことを言っているようだった。正直、僕に対する彼の仕打ちが手荒いのはいつものことなのであまり気にしていなかったのだが。
 
「まあ、もっとひでえことしてるしな」
 耳のごく近いところでウァプラが低く笑って、僕は肌の表面が粟立つのを感じた。
「わ、ウァプラっ!」
「なんだ、喜ぶなよ」
「そんなこと!」
 
 自分が悪魔なのだと明かしてからの彼は嬲り方の路線が変わってきた。隠しごとをやめて、取り繕うのもやめたのだとすれば願ってもないし、いつになくこちらを気に掛けているように見える彼に気遣わしく触れられて、それは確かに喜ばしく思ってしまうのだが。
 でもここは食卓だし、いつ誰が来るとも分からないのだからそれに則さない触り方はやめてほしい。
 僕の言い分を話半分に聞きながら、ウァプラは握っていたものをこちらへ転がした。
「やる。詫びだ」
 きらっと光るのが見えて、僕はその光を取りこぼさないよう手のひらで受け止めた。それは緑色に光る石を加工したピアスだった。ウァプラの耳に付いているのと全く同じ作りに見える。
 
「僕にも探してくれたの?」
「分かってるなら訊くな」
 わざとぶすくれた感じの言い方で、でもいつになく素直な返事だった。
「……綺麗なライムグリーンだ」
 僕のために。しかも揃いのものなんて。
 
 なんだか高揚して、小さな緑色とウァプラの顔を何度か見比べるように視線を動かしてしまう。ウァプラはそれを何往復か見届けると、僕の手から贈り物を取り上げた。
「つけてやる」
 僕が飽きずに感動しきるので、痺れを切らしたらしい。耳元へさらに近づいて、さっさとつけていたピアスは外されて等閑に放られる。あれだってひとからもらったものなのに! 耳たぶを摘まれてじわじわとそこが熱くなる。ウァプラに触られると僕の体はやっぱりどこか変だ。
「勝手に期待してるだけだろうが。お兄ちゃんヅラして我慢しろよ」
 気付いたら噛まれたときとは違う刺激で、また僕はじんわり涙ぐんでいた。
 
「それであのクソ領主にはてめえのとこの鉱石は二度と使わねえって言っとけ」
 と、やっぱりすごい嫌ってるようなので、まだまだ僕は兄として表に立っていかなきゃならない、と気を引き締めるのだった。