××様が見てる

 声が聞こえた。不本意極まりないことに、ここ最近で随分と耳馴染んでしまった声色だったので、自然と耳がその音を拾ってしまう。
 若く、瑞々しい男の声は戦場であってもよく響く。温度の通わない思考を隠すようにおどけた調子を滲ませながら放たれるのはいつも通りだ。しかし、視界に飛び込んできたのは意外すぎる光景だった。

──な、なんだ。これは。
 頭上を覆ったその存在を目でとらえ、俺は呆気にとられる。きっとそれは俺だけではない。ここにいる全ての者が、ヴィータが、同じ気持ちでいることだろう。異様だ。はっきり言って。この世のものではない。それが視覚情報から明確に知らされる。
 どうやら意思を持っているらしい「異様な何か」が、身を翻しながら水の光弾を放つ。狙いは的確だ。それが弾けて次々と幻獣どもを散らしていく。
 突如現れた大いなる怪物の力を前に、格下の怪物どもは最早ただの獣同然だった。

 怪物が怪物を駆逐していく一部始終を、俺はただ見ていることしかできない。ハルマはまだこない。この場で俺たちにできることなど無に等しいし、下手に飛び出しても却って邪魔をするだけだ。
 しっかりした確証はないが、あの恐ろしい何かはおそらくソロモン王の手の者なのだろう。本来ヴィータとハルマ共通の敵である悪魔の、そのはぐれものたちの一派。シバの女王陛下を以てして、この世界の均衡を守る一手と言わしめる辺境の剣。
 ああして、身を本来の姿に転じるのを実際に目にするのは初めてだが、直前に耳にしたあの声が確かならあれの正体も俺には分かる。

 あたりの幻獣が残らず消滅させられると、その渦中には浅葱色の髪の白装束が立っていた。やっぱりそうだ。予想通りの答えに俺は多分安堵して、それからすぐに緩みそうになった気を引き締める。

 おとな一人分の極めて常識的な歩幅でそいつは歩いてくる。いくら取り繕ってもさきほど本性を見せつけたばかりとあっては、それもたいした意味をなしていない。未知の怪物が接近してくる状況に変わりは無く、場に緊張が走る。
 奴が怪物であることは揺らぎようのない事実なので仕方が無いとして、せめて少しでも部下の気構えを緩めるべく、俺は言葉を探した。

「大丈夫だ、その、知らない仲じゃない」
 負傷している俺を庇うようにしていた部下を制して俺はそう言った。
 言葉の歯切れが悪くなってしまったのを、幸いにも咎める者はいない。ただ目の前までやってきたヒュトギンがなにか言いたげに片眉をあげた。こいつが台詞を我慢して口元を引き結ぶさまは大変珍しい。口から先に生まれたのでは、なんて悪魔にも通用する与太かどうかは知らないが。

 そう。確かにこいつ相手に油断は禁物だ。だが警戒しすぎるというのもそれはそれで無駄なのだ。それを俺は経験則から知ってしまっている。であれば、なるべく無駄な労力は避けるべきなのである。
 ヒュトギンの見てくれはつくづく戦場には似つかわしくない。こうして改めて見ても浮いている。もともと武人というより頭脳専門だというのも理解できる話だ。だが、そのいつも涼しげな造形の顔がいまはわずかに強張っているようにも見える。なんだ。言いたいことがあるのならさっさと言え。俺に悪魔の胸中を察しろというのは無理難題というものだ。少々苛立った視線を受けて、ようやく交渉官殿は口を開く。

「……見たよね?」
 何を言うのかと思えば。砕け切った口調で、よりによってそんなことを言った。
 あまりに状況にそぐわないので、意味を理解するのに数秒を要する。見たってつまりさっきの暴れっぷりをか。俺の沈黙を待ちきれなかったのか、それに思い至ったときにはもう奴の口撃は開始されてしまう。

「ああソロモンくんはここにはいないよ、少し先で本命と戦ってる。撃ち漏らした何匹かが王都の方に向かったものだから本隊から離れてこうしてやってきたわけだけど。……うん、確かにオレたちは召喚者の力がないと本来の姿にはなれない。でも何事にも抜け道と言うのはあってね。それのおかげで今回は事なきを得たわけだし、その辺りは目を瞑ってくれると嬉しいな……」
 絶え間なく口を動かしながら、ヒュトギンはようやっと俺の方を横目で確認した。
「はあ……、ハルマの体たらくのせいだ。あとで文句を言ってやる」
 と、最後はハルマへの苦言に着地して、ヒュトギンはやっと一呼吸ついた。
 遠巻きに部下たちが身を固くするのを肌で感じる。そりゃあ、得体の知れない男がわけの分からないことを延々喋っていれば怖ろしくも思うだろう。

「つまり、もう脅威は去ったと?」
「ん? そうだね、もうじきソロモンくんたちもこちらに合流するだろうさ……、それにしても派手にやられたね。おいで、止血をしてあげよう」
 俺の問いに応えながら、ヒュトギンは大の男を犬か猫のように呼びつける。勿論俺は奴のペットではないので言われたからといって従う気も無かったのだが。頭から血が抜けているからか、やや強引に引っ掴まれた腕をとっさにうまく撥ね除けることができなかった。

「結構、です。これからすぐに城まで報告へ上がるし、治療ならそこで……」
「報告は正確かつ詳細にするべきだ。ソロモンくん達を待ってから向かった方がいいと思うよ。それよりもキミの出血量のほうが気になる。流し続けるとヴィータはすぐに死んでしまうんじゃなかったっけ?」
 俺の負傷に目を向ける傷一つない綺麗な顔を見ているとどうしようもなく不甲斐ない気持ちになる。もともとの戦闘力が桁違いなのだから引け目を感じるだけ無駄なのに。これだったらいっそわけのわからん化け物でいてくれたほうが諦めもつくのだが。耳目を集める色男に姿を変えたヒュトギンを、納得のいかない思いで見ると、奴は人誑しの顔で笑う。
「まあ安心してくれ。優秀な医者を連れてきたからね」
 俺の言うことなんて聞いちゃいない。その証拠にヒュトギンは、どこからか毛玉の生き物を引っ張り出した。
 ぎょろっとした大きな黒い目玉と目が合う。顔の形だけならヴァイガルドの猫に酷似しているが、俺の知っている四本脚の姿とは到底似つかない。頭でっかちの、なんとも気の抜ける造形だ。明らかにこの世界のものではないそれを、何のつもりかこちらへけしかける。

「ちょっと待てこれは幻獣なんじゃないのか? お、おい何をさせようとしている!?」
「メギドラルの常識では治癒といえばキャット族だよ」
──悪魔どもの常識など知るか!
 見れば数匹の毛玉がひょこひょこ歩きながら、負傷した兵士たちへ駆け寄っていく。一見すると献身的にすら見えるが、それでも正体は幻獣だ。ヒュトギンともども、外見から油断を誘うのがこいつらの常套手段なのかもしれない。
「念のため連れてきて良かった。オレも回復は得意だけど、もう使える携帯フォトンは尽きたしね」
 目の前の絵面を処理しきれず、なかば放心気味の俺を気にする素振りもなくヒュトギンは言う。
 自分の身体をべたべた触る肉球の持ち主にどれほどの害があるかは分からないがこの男手ずからの治療よりはマシだろうか。脅威の大きさを天秤にかけ、俺は矮小な思考に自己嫌悪する。と、ヒュトギンのほうから深いため息が漏れた。
 いつも自信に満ちている奴の気落ちした様子はやはりらしくなく、俺にはひどく奇妙なもののように映る。

「そりゃ気落ちもするよ。オレのメギド姿を見せるのはもっとずっと先のはずだったんだから」
 不本意そうに述べるヒュトギン。ああ、またこいつの勝手極まる想定の話だ。目論見が逸れるたびにいちいち落胆していたのではきりがないだろうに。そう思うのは平凡な頭しか持たない俺の考えで、こいつには一切適用されない。
「そう、ずっと先。キミがもっとオレのこと好きになって、オレがヴィータのキミに危害を加えるような存在じゃないってキミ自身がしっかり認識できるまで。そう思っていたんだけど」
 そんな日は来ないがな。
 血塗れの舌を動かしてなんとか言葉を捻り出すも、それくらいではヒュトギンの弁論は止められない。

「ほら、オレに限った話じゃないけどやっぱりメギド体ってヴィータにとってはなかなかショッキングだろ。もともと相手を圧倒することに重きを置いてた文化圏だしさ。ヴィータ同士のそれとはコミュニケーションの仕方が全然違うんだよね。だから逆にキミの態度がそれほど変わらないことに驚いてる。……怪我のせいで情報伝達のための神経がおかしくなってるのかな?」
 などと相変わらずどこで息継ぎしているか読めない喋り方をしてから、ひとかけらも悪気のない顔でヒュトギンは俺の患部を確認する。顔が近い。即刻やめてほしい。

「負傷は関係ない。さっきからご自分の擬態に相当自信があるようですが、こっちから言わせればいくら取り繕っても擬態は擬態だ」
 俺は精一杯の言葉でヒュトギンを撥ね除ける。

 そうだ。俺はけして外見になど惑わされんぞ。小綺麗な顔してこいつが化け物であることは最初から分かりきっているんだから、それが改めて露呈したことがなんだというんだ。
 交渉官殿はやたらご自分の考えが外れたことを引きずっているようだが、俺からすればそんなことより優先して考えるべきことは山ほどある。たとえばこの後に控えているだろう王との謁見とか。

「ひどいな。オレがこんなにキミのために考えているのにただの取り越し苦労だって?」
 ヒュトギンの言葉は悪態っぽく装っていて、それなのに表情だけ不気味ににやりと笑っている。それはいつもの好青年ぶった笑みとも違う、悪巧みを隠そうともしないものだった。

 その顔に気圧されて、思わず身を引いたところをヒュトギンの文官らしいしなやかな手が捕まえる。引き寄せられれば、会話するだけには不必要な、あきらかに度を超えた距離になる。
「……あれ。歯が欠けているね」
 不必要な接近は無用な情報まで与えたらしい。その目敏さに辟易とするものの、さりげなく話題が変わったことはこちらには都合がいい。このままこいつの問答に付き合うのは危険だ。それをひしひしと感じながら、俺は簡潔な、それ以上発展しようもない答えを返す。
「もともと差し歯だったのが外れただけで……、」
 確かに盛大に切った口腔はどくどくと溢れる血でいっぱいになっている。だがヒュトギンが言及したのはいつ負ったかも忘れるほどの取るに足らない古傷のほうだ。騎士団に所属していてひとつの欠けもなく五体満足なほうが珍しい、と。一刻も早く会話を切り上げようとする。

 思えば、俺はなんだかんだでこの悪魔の存在に慣れすぎてしまっていた。それがどんなに他愛のない話題だったとしても、お互い触れあうほどの異常な距離は変わらないままだ。この間合いで返答すること自体すでに迂闊なことだったのだ。

 俺が言い終わりきる前に、さきほどから緩慢な動きしかできていない舌に、ぬと、と何かが触れる。散々味わった血の味ではない。それは口の中にあるには違和感のある、温度を持たない何かだった。
 あまりのことに一瞬飛んだ意識はすぐ明確な判断とともに戻ってくる。咄嗟の判断ができないようでは戦場に身を置く者として失格である。しかし自分の身に何が起こっているのかを、理解しようとすればするほど本能的なものがそれを拒むのだ。
「ン……、ぐゥ…っ!?」
 温度はないくせに感触は完全にあれだ。あろうことか俺の口内へ差し込まれた奴の舌が上顎を長いストロークで舐めていく。脈絡も何もかも吹っ飛ばした暴挙だった。わけがわからないまま背筋に怖気が走る。
 だがトチ狂ったヒュトギンの奇行はそれで止まらない。いつのまにか両腕をがっちり捕まえられたまま本当に遠慮を知らない動きで俺の口腔を舌がかき混ぜる。血の味がどんどん薄まっていくのが、この馬鹿げた行為を実感させ、俺はようやく抵抗することを思い出す。
「この……っ、やめ、ッふ」
 口が塞がれてしまっていては、なんとか出した文句の声も力なく鼻から抜けていくしかない。呼吸のリズムが崩れる。相手を睨み付けるとばっちり開いた目が俺を見ていた。こっちを観察する眼は凪いだものでありながら深く、人ならざる者の気配を濃くする。よりによって男で、悪魔であるこいつに俺はなんてことをされている?
 正気と力を振り絞ってヒュトギンの柳のような腕を振り払うと、あっさりと身体は離れた。

 ぜいぜい肩で息をしながら見た視線の先のほうで、部下たちが気遣わしげにこちらを伺っているのが見える。こちらからは向こうの表情までは分からないが、まさか見られただろうか。確認するのも恐ろしく、そうでないことをいまは祈るしかない。
「自分がなにやったか分かってんのか……!?」
 いまだ信じがたい心持ちで言葉を絞り出すと、やらかした張本人は涼しげな顔で自らの唇をひと舐めする。その舌は俺の中で好き勝手した報いで血の色に染まっているがそれを気にする様子もない。
「何って、うーん。……確認?」
 言葉が通じない。なにが「対話派」だ。戦争屋どもめ。
「確認と、あと治療だね。キャットたちも口の中までは専門外らしい」
 だから治療の意味で傷を舐めたのだと、信じられないほどの面の皮でヒュトギンが法螺を吹く。

「絶対そんなことないだろ。猫が見てる……、これ、自分の仕事取られたって目じゃないのか」
「あれ。そんなの分かるんだ。妬けるなあ……」
 言いながら、なんでまた近づいてくるんだ。うわべだけの笑みを溢す悪魔を顔ごと背けて回避する。会話に気を取られた隙を狙ったのだろう。そう分かっていても、いざ目の前に詰め寄られるとうまく力が入らない。さっきのおぞましい感触を思い出すからだろうか。
 詰め寄るヒュトギンの目は猫の目に似ている。実際見比べてなお、そう思うのだから相当だ。それぞれの仕事を終えたのか、いつの間にか集まってきた複数の猫の目が俺たちを見ている。獣の純粋にこっちを見つめる目と、確信犯めいた面で有無を言わせず距離を詰める目。
 異界の生き物に囲まれて、俺は完全に怖じ気づいていた。外見なんかより、話が通じないことのほうがよほど怖ろしいのに、それが分からないのかこいつは。

 思わず恨みがましく睨みあげると、少し前までのため息はどこへやら、悪魔は笑みを深くする。
「やっぱり恋愛ごとはキミのほうが上手みたいだ」
 いや、だから勝手に結論を出すなって。だから!くそ、猫が見てる!!