鈍い鉄の臭いが立ち込める。一方的に押し付けられる言葉。四方八方からやってくる視線は悪意に満ちたもので、向けられたことのない純度の悪意に僕は耐えきれず目を背ける。背けたはずだった。僕の意識では。しかしそれとは裏腹に視界は代わり映えせず、むしろ向かってくる視線と真っ向からぶつかり合う。眼に力を込めて、こちらを見ている視線たちひとつひとつを確認するように目に焼き付けていく。
──けして許すものか。その体の持ち主の怒りが、こちらにまで伝わってくるようだった。そう、僕の意識下にないその体はきっと誰か別人のものなのだ。誰かの経験を、記憶をレンズ越しに見ている。そんな感覚だった。
ほうぼうから何か捲し立てられる。その意味は理解できないが、聞いているだけで恐ろしくなるほどの怒号だった。それでも体の持ち主は視線を逸らさない。体が熱い。痛みは熱となって誰かを蝕んでいく。その痛みは僕のものではない。それなのに……。
「ナナシ、しっかりしろ!」
──暗闇。
さっきまでの感覚が一転する。よく目を凝らせば、そこは一切の闇ではなく、薄明かりが反射して僅かに辺りの様子を僕に伝える。さっきまでの悪臭も痛みもいつのまにか消えていた。こちらを凝視する複数の目がなくなったことが何より僕を安堵させた。一度、スンと鼻を鳴らすとそこからは湿った音がした。
「……戻ってきたか」
顔の近くで、深く息をつく存在を感じる。彼が右手で僕の額を掻き分けると、前髪は少し重たくなっていて、僕は自分が随分と汗をかいてしまっていることに気づかされた。
「グリプス……」
最愛の存在の名前を呼ぶと、やっと僕の胸に落ち着きが戻ってくる。数回呼吸を遂げてからようやく僕はさっきまで夢を見ていたのだ、と思い至った。
酷い悪夢にすっかり気をやられてしまった僕の頭は、深夜のベッドに彼が乗り上げているというのに気に留めるのを全く忘れてしまっていた。見れば自分の手は、最愛の彼によってしっかり握り込まれていて、ああ、彼が僕を悪夢から救い出してくれたのだ、と確信する。
「今の、は」
所詮自分の頭の中での出来事だ。それを問いかけるなんてあまりに馬鹿げている。しかしグリプスの瞳は揺らぐことなく、さらに確かな力で僕の手を握った。
「いまみたいのは初めてじゃねえな」
彼の指摘はまさしく図星だ。
幼い頃から、身に覚えのない恐ろしい夢を見ることは多かった。でもそれは自分の臆病が原因だと思ってきたし、それにどこまでのリアリティがあろうと夢は夢だ。醒めてしまえば内容は霧散してしまう。今日ほど実感を伴って魘されるのは初めてのことだったが……。
「あれは俺の記憶だ」
夜の静寂のなか、ばつが悪そうに彼は告げる。
「俺の、過去の記憶だ」
囁やくような音量でそう言った。過去の、という含みを僕は理解する。つまりさっき見たのは彼の、曰く、前世での経験だったのだ。僕は彼の経験を追体験していた。それが分かるとまた、胸に膨大な情報量が溢れて、留めることができなくなる。
「そんな、あんな酷いこと、」
他ならぬ彼の身に起こったことだったのだ。あんな一方的な罰を与えられて、しかも故郷まで追われるなんて。どれほどの痛みであったことか。その一端を知っただけでも僕はどうにも耐えきれず、次々と感情は涙になった。
「ほんとに、ピーピーよく泣くやつだな」
呆れ返った声で彼は言う。夜の暗さに慣れてきた目はうっすらとその表情を窺えるようになっていた。いつもは底の方に潜ませてなかなか顔を出さない、優しい眼差しで見下ろされていることに気がつくと、彼はそれを誤魔化すように少し乱暴に僕の涙を拭った。それでも決壊した涙腺は止まる様子がない。なんとかしないと彼までどんどんびしょ濡れになってしまうのに。感情のコントロールが効かない自分を恥じると、余計止めるのが難しくなるようだった。
「……メギドラルの変態どもの考えた仕組みなんざ知ったことじゃねえが、」
言いながら、あやすような手つきで彼は頬を撫でる。
「俺とお前の魂はひどく似ている、そのせいであんな見なくていいようなもんを見るんだろう」
「魂……」
聞き慣れない言葉を口の中で反復する。それは彼と僕が兄弟だから、というのだろうか。
「馬鹿、逆だ。似ているから、俺はお前に一番近い場所に生まれてきたんだ」
相変わらず、彼の故郷の話は一片だって僕には理解ができない。彼は自分の肉体と意識を完全な別物と認識しているから、魂とか、そういう見えにくいものをさも当然のように語ることができるのだろう。少なくともヴィータの死生観ではない。
唖然として、身動きできないでいると胸元に重みが降りてきた。彼の頭が僕の身体に乗っている。
「嫌なもん見せて悪かったよ」
くぐもった声で彼は言った。どうやら本気で自分に非があると思って、謝ってくれているらしい。
でもそんなのは大したことじゃない。それよりもあんなことがお前の身に降りかかったということのほうがよっぽどおおごとじゃないか。彼の言う通りなら、あれは過去のことだし、今さら僕がどう思ったって届くことはない。それでも悔しい。どうすることもできないのが歯痒いのだ。
「なんでお前がそんなこと気にするんだ」
気付けば、伏せられていた彼の顔はいつのまにかまたこちらを見ていた。自分と同じ瞳の色なのにどうしてこうも心が騒ぐのだろう。チリチリと少しずつ胸を焼くような。同じ色をした父や母に見つめられてもこうはならない。
「だって、当然だろ、それは……」
「あれは“ウァプラ”の身に起きたことだぞ。グリプスじゃない」
彼が指し示した問いに胸がどきりと軋む。確かに、その通りだ。あれが前世での出来事だとすると、あのときの彼は僕の弟でもなんでもない。他人の記憶、なのだ。
「それは、」
そこで僕は言い淀んでしまう。彼は黙ったまま僕の答えを待っている。ちゃんと答えてやらなければ。固唾を飲み込むと、いやに大袈裟な音が鳴った。
「……そんな簡単に割り切れないよ」
たっぷり考えて、出てきたのはそんな言葉だった。僕の答えが出るまで根気よく待っていた彼は視線を外してしまう。ああ、きっと失望させてしまった。でもこの曖昧な言葉が僕の真実だ。
「だって、捨てられないよ。僕にとっては弟のお前も、でも……」
「──もういい、さっさと寝とけ」
ふ、と身体に乗っていた重みが軽くなるのを感じて、僕は焦った。握られていたままだった手に、今度はこちらから力を込める。すると相当意外だったのか、ベッドから立ち去ろうとしていた彼の動きが止まった。訝しげな目でこちらに視線を向ける。
言うならいましかない。心を決めろ。口を慣れない形に歪めて、思い切って声に出した。
「う、ウァプラのことだって、他人だなんて思えない」
予行演習もなしに絞り出した下手くそな発音をすぐに後悔する。声も震えてしまったし、これじゃ説得力なんてあったものじゃない。さぞ呆れさせてしまっただろう、と彼を窺い見るとまた伏し目がちに目線を逸らしてしまっていた。かなり意を決した発言だったんだけど、嫌がられてしまっただろうか。
「お前……、なんでそんな、クソ……、」
そう言って眉間にシワを作る彼はいままで見たことのない複雑な表情をしていた。顔を顰めて、歯をギシリ、と噛み締めて何かを抑えているような。でもそれは怒りではないのだ。呆れているわけでもなさそうで、僕はいくらか安心しながら話を続ける。
「あのね、さっきの話なんだけど」
「どれだよ……」
「あの、魂が似てるから、順序が逆だって話」
ああ、とか返す彼の声色は気のない雰囲気だった。それでも出て行く素振りがないようなのをいいことに、僕はさらに言葉を続けた。
「なんだか、ひとつ分かったかも」
「だから何が」
先を急かされ、慌てて言葉を探す。彼の気はわりと短い。
「魂が似てるのって……きっと血縁よりも、もっと根本の、もっと深いところで繋がってるみたいで」
あまり実感はないことではある。でもそのことを思うと心臓が暖かくなって、はやりだすのだ。
僕は彼の言う事実を嬉しいと感じていた。彼との繋がりがここまで嬉しいと思うこと自体が。もうすでにひとつの確信を強める証拠に他ならない。
「だから、こんなに……好きなのかなって」
好きとか、愛してるなんていままで兄として何度も言ってきたことなのに、まるで初めて口に出したみたいにどきどきする。いっぱいになった胸から溢れ出たような言葉だ。気持ちが少しでも伝わるようにと、せめて繋がれたままの手を握る。
ひとまず言いたいことを言い切ったことにほっとしながら、彼の反応を確認する。するとさっきから歪められていた顔がどんどんと厳しいものになっていくではないか。そんななか、低音で彼がやっと絞り出したのは
「……クッソ苛つく……」
であった。
彼の造形は僕の贔屓目を除いても美形だと散々思っているのだが、こうした表情はかなり鬼気迫る力がある。どうしよう。困っていると、彼の言葉が続けられた。
「結局、お前、俺のことどう……、ああクソめんどくせえ、もうこっちで勝手に判断するぞ、いいな」
最後の方は駆け足になっていた口振りは本当に苛立たしげだ。言うや否や、顰められた顔がちょうど僕の真上にやってくる。
あ、このパターン。このアングルにはとても覚えがある。触れ合うほど近づいた距離が、それでもまだ触れていないことに、いまはもどかしさを覚えている。それを僕ははっきりと自覚した。待ちきれない想いでいると、期待通りに、彼の唇がゆっくり降りてきて僕に触れてくれた。
「ん……、もう帰っちゃう?」
「ここで帰れるわけねえだろ」
唇を合わせる合間に我慢できずに問いかけるのを彼は律儀に返してくれる。これもいまさっき自覚したことだけど。
「よかった、僕、お前と離れてるの、本当はすごく嫌なんだ」
正直に告げた言葉に、今度は憎まれ口も揶揄もやってこない。ウァプラは唇を結んだまま僕にただ触れていた。
「……でも、それはそれとして、父さんの墓前にはなんて説明しよう」
「ベッドで親父の話すんな、引くほど萎える……」
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