ポケモンリーグの長廊下でおれは身を縮こませていた。胸の前にはすらりとした脚が横断していて、それがそのまま壁まで伸びて道を塞いでいる。足ドンってやつ。
リーグ四天王の一人、チリさんはトレードマークともいえる細長い体躯を屈め、整った顔でにやりと笑った。
「ちょっとええかなあ?」
目と口をきゅっと上にあげて、それはどう見ても笑顔の形をしてるのになんとも言えない凄みがある。
チリさんとおれが直接話をするのはこれが初めてのことだ。いくら働いている組織が同じといっても四天王なんて普通なら雲の上の存在だし、なかでも彼女の人気ぶりといったらまさにアイドル並みで、内外問わずファンがいるのもあって一介の職員が関われることはまずない。それがどうしてこの人の脚におれは行く手を阻まれてしまっているんだろう。
「な、な、なんでしょう」
とにかく、訊いてみないことにははじまらない。思わず上擦った声が出ると、おれの怯えが伝わったのか、チリさんは剣呑な雰囲気をほんの少し和らげて笑みをもらした。
「自分、いつも元気でええなあ」
「はい! あざす!恐縮です!」
一体何を言われるのかと冷や冷やしていたら、降ってきたのは他愛のない言葉だった。元気があるというのはハッサク先生からも何度か言われたことがあるのでおれ自身、長所である自覚がある。なので、おれは単純に褒められたのだと判断して、ほっと息をついた。でも目の前の脚は一向に退かない。
「先生ェ? ……ああ、大将のこと」
と、チリさんはおれのぼやきになにやら怪訝な様子で、しかしすぐに納得した顔になった。……顔は近いままだが。
確かに、アカデミー関係のひと相手ならまだしも、リーグ内で彼を先生と呼ぶひとはいない。変な顔をされるのは当然のことだ。それでもなかなか改められないのはおれがしょっちゅう先生先生、とついて回っているせいだろう。気恥ずかしくなりなんとなく目を伏せても、チリさんはそんなおれに構わずに言葉を続けた。
「なァ自分、ハッサク『先生』と同居しとるってほんと?」
その声はわざとらしく、内緒ごとを交わすかのように微かなものだった。
おれには、それがなんだか、なにか重大事を糾弾するかのように聞こえてしまう。
実際のところ、彼女にその意図があったかどうかは不明だ。もしかしたらおれ自身のやましい気持ちがそのように思わせたのかもしれない。つまり、彼女の指摘は紛れもない事実なのだった。
──ご実家に帰られるのでしょうか。
アカデミーの立派な学生寮を引き払うための荷造り真っ最中のおれに、ハッサク先生は問いかけた。おれがリーグに就職することを伝えてから、先生はあれこれと世話を焼いてくれている。四天王自ら仕事場についていろいろ教えてもらえるのはなんとも頼もしい話だ。
「一度顔を出そうとは思ってますけど……」
しかし帰ったところでおれの部屋は学生寮に入ることになったころからとっくに両親の第二の部屋と化している。かといって、とくに行くあてもないので、一度家に帰ってからどこかに一人で住める場所を探すつもりだ。要はまだまったくのノープランなのである。
かいつまんでその辺りを伝えるとハッサク先生はふむ、となにか一考するようになって。
「それならちょうど小生の家に部屋が余ってますですよ!」
と言った。いかにも名案を思い付いたという感じの明朗な声色だった。
「ん、え? そうなんですか」
先生の言葉の意味するところを汲めず、おれからは気のない相槌が出る。先生ってやっぱり大きい家に住んでるのかなあ。とか思うだけでその先のことなんてちっとも思いついていない。
「はい。よかったら一度見に来てください。気に入ってもらえると思います」
「え、え?」
「そうと決まったら掃除をしなければ! ……おや、フカマル先輩も手伝ってくれるのですか?」
「フカフカ」
ハッサク先生はそう言ってなにやら大はりきりで拳を握る。急展開についていけてないおれの膝を先生のフカマルがぽんぽんと叩いた。
あれよあれよと、とんでもないことになっている。
後日、本当に宣言通りハッサク先生に連れられてしまったおれは成すすべなく半ば呆然となっていた。
先生の家は街から少し離れた丘に建っている一軒家だった。曰く、ずっと住んでいるわけではなく、アカデミーで働くようになってから中古の邸宅を貰い受けたのだという。
「わ、玄関広い! 庭もでかい!」
状況を忘れて、おれは歓声をあげた。街から少し距離があるのもあって、周りに家は多くなく、どちらかというと別荘地みたいな雰囲気だ。草のにおいの混じった青々とした風が吹く。はしゃぐおれを視界に入れながら、ハッサク先生は顔を綻ばせた。
「彼らに、せめて家でくらいは伸び伸びさせてやりたくて」
家に着くなりそう言って、先生は彼のポケモンをボールから外へ出した。確かに広い間取りの家や庭はドラゴンポケモンが闊歩するのにも十分な大きさだった。ボールの居心地はポケモンたちにとって悪いものではないようだけど、自由に過ごせる場所が多いのはいいことだ。
「確かに一軒家じゃないと大変ですね」
各々、気ままに寛ぎだすドラゴンポケモンたちを見ると、ここが彼らにとっても過ごしやすい場であることがよくわかる。野生でもなかなか目にかかれない巨体が家の中を歩き回っているのはインパクトがでかい。壮観な景色に呆けているのを先生の声が引き戻した。
「ナナシくん、きみはこっちですよ」
「あ、はい!」
広々とした廊下も、ポケモンたちのためと知れば納得できる。でも大きさに先生なりの合理的な理由があるにしても、この家はもともと巨大なポケモン用に建てられたものではないのだと思う。いくらポケモンたちと一緒といっても、一人暮らしでは部屋を持て余してしまうのも無理のないことだった。
案内された部屋もきっとそのうちのひとつなのだろう。アカデミーの寮もなかなか広いけど、先生が用意してくれた部屋はそれに劣らない。単純な広さだけじゃなく、置かれたベッドやテーブルもなんだか高価そうな造りだ。
「ここってやっぱり、元はどこかのお金持ちの別荘かなんかなんですか?」
そんなところに住んでる先生も只者じゃない気がするが、そこは敢えて口にしなかった。
「人づてに譲り受けただけで、大したことではないですよ」
呆気に取られ続けるおれに、先生は謙遜の表情を浮かべて言った。おれ的にはそんな交友関係があるだけで十分すごいと思うんだけど。
「それより、どうぞ中を見てみてください」
「フカ!」
先生の言葉とともに、フカマルがずんぐりした胸を張る。そういえば掃除してくれるって先生もフカマルもはりきってたな。おれはフカマルのつるっとした頭を撫でてから部屋中を眺めた。ベッドサイドには小窓があって、そこからさっき見た庭がよく見える。
「台所や電化製品を含めて生活に必要なものは好きに使っていただいて構いません。家の中はポケモンを自由にさせていいですし、部屋には鍵もついています」
どこを探したってないほどの好条件だ。マジで断る理由がひとつもないおれはほとんど思考停止して先生の説明を聞いていた。もともとおれが考えていた単身者用のアパートではポケモンを好きにさせられないところも多かったし、それを含めて非の打ち所がない。
「あ、でもおれ、お金なくて! 家賃とか払えないです」
そこでおれはやっと現実的な問題を思い出す。まず資金がないのだ。これからの給料だってハッサク先生と比べたらたかが知れてるってものだろう。
「必要ありませんですよ。前の持ち主からは買い取り済みですから」
「いやそんなわけにはいかないですよ!」
「ですが、ご覧のように持て余してしまっているもので、使ってくれるひとが増えるのは家にとってもいいことですし……」
確かに、人が使わなくなるとものの寿命って短くなるというのは聞いたことがある。でもこんなこと、あまりに都合がよすぎた。ハッサク先生なら、おれじゃなくたってほかに住んでくれるひとがいそうなものなのに。そもそも先生と一緒の家に住むなんて分不相応だ。こうして家にお招きされたってだけでおれには十分なことだった。
「ナナシくん、」
まごついているおれを先生が呼ぶ。呼ばれるままに、先生が腰掛けたベッドへおれも同じように座った。干したてのシーツのにおいがする。
呼ばれたからにはそれに続く言葉があるはずだ。おれは考えるのを一端、隅に置いて先生の言葉が紡がれるのを待った。
「きみがあの日言ってくれたこと、小生はとても嬉しかったのです」
「おれが?」
「はい」
突然そう言われても、それが一体なんのことなのかすぐに察しがつかない。でも、それなんですかと簡単に尋ねるのが野暮に思えるほど、ハッサク先生の声色は柔らかい。
「同じ気持ちだと。一緒にいたいのだと言ってくださいました」
あ、きっと卒業式に話したことだ。ちょっと困ったように笑う先生を見て、ようやくおれは思い至った。
先生に抱きすくめられるという大事件のさなか、おれは確かにそう言ったのだった。お別れは寂しい。一言一句そのままではないけど、言いたいことはそういうことだ。あのときの気恥ずかしさと高揚を思い出して、おれは先生を見つめるだけで何も言えなくなってしまう。
「ナナシくん。きみだから、小生はここにいてほしいと望むのです」
ハッサク先生の顔は真剣そのものだ。ふかふかのシーツの上に置かれていたおれの手を取る。
「ですから、どうか。お願いします」
さっきまで記憶の中にしかなかった先生の温度にふたたび触れられ、もう頭は真っ白で、なのに胸は熱くて、息をするのも意識しなきゃできないくらいで。だから、おれは、つい。
「は、はい、おれでいいなら。はい」
と、言ってしまったのだった。
それから日はもう一週間ほど経っていて、おれは本当に、本当に何の不自由もない日々を送ってしまっている。毎朝起きて夢じゃないかと思うくらいだ。
「チリ」
廊下の奥のほうから、よく知った声がやってくる。ハッサク先生とは数時間ぶりの再会だ。先生は相変わらずアカデミーとリーグを行き来する多忙の身だが、こうしておれと出勤日が重なるときは彼のドラゴンポケモンに乗せてもらって通勤している。
先生が近づいてくるのを認めると、チリさんの迫力のある美形はやっと正常な距離感に戻った。おれはほっと息をつく。
「なんやぁ、仲良くお話してただけやないの」
「行く手を阻みながら、なにが『仲良く』ですか」
腕を組みながらハッサク先生は久々に見るお説教モードだ。アカデミアのどんな不良生徒も敵わない眼光を前に、まったく負ける素振りなく舌を出してみせるチリさんはさすがと言う他にない。
「こっちが悪者かいな! チリちゃん、心配して声かけただけやのに。なあ?」
「余計なことはせずともよろしい」
話を振られたものの、チリさんの言う心配の正体が分かる前にハッサク先生がそれを一蹴する。同じ立場上、遠慮がないのかもしれないが、四天王のときの先生はちょっと語調がこわい。
問答はチリさんが折れる形で終わったらしく、ハッサク先生は普段の調子に戻って、おれへ向き直った。
「すみませんナナシくん。小生、このあとアカデミーへ向かわなければならず、今日は一緒に帰れないのです」
ハッサク先生はやっぱり忙しい。大きな背をしょんぼりさせる先生に、おれはなるべく明るい声で返事をする。
「わかりました。じゃあ、夕飯準備して待ってます!」
ろくに家賃も払えていないおれに出来ることといったら家事くらいだ。正直、まだまだ胸を張って出せるほどの腕じゃないのだが、だからこそ修行のし甲斐もある。
「それは、帰るのがますます待ち遠しいですね」
それに、ハッサク先生はこうして顔を綻ばせてくれるのだ。その微笑みに目を奪われながら、視界の隅ではチリさんがなにか言いたげに口をぱくぱくさせているのが見えた。
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