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※想像上のハッサク父

 

 

 彼が受け持つ美術の授業は他の科目に比べ座学が少ない。教壇ではなく生徒たちの中心に立ち、同じ目線で自分なりに授業を説く。その距離感をハッサクは気に入っていた。
 彼はこれまで、ここまで年若い者と接するという経験をしてこなかった。生い立ちや立場がそうさせるのか、子どもの感覚からすると自分はどうにも威圧感がありすぎるらしい。だがこうして生徒たちの素晴らしい作品に囲まれ、美しいもの、愛すべきものについて語ることのできる環境は頑なな表情を自然とにこやかなものにさせた。いつしか、美術教師としてのハッサクの評判はむしろ良いといっていいほどになっていた。
 
 白羽の矢を立ててくれたクラベル氏に感謝しなければならないな。……ペーパーテストの採点をしながらハッサクは日ごろ考えていることを反芻していた。リーグとの二足の草鞋はなかなかに忙しいものだったが、アカデミーで得られる経験を思えばなんら苦ではない。
「この子は確か……、ナナシくん」
 赤ペンを滑らせながら、ふとハッサクは目を留める。いつも熱心な顔で授業を聞いてくれる生徒だ。そのくせ、視線に応じてそちらへまなざしを返すと、顔を俯かせてしまうのでハッサクはその少年の目をまともに目にしたことがなかった。
(恥ずかしがり屋さんなのですかね?)
 思い出して、少し微笑ましくなりながら「よくできました」のスタンプを押す。生徒の成長を誇らしく感じられるとは、すっかり教師然としたものだ。自分自身の変化に、ハッサクはどこか俯瞰した気持ちで思った。

 

 

「テストをお返ししますですよ」
 順に名前を呼んでいくと、いよいよ次はナナシの番だ。彼はぴょんと背筋を伸ばすと早足でハッサクの前までやってくる。しかし、目が合う前にまた俯いてしまい、仕方なくハッサクはまるいつむじに向けてプリントを返却した。
 
「はい。よくできましたね」
 今回のテストの出来を、ハッサクは高く評価していた。彼がいつも頑張っているのはよく伝わるものの、それが必ずしも点数で報われるとは限らない。だからこそ、こうして目に見える形で結果が出たのは面と向かって褒められる良い口実だった。
 ハッサクから声がかかると、ナナシは口もとをまごつかせながら手渡された紙に目を向けた。途端、幼さを残した瞳がぱっときらめいた。ぱちぱち瞼を開閉して熱心に紙面を見つめている。そして何度目かの瞬きののち、ようやく瞳を微笑ませた。
――愛らしい子だ。
 非常に素直な感性で、ハッサクはそんなことを思った。彼の表情に燈ったささやかな喜びをいじらしいとも思ったし、それを分かち合いたいとも。
 
 一度話したことで慣れてくれたのか、それからナナシは積極的にハッサクへ話しかけるようになり、……彼がその少年をいち生徒以上に大切に感じるようになるまでそう時間はかからなかった。
 ハッサクが目にするナナシはいつだって一生懸命だ。どこでそうなってしまったのか、彼はいつも何かに対して引け目を感じている節があった。彼のひたむきさにハッサクは何度だって胸を打たれてきたが、それが自己否定の翳りに起因するものならば一概に良しとすることはできない。
 
 卒業後、自身の家に住まわせることになってもその質はなかなか変わらないようだった。
 バスルームからリビングへ戻ったハッサクはナナシがソファで眠っているのを見つけた。きっと疲れているのだろう。学生と社会人の忙しさは毛色が違う。最近の彼が慣れない場所と環境でまた一段と気を張ってしまっているのは端から見ても明らかだった。
 
 せめて起こさないよう息を潜めるハッサクより先に、彼のドラゴンたちが眠るナナシへ顔を寄せている。
 ハッサクが大切に扱っていることが分かるからだろう。遠慮なしに接するのはフカマルくらいで、ナナシが眠っているのを好機にようやく検分を試みている、という様子だ。普段仕草にやや粗暴さがあるセグレイブですら、喉の奥で控えめに鳴き声を漏らすのに留めている。
 
 気心の知れた彼らの珍しい様子は眺めるに値した。それをしばらく見守ってから、ハッサクは竜の群れにそっと分け入る。まるで電池切れを起こしたかのようにくったり凭れる身体に腕を差し入れて抱きあげるのは竜たちにはできないことだった。観察対象を取り上げられて、彼らの目は少し不満そうだ。しかし、こうして一緒に暮らしているのだから検分の機会はこれからいくらでもある。ナナシをベッドで寝かせることはそれよりもよほど優先されるべきだ。
 ハッサクは彼に、彼の心と肉体が休まる場所を作ってやりたかった。腕の中で寝息を立てるあたたかな温もりを抱いているときも彼にあるのはその一心だった。
 
 それなのに、それなのにだ。
 
 ある日アカデミーから帰宅したハッサクは驚愕に震えていた。
 いつもであれば元気よく出迎えてくれるはずのナナシが今日はやってこない。どうやら来客があったようだ、と玄関口でいち早く他者の気配に検討をつけた彼は勢いよくリビングへ向かった。
 
「お帰りなさい、ハッサクさん!」
 健やかな声が返ってきたことに一旦安心する。ポケモンリーグでともに勤めるようになってからなにか思うところがあったのか、彼は長年呼び慣れた『先生』呼びを切り替えようと試みていた。そのことに心を和ませながら、彼と向かい合う形である男の背に目を向ける。
 
 見知った老齢の背だった。敢えて確認するまでもない、ハッサクの父が、あれだけ一族の人間を介してきたことなど知らぬとばかりの顔で訪ねてきたのだ。それも自分の不在を狙って!
「一体どうしたのですか、こちらに断りもなく」
 自然と硬くなった言葉節をナナシが不思議そうに見上げた。彼は自分と一族との不和を知らないのだ。途端に振る舞いを恥じるような気になって、ハッサクは目を伏せた。
 
「一緒に住んでいるのなら、おまえだけの家ではないだろう?」
 しかし対する男は尤もそうなこと言って、悪びれる様子もない。実父ながら、ハッサクは男のこの整然とした口調が苦手だった。己に非があるなどと露にも思っていない物言いだ。
 
 テーブルの足元では留守番を務めていたフカマルとナナシのアオガラスが部外者をじっと見つめていた。この二匹は異種族ながら波長が合うらしく、時折こうして行動をともにしていることがある。だがそれらに拘らうことなく、男はテーブルへ視線を落とす。そこではナナシのカジッチュが、これまた様子を窺うようにリンゴから目を覗かせていた。
「……もう結構。お返ししますよ」
 男の眼から解放され、カジッチュは一直線にナナシの手の中へ戻っていく。しかし、なお男の言及は続けられる。
「そのカジッチュは捕まえてどれくらい経ちますか?」
「えっと、3か月くらいです、だいたい」
 少々声を上擦らせながらの健気な答えも、男にとってはそれ以上の価値を持たない。
 
 ドラゴン使いの一族という特殊な出自はハッサクの悩みの種であり続けている。なによりこの男こそが呵責のほとんどの元凶であると言っていい。それがいま、片眉を顰めて怪訝な様相をあらわにしていた。
「進化方法を教えていないのか?」
 非難の響きを帯びているのは断じて思い違いではない。
 
「カイリュー!」
 呼び出されるとともにボールから飛び出したカイリューに、ナナシは目を丸くさせた。ともに生活するうち彼のドラゴンポケモンにも慣れてきたものの、あまりにも唐突なおでましであれば無理はない。
 もはやハッサクには形振り構っている余裕はなかった。一刻も早く引き離すという一心で、ほとんど力任せに父を立ち上がらせるとそのまま玄関のほうへ押しやってしまう。
「あ、あの、先生っ?」
「すぐに戻ります!」
 庭へ出たカイリューはすぐさま翼を広げた。自分の役目をしっかり理解しているのだ。先を行く彼らからは数歩遅れてナナシも外へ出てくる。慌てて躓づきそうになる彼に駆け寄れないことに、ハッサクの心は確かに傷んだ。

 

 

 咄嗟に残した言葉の通り、それから一時間もしないで再びハッサクは玄関の扉を開けた。玄関口で所在なさげにしていたナナシは弾かれたように顔をあげて、ハッサクの後ろの辺りをきょろきょろと見回している。
「父は捨ててきました」
「えええ!?」
「別に放り捨てたというわけでは。心配要りませんですよ、あの程度ではピンピンしてるくらいで……」
 思わず述べてしまった、心情が多分に含まれた言葉をハッサクはなんとか訂正した。ドラゴン使いの長が何の供もつけずにやってくるわけはないのだから心配には及ばない。
 
 実際、カイリューの背に押し込められた父は落ち着き払っていた。息子の癇癪くらい予想の範疇とでも言うように。それが相手が実父であることのなによりの厄介さに違いなかった。
「なぜあれを進化させない?」
 ごうごうと風が音を立てる中で男は言った。無機質でありながらそこに邪念はなく、彼には息子の考えが心底分からないようだった。そして息をひとつ吐くとこう言ったのだ。「いい加減、不出来な子に共感するのはやめなさい」と。
――強引にでも追い返して良かった。
 ハッサクはどっと疲れて肩の力を緩めた。
 
「とにかく、頑丈なのです。ドラゴン使いは」
「それなら良いんですけど……」
 その真偽はナナシには判断できず、納得するしかない。聞き返したって良いのだが、いまはそれよりも目の前でおおいに疲弊した様子の彼のほうが気がかりだった。
 ハッサクを見つめる瞳は言うべきことを決めかねて揺れている。そのまなざしを受ける彼も彼で、ナナシの頭から爪先までを目で追った。どうやらあのとき、怪我はしなかったようだ。
 
「申し訳ありませんでした」
 そのことを確認すると、自然と言葉が漏れ出た。このまま父の言動をなかったことにはできない。強くそう思い、立ち尽くしたままハッサクは小さな彼の腕を取った。
「きっと、きみを傷つけてしまったでしょう……?」
 本人が気丈に、なんてことないように振舞うのなら、改めてそれを自覚させるのは善いことではないだろう。傷つけられた心が謝罪ごときで慰められるわけもない。それはハッサクだってよく分かっていることだ。
 
「おれは、別に、その。それに、ハッサクさんは何も悪くないじゃないですか!」
「いいえ。今回のことは小生が引き起こしたことです」
 掴んだ腕にわずかに力がこもる。出来ることならば自分の家に纏わるすべての事象は、彼とは無縁にしておきたかった。
 こうして一族と離れていてもハッサクの生活は彼らに監視されていた。それでもあの父が里を離れてまで接触してくるなど、いままでなかった。監視の者からナナシとの関係が知れてしまったのだろう。そうでなければあり得ないことだ。
 全て自分の生まれと行いのせいなのに、それで彼が気持ちを抑えるなんてあってはならない。
 
「本当に、気にしてないんです。おれのことはハッサクさんが見つけてくれたから」
 熱心にまなざしを向けられて、ナナシはようやく観念したようだった。心の内を語りながら、睫毛を伏せる。
 それを追うように覗き込んでしまったのは贖罪のためと言いきれるだろうか。ただ彼の心の一切を取り逃がしたくないだけだと糾弾されればハッサクは認めざるを得ない。
「……でも、」
 そんな心情を知らず、ナナシは健気に言葉を探す。
「カジッチュ以外だって、おれにはみんな大事なのに。ほかは全然興味ない、みたいな。それが嫌……でした。すみません」
 
 思ったとおり、彼は傷ついていた。しかしそれは自身に対する誹りにではなく、彼は自分のともだちのために憤っていたのだ。非常に腹立たしいことながら、ドラゴンタイプでないポケモンとその使い手は父の価値判断にすら相当しないのだろう。ハッサクは改めて身内の非礼を恥じ、不甲斐ない気持ちでいっぱいになった。
 
「きみは本当に、小生には勿体のない子です」
 しかし胸を埋める切なさはいつのまにか別のものへと変わっていった。ハッサクは腕に捕まえたままの身体をさらに抱き締める。そして、さらりと前髪が撫でたその額へ唇を寄せた。
「せ、先生っ!」
 いまの話から、どうしてそんなことになるのかナナシにはまるで分らない。顔を真っ赤に、目を白黒させたってハッサクは微笑むだけで疑問に応えてはくれなかった。