5

 バターを塗って、表面をカリカリに焼いたトーストを口に含みながら、おれは向かい側に座るハッサク先生をじっと眺めた。

 バターたっぷりトーストは先生だって好きなはずなのに、今朝の彼は口数少なく、どこか一点を凝視している。その仕草はなにか重大な考え事をしているといった風だ。なので思考の邪魔をしちゃ悪いかなと思って、朝食に手をつけつつ、おれも先生の様子を黙って見ていた。
 朝一番の挨拶を交わしてしばらく、先生の咀嚼ペースはみるみる遅くなっていく。すると、だんだん、これってもしかして異常事態なんじゃないかという思いが巡りだす。ハッサク先生の生活は規則正しく、起き抜けだからと調子を崩したところは見たことがない。そんな先生に限って、まだ夢の中ということはないだろう。

「あの。ハッサクせんせ、何かありました?」
 そこまで考えると今度は心配になってきて、おれはようやく呼びかけてみることにした。
 ぱっと顔をあげた先生が思考の海から帰ってくる。先生の印象的な目ってマーマレードの色に似てるんだよなあ。

「ああ、すみません。ナナシくん。ぼーっとしてしまい……」
「それはいいんですけど、大丈夫ですか? 体調、悪いですか?」

 先生はさっきまでの、口もとをぎゅっと結んだ真剣な顔をやめ、今度は困り顔になってしまった。
「いえ。そういうわけではありません。ご心配には及びませんですよ」
 とは言ってくれるものの、その表情は浮かないままだ。
 先生はなにか考えながら、横目で時計のほうを確認した。家を出るまでにはまだ少し時間がある。

「どうしても、実家へ戻らなければならない用事ができてしまって」
 ほんの少しの間を置いたのち、先生は言葉を押し出すように言った。
「実家」
 思いがけない単語におれはついオウム返ししてしまう。ハッサク先生の家のことについては、実はいままで一度も聞いたことがなかった。でも、そりゃあ先生にだって実家はあるだろう。いくら大人だからって。
「遠いんですか?」
「そうですね……」

 やっぱりどこか上の空の先生が言うには、次の週末は家を空けるとのことだった。
 こうしておれが先生と一緒に暮らすようになってから、泊りがけの外出なんて初めてのことだ。この大きな家に一人。ポケモンたちがいるにしても、そう実感するとたった二、三日のことでも寂しさがわいてくる。
 だが、そんなことじゃ駄目だ。家のことはおれに任せて、ゆっくりしてきてくださいと言ってみせるのが一人前の同居人じゃないか。引きとめたくなる気持ちを振り払っておれは彼のほうへ向き合った。

「ナナシくん、小生が留守の間、コルさんの家にいてもらえますか」
 しかしその決心は、先生からの提案で空振りになってしまう。
「え、コルサさん?」
「ボウルタウンには行ったことがありますよね。豊かで、良い町です。コルさんには小生からお願いしておきますから……」

 コルサさんはボウルタウンのジムリーダーだ。キマワリを探して町中をかけ回ったジムテストはよく覚えている。そのことについては頷きながらも、まだおれは話の全体像をつかめないでいた。
 おれは先生からすれば、そりゃあ、まだ子どもなんだろうが、留守を任せられないほどと思われているのはさすがにちょっと不本意だ。

「おれ、一人で留守番できます」
 一人で、という部分に反応してか、足もとでは聞き捨てならないとばかりにアオガラスが嘴で小突いてくる。
 いつまでもポケモンに目付け役をされている時点で説得力に欠けるかもしれないが、おれだって社会に出ているわけだし、コルサさんの手間を取らせることもないと思う。
「ええ、そうですね。そうでしょうとも」
 おれのちょっとした反発に先生は同調を示すようにゆっくりと頷いた。
「なら……」
「それでも、お願いします。どうか」

 だが、顔つきは神妙なまま、おれの反抗は制されてしまう。その瞳はつよく、こちらに懇願するようだった。

 果たして、おれってこんなに押しに弱かっただろうか。
 その真意が分からずとも、抗う気持ちはもう少しも湧かなかった。

 

 ハッサク先生たっての希望とあれば、コルサさんはそれを二つ返事で了承した。実際おれも二人のやり取りを見ていたけど、彼の二つ返事は悩む素振りの一切ない、まさに文字通りのものだった。
「一泊はやむを得ないでしょうが、二日目には帰りますので」
 コルサさんの家の玄関扉を閉める前に、確固たる意志の篭った声色で先生は言った。
 まるで戦地にでも赴くみたいな気迫に、おれは何も言えないで小さく手を振る。そんなおれに、同じく親友の姿を見送ったコルサさんはくるりと向き直った。

「祝いの言葉を述べていなかったな」
 紛うことない、おれに対する本日第一声だ。
「リーグに就職したそうじゃないか、おめでとう」
 言うだけ言うと、コルサさんは細長い脚を使って廊下を進み始めてしまう。
 なんとなく、浮世離れしたひとなので、正直おれのことは忘れられていたっておかしくないと思っていたのだが、そうでもないらしい。

 街を代表するアーティストとジムリーダーを兼任する彼は当然ポケモンリーグにも所属している。つまり彼とは同じ組織で働いているってことになるのだ。まだ新米のおれは、ジムに関わる仕事は任されていないが、アカデミーで生徒をやっていたときよりは距離が近くなったと言えるだろう。
「あ、有難うございます」
「こちらの部屋を使うと良い。半分倉庫のようになっていてな。手狭ですまないが」
 先を案内するコルサさんは部屋の明かりを点けると、雑然とした中を慣れた様子でひょいひょい進んでいく。おれの反応は彼にとってはどうもワンテンポ遅いらしい。移り変わっていく会話になんとかついて行こうとこっちも少し口調を早める。
「わざわざすみません! こんな、突然で」
「なに、ハッさんの頼みだ。キサマが気負うことではない」
 ハッサク先生のことを語るコルサさんの表情は一段階明るい。

(あ、このにおい……)
 先生の家にはじめて招かれたときもそうだったけど、ひとの生活スペースに立ち入るのは少し緊張する。それでもどこか安心感を覚えたのはそこがアカデミーの美術室を彷彿とさせる雰囲気があったからだ。物の溢れっぷりは教室の比ではないが、塗料とほのかなニスのにおいはおんなじだと感じられた。

 部屋の奥からは主人の訪れを悟ったらしいミニーブとキノココがひょこひょこと現れては部外者のおれを見つめる。草ポケモンって他のタイプに比べて物静かだ。それとも、コルサさんのポケモンたちが特別そうなのだろうか。

「ああそうか、世間は休日だな」
 床に積まれた道具や不思議なモニュメントをどけて来客用のスペースを作ると、コルサさんはふと思い出したように言った。多分、カレンダーの曜日などとは無縁の生活なのだろう。ボウルタウン担当の職員がそれで苦労しているというのを聞いたことがあるし。
「生憎、ワタシは構ってやれんが、町を見てくるといい。良い町だ。なにより、ここなら気取られることもあるまい」
 同僚の言葉を思い出すおれに向け、コルサさんはなにやら物々しく言った。
「けどられるって、何にですか?」
 それをなんとなく流すことができなくて、おれはほぼ反射的に聞き返す。だって、まるで敵対するなにかがあるみたいな言い方だ。コルサさんは腕を組み、怪訝な顔を作った。
「当事者が話さないことをワタシが話そうなどとは思わん」

 当事者。彼がそんな風に義理堅く言う相手は一人しか思いつかない。たぶん、それは先生が浮かない様子だったことや、今回おれが預けられたことにも関わるのだろう。単に言われるがままのおれとは違って、コルサさんには先生の意図が分かっているのだ。
 彼のきっぱりした物言いは悩みを引きずる余地を与えない。実際のところ、気になって仕方がないのだが、そのおかげでなんとかおれは話を飲みこむことに成功した。

「わかりました。あ、そうだ。キッチンは借りられますか?」
「……そうだな。自炊してくれるならこちらも助かる」
 おれの要望にコルサさんは一度顎に指をかけて考える仕草をしたが、すぐに答えは返ってくる。
「調理器具一式は……不足なくあった、はずだ、確か、奥に」
 それは語りかけるというよりはおよそ自問自答に近かった。おれはひとまず荷物を置くと、ぼやき歩くコルサさんの後を追いかけた。

 

 結局、ハッサク先生が帰ってきたのは二日目の夜だった。
 事前にスマホロトムに連絡を受け、たまらず外へ出たおれの頭上へ、ドラゴンポケモンの羽ばたきとともに先生は現れた。

「ハッサク先生っ!」
 カイリューの背からおれを見つけた先生がかけ寄って、腕のなかにおれを捕まえる。
 あまりに熱烈な密着におれの体と思考は固まる。ハッサク先生はそんな状態のおれをなおも強く抱き寄せると、近づく距離のままに言った。

「ただいまです、ナナシくん」
 おれはというと、先生に会えた嬉しさに加え襲ってきた恥ずかしさに、ちいさくなって潰れてしまいそう。なので、顔全体が見えるような位置まで腕の力を解かれたときは心底から安心した。それでも近さに変わりはないが、おれはなんとか平静を手繰り寄せる。先生はこちらを覗き込むように身を屈めて言葉を続けた。

「何も変わったことはありませんでしたか?」
「先生のほうこそ……」
「こちらは、そうですね。変わりないといえば変わりありませんでした。とにかく、きみが安静であるなら良かった」

 ボウルタウンは二人が言う通り朗らかで、そこで過ごす週末はひたすらに安泰だった。それこそ、心配を向けられるのが申し訳ないくらい。
 だからどちらかといえば逆じゃないかと思って聞き返してしまったのだが、先生の顔が厳しく強張るのを見ると良くない質問だったかもしれない。何かいやなことを思い出させてしまったに違いないのに、それでも最後はおれのほうへ慈しむようなまなざしを向ける。

「先生、お腹すいてませんか? 今日は先生、帰ってくると思って。先生のぶんもあるんです」
 なんとか話題を変えようと思い、おれは別の質問をすることにした。でも、こうも言葉を弾ませてしまっては、おれがどれだけハッサク先生のことを待っていたか、きっと伝わってしまう。そんなおれを、先生は深く観察するみたいに見つめた。
「有難う。きみが用意してくれたのですか?」

 実はそうなのだ。居候の身で、だからこそとも言えるけど、この二日間おれは料理番を買って出た。
 コルサさんに案内されたキッチンを見れば、そこは他の部屋とほとんど同じようになかば物置と化していて、彼が食に頓着していないことを分かりやすく表していた。なにせ、コンロに平気で本などが置いてあるのだ。型だけは最新式の電気コンロのため問題はないのかもしれないが、本来火を扱う場所に紙物が置いてある絵面は怖すぎた。
 おれは大慌てでそこを片付けて、まず簡単なスープを作ってみた。そして頼まれてもないくせにコルサさんへ献上してみる。一杯分のスープは難なく彼の細身の体に受け入れられた。次の昼はリゾットを作ってみると、それも問題なく受け入れられる。

「この二日間、おかげで随分と人間的な生活をさせられたぞ!」
「うわっ!」
 そんなおれの回想を、突然現れたコルサさんが付け足した。相変らず神出鬼没なひとだ。……いや、おれの意識が先生にかかりきりになっていただけかもしれないけど。
 死角からの出現に驚いたおれは、目の前にある先生の服にしがみつく。
「なんと、コルさんへの餌付けに成功するとは……」
 友達同士の気安さか、先生のわりと不躾な言いぐさもコルサさんはしたり顔で受け止めた。彼の言うところの「餌付け」が功を奏したのか、その顔色の悪さにはいくらか改善が窺える。
「コルさんにはよい薬です。なかなかできることではないですよ!」
「そ、そうでしょうか」
 おれの反応はけして謙遜じゃない。大の大人に食事をさせただけのことだ。それなのに先生の言うことに、本人であるはずのコルサさんまで強く頷いたりしている。不摂生に自覚があるのに改善していないなら確かにそれは重症だけど。

 二人がくれる称賛をうまく受け取れずにいるおれの手をハッサク先生の手が包んだ。しばらく握ったままでいたため、服にはちょっと皺ができてしまっている。
「では、今夜は小生もご一緒させてください」
 でも、先生はそれを咎めたりしない。握りこんでいたおれの手はいつのまにか解かれ、そのまま彼の導くほうへと引かれていった。