ウァプラには5つ歳の離れた兄がいる。一見間の抜けているようにしか見えない彼が、その実並みの人間よりも秀でた才覚を持っていることは一番近くで見てきたウァプラにはよくわかっている。あの他人に対する鈍い態度は己が強者であるという自負からくる余裕なのだ。
しかし兄が飛び抜けて優秀なのはウァプラにとってはあまり面白いことではなかった。兄弟間の優劣だとか、まして家督の継承権争いだとかそんなくだらないことを言っているのではない。単に、ただでさえ彼とは五年も歳が離れているのに、これ以上差が広がることはウァプラにとって耐え難いことだったからだ。そう、それはウァプラの意地だった。一般的に考えればウァプラだって十分に優秀な部類だ。それでも彼が己の研鑽を怠らなかったのは兄の存在があったから。彼の目先にはいつも兄の後ろ姿があった。
やがて若くして領主の座に収まった兄のもとには、日々来客が身分を問わずやってくるようになった。応接室の灯りが灯っていることはウァプラにとってももはや日常だ。幼い頃から貴族社会の黒い部分をも目にしてきたからだろうか。自分の他人への興味がひどく希薄であることをウァプラは自覚していた。
であれば何故、その日見知らぬ声と会話を交わす兄の様子をわざわざ見に行ってしまったかというと……、それは単なる直感、虫の知らせ。そう呼ばれるもののためだった。
兄は間違いなく強者である。これは階級のみに限った話ではない。しかし再三言う通り、強者であるがゆえに常に他人に対して気を抜いているのだ。その他大勢ヴィータの、小賢しさにばかり長けた考えなど生まれながらの高貴の体現である兄には知る由もないものばかりだろう。──であれば、俺が兄を守らなければならない。扉に手をかけたウァプラの胸中は客人一行への敵対心でいっぱいだった。重々しい扉を開ける。
「……ウァプラ、珍しいな」
声もなく姿を表した弟に、ナナシはすぐにその目を向けた。ウァプラと同じ色をした瞳だが、不思議とその目は自分のものより澄んだ色に見える。
「誰だ? ご家族か?」
ほっとしたのも束の間、異物がナナシに声をかける。いかにも凡雑な声はウァプラを不快にさせた。来客の一行は数人の男女だった。年端もいかない少年から大柄な男まで、まるで目的の読めないそれらにウァプラの視線は鋭くなる。少なくとも兄の治める領民ではない。
「ああ、弟なんだ」
穏やかな微笑を含ませて、ナナシが扉近くで固まったままのウァプラへ歩み寄る。ウァプラの思った通り、こんな怪しげな連中相手にこの兄は警戒心ひとつ見せていない。よそ者たちに弟を紹介する様子は嬉しげですらある。ウァプラの近くで兄の香が香る。貴族の嗜みの一つだが、ウァプラは身につけていない。兄の存在を嗅覚からも感じ取ることになってしまい、思わず緩みかけた気をすぐにもとに戻す。
そんなウァプラの視界の先で一行の一人──、一際小柄な少年が声をあげる。
「えっ! 弟!?ヴィータのか?」
ウァプラの眉間に深い皺が刻まれる。嬉々として弟の肩に手を添えていたナナシの表情が一瞬にして強張った。
「おいおいモラクス……!」
「す、すみませんナナシ……、モラクスが余計なことを」
「……いや、いいんだよ……そろそろしっかり話をしないといけないと思っていたところだからね……」
仲間の失言を取り繕う遊び人風の男、シスター風の女を怒るでもなく、ナナシはそんなことを言った。
つまり、彼らとナナシの間にはウァプラの知らない何かが共有されているということだ。それをウァプラは真っ先に嗅ぎつけた。自分の肩に触れたままだったナナシの手首を掴む。日々鍛えた槍術で培った自慢の握力である。
「一体これは何の話だ?」
「あっ、いや。えーと、」
途端に歯切れが悪くなる兄の手をウァプラは更なる力で握り込んだ。
「ナナシの弟さん、これはだな」
リーダー格らしい男が入れようとしたフォローの言葉がさらにウァプラを苛立たせる。
そうだ、そもそも、このわけの分からない連中に気安く呼び捨てさせているというのがおかしいんだ。ウァプラの怒髪天はもうすぐそこだった。
「ごめん、話はまた後日でいいかな!食堂に夕食を用意させているから……、」
「やったぜ、話が分かるー!」
「キノコキノコー!」
限界を感じ取ったナナシが声をあげると客人たちは速やかに応接室をあとにした。正確にはどたばたと無駄に雑音を鳴らしながら、だが。異物がいなくなったことで部屋には兄弟だけが残された。しんと室内が静まり返る。ウァプラは兄を見据えた。高貴で、唯一で、弟には蜜のように甘いいつもの兄だ。
「何を隠してる」
ウァプラの言葉は単刀直入だった。たったの少しだって猶予はない。兄に自分の知らない一面があるなんて、考えただけでも堪え難いことだった。
ナナシは一度息を吐くと、観念したように告白を始めた。
「僕はヴィータではないんだ」
それは密やかな、囁くかのような声だった。
兄の言葉はすらすらと耳に入ってくる。兄は自分のことを悪魔なのだ、と言った。前世を悪魔として過ごし、その記憶と魂を継いで生まれてきたのだと。それが『メギド』。悪い冗談だ。ウァプラの常識は確かにそう思うのに、兄の言うことを撥ね付けられない。
「でも、お前のことは本当の弟……、ううん、それ以上に想っているよ」
そう言った言葉は懇願に近かった。あの、兄が。自分の手を握り返し、乞うような眼差しを向けている。
「……で、さっきの奴らは」
兄の言うことはそう簡単に受け止めきれるものではない。ウァプラは次の疑問に目を向けることにした。ナナシはというと、懺悔にも似た自白を受け入れられたと思ったのか、幾分か明るさを取り戻した声でその質問に応えてみせた。
「彼らもそう、メギドだよ。とても大事な使命を帯びていて、旅をしているんだって」
どうやら兄とさっきの連中は初対面ではないらしい、その語り口からウァプラはそう判断する。兄を捕まえたままの手に再び力が込められるのを、ナナシは気づかない。
「それで、あいつらについていくってのか?」
その声はひどく低いところから吐き捨てられた。なにがメギドだ。大事な使命ってなんだ。
──お前はどうあっても俺から遠ざかるのか。
そんな想いが頭を過ぎった瞬間、ウァプラは力任せにナナシを押し倒していた。身体を思い切り押し付けると存外容易く兄の身体はバランスを崩す。よろめいた足を数度もつれさせ、ナナシはなんとか柔らかなソファの上に二人分の身体を着地させた。
争いごとを避けたがる兄にどうして人並み以上の力が備わっているかは長年の疑問だったが、なるほど人ならざる存在であるならこんなものなのかもしれない。しかしウァプラにのしかかられている最中もナナシは弟へ目立った反抗を見せなかった。理由は分かりきっている。ただのヴィータでしかないウァプラの身を案じているのだ。
それをいいことにウァプラはナナシの唇へ自分のそれを押し付けた。びくり、と兄の身体が震える。掴んだままの手に湿り気が帯びる。
ウァプラは一度ナナシから顔を離し、自身の薄い唇を舌で舐めた。そんな情景を至近距離で見せられたナナシは二の句を告げられずにひたすら目を白黒させている。いい気味だ。
ああ、生まれながらの距離なんて関係なかったんだ。ウァプラはそう腑に落ちる。
「兄弟以上に想ってるってさっき言ったのはお前だろ」
兄の吐いた言葉を用いてやりながら、再び兄に口付ける。動転しているらしい彼の唇を奪うことはあまりにも容易だった。
こういう意味じゃない、とかなんとか反論する声を自分の喉奥に収めることに成功したウァプラは、自称悪魔の兄なんかよりもずっと獰猛な目を僅かに和らげた。
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ハロウィン記念で書いたものでした。