眉間に力を込めて見おろすと、眼下の男前は気立てのいい笑みを浮かべてみせた。思わず気を許してしまいそうになる裏表のない表情は男の装う武器の一端だ。それを知っている者にとっては少しも気が休まるものではない。
「やあ、ナナシくん。しばらくだね」
ざわざわとした喧騒の中、彼は長い脚を優雅に組み変えながらそう言った。
男の正体を思えば大衆酒場などは本来場違いであるはずなのに、傍から見れば甲冑姿の俺の方がよほどこの場にそぐわないようだ。
現に俺が入ってきてからというもの、客の視線がチラチラと背を刺すのを感じる。憩いの時に兵士が同じ空間にいるなど、疎ましく思われて当然だ。少々気後れしそうな想いを押し込み、厳しい顔を作る俺を涼やかな眼差しで男が見ている。
男の造形は冷淡で、こうして黙っているとツンと尖った印象すら受ける。それを知った上で、先ほどのような屈託のない笑みをつねの標準装備として選択しているのだろう。抜け目のないことだ。
しかしいくら装備品を磨いたところで、本性までは隠しきれない。この男の忍ばせる“どこか違う”という違和感は目を惹く容姿と相まってそのまま浮世離れした魅力に繋がっているようだ。
……そもそも浮世離れもなにも、この男はこの世のイキモノですらない。今でこそヴィータと同じ形をしているがそれも“ガワ”だけで、中身は得体の知れない<悪魔>である。彼が自らを交渉官ヒュトギン、と名乗ったのはすでに数週間前の出来事となっていた。
単身で王都に接触してきた悪魔を、俺の実質の上司でもある天使たちは受け入れた。ハルマニアとメギドラルは休戦中の敵世界同士。その事実を考えれば、今回の対応は異例のことであるとすぐに理解できる。
ガブリエル様は非情なほど合理的な性質だ。その彼がひとときでも敵を受け入れた、とあればそこには確かな利益があるということだろう。それに関して俺は口を挟める立場にない。異論も当然ない。
──この男が街に滞在する間の監視役をガブリエル様直々に命ぜられたとしても異論はない。無論、ないのだ。
監視とは言っても、たった一人のヴィータである自分と正真正銘の悪魔とでは到底釣り合いは取れない。そんなことはガブリエル様もヒュトギンも、そして俺自身も承知の上だ。つまり、こうしてある程度の自由を認めている時点で、すでにガブリエル様はそれなりの信頼をこの悪魔に置いているということになる。監視というのはほとんど形だけのものだ。
だが、それでも俺が付いて回ることが一切の無駄というわけではない。悪魔の行動がガブリエル様の想定を逸した瞬間にこの協力関係は破綻する。俺はハルマたちが駆けつけるまでの時間を一秒でも多く稼ぐ。そういう段取りだった。
「そう怒ったような顔をしないでくれよ、他の客の気が休まらないだろう?」
男の言うことは尤も“らしい”。この酒場において浮いているのはむしろ俺のほうだ。促されるまま、俺は男の隣に腰を下ろすことにした。ここは酒場だ。飲み食いもせずに話し込むのはマナー違反だろう。
「いつものですかい?」
すると、そのタイミングを見計らったかのように、すかさず恰幅のよい店主が言う。ここへ訪れるのは数度目だが、すっかり好みを覚えられてしまったらしい。
「そうだな、頼む」
酒場のカウンターは物々しい鎧の人物が座ることを想定していない。少し手狭になってしまったスペースを、悪魔は自ら腰掛ける椅子を引いて俺が座れる分を確保する。こちらを招き入れるかのような仕草だ。
「オレを訪ねてきてくれたのかな」
男の言葉には一定の確信があるようだった。あまり賑やかな場に出向かない自分が、店主に顔を覚えられるまで通った原因としての自覚があるのだ。
コラフ・ラメルはメギドたちの溜まり場である。経営する店主が実はメギドであるとか、メギド好みのメニューがあるに違いない、などの噂は王国軍でも尽きないが、その真意はともかく、事実としてそうなのだ。それはヒュトギンであっても例外でないらしく、ふと目を離せばいなくなるこいつの最終的な行き先はいつもここだった。
「王都を訪れるならばまずこちらに話を通していただかなければ困ります、ヒュトギン殿」
この食えない男が王国と協力関係になってからの数週間は状況を大きく変えた。トーア公国を巻き込んだ策略は結実し、晴れてヒュトギンはソロモン王の配下となったのだ。
「まだ監視が必要なの? もうシバの女王からの信は得たものと思っていたけれど」
王都を根城にするメギドは他にもいるじゃないか、と少し不貞腐れたようになるヒュトギン。確かに俺のような無骨な男にあれこれと詮索されるのはいい気がしないだろう。俺の心に僅かに同情の念が湧く。しかしこれは国の、ひいてはヴァイガルド全体の平穏のために必要なことである。
「ガブリエル様からの、アナタの監視義務は解かれていませんからね」
「そうかなあ。案外、忘れられているだけかも」
「そんなことあるものか。ハルマはそんないい加減な生き物じゃない」
「ふうん」
ぼやきながら男は一房たらした前髪を指先で弄る。そのさまは見れば見るほど男前で、ヴィータらしい仕草を見せられるたび誤認してしまいそうになる。こいつの見てくれは本当に見た目だけのものなのに。
俺は自分の中の葛藤を隠すように話題を急かすことにした。
「それで、今回は一体どのような用向きで?」
ヒュトギンは現在トーア公国に留まり、先日の騒動の後処理をしているとのことだ。王都とトーアは然程距離が離れていないとはいえ、忙しい中わざわざ足を運んだからには相応の理由があるのだろう。
愛想のいい女店員が俺の目の前にソーダ水と豆のフリットを持ってくる。まさか勤務中に酒を飲むわけにもいかず、ここへ訪れるときはいつもこのセットだ。会話をしながら、不自然でない程度に口を湿らす。
「あ、釣れないなあ。勝手に始めないでくれよ」
するとわざとらしい戯け方でヒュトギンが喚いた。曰く、俺が彼に何も言わずに食事を始めたことが気に障ったらしい。
「ほら、乾杯をしようじゃないか」
「なんで俺とアナタでそんなことを」
「少しでもヴァイガルド文化に打ち解けようとする、オレのいじらしい努力だろう? ほら乾杯だ。かんぱーい」
俺が言い淀んでいるうちに一方的に乾杯は済まされてしまう。男の手にある白色の液体が波打つ。この酒場で彼が飲むものといえばいつもこの色をしているが中身は一体何なのだろう。目にはつくものの、メギドの好みなど知ったことではないのであえて話題にしたことはない。
「意味なんて、わかっていないくせに」
「分かるさ。こうして飲み物の容器同士を合わせるなんて面白い文化だよ。共通のかけ声があるというのも面白い。ヴィータは他人と懇意になろうとする能力に長けているな」
そう語るヒュトギンはヴィータらしく装うことに随分意欲的なようだ。単に友好的というだけなら話は単純だが、彼にとってはそれさえ情報をより効率的に得るための手段なのだろう。自分の何倍も頭がいい輩と相手をしなければならないのは疲れる。たとえばガブリエル様であればこの男と対等、いやそれ以上のレベルで渡り合えたことだろう。一介の兵士である俺には役不足だ。
「キミはそういうのは苦手なのかな」
「……俺だってメギド相手でなければもっと」
「ふうん、そういうものか。オレとは考え方が違うね。文化圏が異なるからこそ、強引にでも意思疎通を図るべきじゃないか?」
これも悲しいことに悪魔の言う通りだ。しかし自分の適正を弁えている俺は、悪魔の示す舞台上に上がることすら躊躇してしまう。意思疎通だなんて、しようと思った途端に俺はこいつの口八丁で絡め取られてしまうに違いないのだ。
「──まあいいや。何故王都へ来たか、だったね」
ヒュトギンは、そうしようと思えばいくらでもできるくせに、またそうやって深追いせずに俺を見逃す。こういうとき、俺は自分の矮小さが嫌になる。監視対象に情けをかけられてどうするというんだ。
「人に会いに来たんだ。知っているかい、フォラスという学者をしている転生メギドだ」
「いや……、」
転生メギドというからには、きっとソロモンの軍団の一人なのだろう。俺の知っている名前ではなかった。尋ねたくせにその辺りの有無はあまり関係ないらしい。口調の早さを変えず、ヒュトギンは言葉を続ける。
「彼は非常に興味深い転生メギドでね。ヴィータの妻を持ち、繁殖……いや、子どもまでもうけている」
前世をメギドに持つ、転生メギドたちのあり方は複雑だ。うまく転生したはいいもののメギドとしての目覚めを経ず、ヴィータとして一生を終える個体もいるらしい。……自分たちの土地が勝手に流刑地として扱われていることについて怒りもあるが、目の前の交渉官にそれを言ったところで意味はないだろう。
「それで、何故その転生メギドとやらにわざわざ?」
そこまで話を咀嚼したところで、いまひとつその全容が見えない。更に質問を重ねるとヒュトギンは淀みなくすらすらと応じてみせた。
「今後の参考までにさ。近いうち必要になる知識だからね」
「……近いうち?」
ヴィータと結婚した転生メギドの経験が必要になる?
そこまで聞いて思い当たらないほど俺の頭は鈍くない。つまり、ヒュトギンには結婚を見据えた相手がいるのだ。しかも、ヴィータの。
あまりの衝撃に俺は二の句が告げなくなってしまう。まさか、そんなことが。だって、そのフォラスとかいう男と違って、この悪魔は純正のメギドなのだ。いくらヴァイガルド文化に友好的な態度を取っているからといって、別種族相手にそんな気持ちが湧くものだろうか。国際結婚だとかそんなレベルの話ではないんだぞ。このぶっ飛び具合は流石メギドでありながら祖国と真っ向からぶつかることを選んだ男、と言うべきか。俺には全く理解ができない、俺には……。
「そうか、それはなんというか、……相手はアナタのこときちんと分かってる人なんですか」
なんとか話を飲み込んだ俺から出てきたのはそんな言葉だった。
なにしろこの男、見てくれだけなら上の上だ。そのうえ話好きで気さくとくれば、ヴァイガルドの基準でいえばモテる要素しかないだろう。しかし自分の正体を明かさずにどうこう、というのはアナタの場合は詐欺にあたるぞ。そういった気持ちを込めて相手を見ると間髪入れずに人畜無害な笑みが返ってきた。
「それなら心配はいらない、オレが想定している相手はキミだから」
ヒュトギンの続けた言葉を聞いた途端、男の外面に騙された哀れなヴィータお嬢さん、というイメージがガラガラと崩れた。耳を疑うとはこのことだ。
──誰が、一体何だって?
俺が分かりやすく動揺しているとヒュトギンはおかしくてたまらない、というように目を伏せた。クソ、だから、ヴィータらしい仕草をするなというのに。
「だってキミはオレのことを好きになるからね」
畳み掛ける男の言葉は未来形の断定だった。
どうやら俺のことを話しているらしいが、全く当事者としての感慨が湧かない。当然だ。俺にとってはそんなのは不確定で、考えたこともない、どちらかと言えば有り得ない未来に過ぎない。
しかしヒュトギンのほうは違うらしい。想像もしたことない自分がしっかりとした事実として語られる奇妙さはなんとも言いようがない。
「根拠がほしい、という顔だね」
彼の目はあくまで理性的なままで、とても正気を疑える気配はない。せめて手に取るグラスがアルコール性のものであったなら今夜の会話を全て世迷言と捨てることができたのに。
ヒュトギンは、物分かりの悪い子どもを相手にするみたいに、少々大袈裟な身振りで持論を展開しだした。
「オレの想定では……、まずトーアでのごたごたが片付くまでがひと月半、その間にオレがこうしてキミを訪ねられるのがあと三回。キミは次第にオレに対する心境の変化に思い悩むようになっている。三回目にはそれを抑えることができずに言葉となって発露して、オレはキミから愛の告白を受けることになるだろう」
まだ起こってもいない未来のことをまるで見て来たかのように、ヒュトギンは順繰りに語っていく。これから起こる出来事を指折り伝えられると、まるでそれが俺に与えられた猶予の時間であるようにも思えてくる。
「キミからそんな感情をぶつけられてしまったら……、オレもまあキミのことはなかなか気に入っているから……、前向きに応えようと思ってね。知っているかい、メギドラルには恋愛や繁殖といった概念が基本的にはないんだ。オレにとっては難問というわけさ。こっそり模範解答を聞きに来たくもなるだろう」
酒場の喧騒をBGMに、ヒュトギンの未来予知はすらすら語られる。
こいつは頭がいいから、きっとほんの少しの情報で数珠繋ぎにどんどん先のことが分かるのだろう。その思考スピードに全くついていけない俺だけが取り残されている。
確かにいま話をしているのに、こいつときたらひと月後の俺と対話しているかのようだ。俺を置き去りにして、聞きたくもない未来の話はまだ続いていく。ざわざわ至るところからの話声がやたら耳に障る。考えが纏まらないったらない。こいつもこいつだ。先のことばかり確定事項で語られたって俺にはちっとも分からない。
「──いまアナタと話しているのは俺だろう」
形にならない思考をかなぐり捨て、俺は男前に文句をぶつけてやった。いかにも感情だけの粗雑な言葉だ。論理的でもなんでもない物言いにも関わらず、ヒュトギンの未来予知はそこでピタリと止まった。
ぱっちりとした猫目は見開かれるとさらに大きさが際立つ。それが俺の目の前で何度か瞼を開閉させた。時間にしてたっぷり二秒くらいだ。二秒後には男の目には好奇の色が宿っていた。
「……いまのはグッときたな」
「は?」
「うん。これからはズルしないで、恋愛ごとは直接キミに教わることにしよう。そもそもフォラスに話を聞きに行ったのもどちらかというと徒労だったのさ。彼は優秀な学者だが身内のことを語らせるとあまり話し上手とはいえない」
うん、うん。と頻りになにやら頷きながらヒュトギンは勝手に何かを納得したようになる。
今のは、俺が当事者として関わっている話なら、俺をほっぽり出して結論を出すのは筋違いだろう、という自分の頭の鈍さを棚に上げた文句に過ぎなかったのだが。
「これは少し予想も上方修正しなきゃいけないな、うん」
だから、俺を置き去りにして何らかの結論を出すんじゃない!
.