ヒュトギンとの会話は相互に成り立っているようで、その実一方的なものだ。奴の話術にかかれば俺は相槌を打つのでいつも精一杯だった。そう回想できてしまうのはそれほど奴の会話に付き合わされている何よりの証拠でもある。
相変わらずヒュトギンは王都を自由に出入りしている。変わったことといえば、こちらが探す前に自ら姿を見せるようになったことだ。俺が他の仕事をしていようが、お構い無しに現れて挨拶を交わしにくる。
あるときは街の警備中にひょっこり顔を出すものだから、カマエル様と見事に鉢合わせてしまった。生粋のメギド嫌い、且つトーア公国絡みのごたごたでヒュトギンを特別毛嫌いしているらしいカマエル様は、その顔を見るや否や鼻息荒く詰め寄った。
しかし腕っ節であるならばともかく、言い合いとなればヒュトギンの方が上手(うわて)だ。彼の口車により、一触即発かと思われた場は大きな諍いもなく宥められた。流石に交渉官としての肩書きは伊達ではない、ということだろう。
「命拾いしたなメギド野郎!」
豪腕殿の捨て台詞が響き渡る。ヒュトギンがその場を立ち去る気配がないと分かると、彼はその大股を使ってズンズンとその場を後にした。メギドと同じ空間にいることすら耐え難いのだろう。ハルマの性質のひとつともいえる潔癖さは彼にも適用されるらしい。
「なんか問題起こしたらすぐ呼べよ、ソッコーでブチのめしてやる」
カマエル様は立ち去る折、唸るような声でそう言った。そして俺の方へ一度目を向けると、僅かに同情的な表情を見せる。カマエル様の中では俺はすっかり“メギド野郎に付きまとわれている運の悪いヴィータ”なのだ。その眼差しに対し、俺は曖昧な表情で返すことしかできない。
……あの幻獣を討伐した日の、ヒュトギンとの思い出すのもおぞましい接触以来、俺は騎士団内から奇異の目を向けられるようになっていた。とはいえ俺の身に起こったことは純然たる事故であり、回避できない災害であるというのも共通の理解だったので、中傷などの類はない。俺に向けられる表情はひたすらに同情のそれだ。不幸だったのは、話題の風化を待つ俺をあざ笑うかのような頻度でやってくる涼やかな笑顔だ。ヒュトギンは狙い澄ましたようにやってきては噂の火種を蒔いていくのに余念が無い。
そして舌先三寸でカマエル様を退けると、俺の真隣へ立ち位置を落ち着かせる。こちらが真っ昼間の市内警備の、れっきとした勤務中にも関わらずだ。
無遠慮に話しかけてくる悪魔にその辺りの配慮はないし、同僚たちも遠巻きに俺を見ているだけで間に割り込んでくるものは皆無だった。薄情者たちめ。
邪魔が入らないのをいいことに、ヒュトギンは雑談レベルのことをあれこれと語りかけてくる。というか、あんな仕打ちをしておいてよく臆面も無くどうでもいい話ができるものだ。
噛み付かれた事実は取り返しがつかないので、せめてあの日の教訓を無為にはすまいと、俺はこいつ相手にはひとときだって油断しないと決めた。ヴィータ相手に当面の敵意がないことは分かっても、面の下では何を考えているか分かったものじゃない。だが街の往来で常識外れの巨大なメギド姿に転じるのは愚策だろう。仮に敵対意識を隠していたとしてもそういったやり方をするやつではない。剣を抜けるだけの間合いを保とうとするのを分かっているのかいないのか、ヒュトギンはじりじりと距離を詰めてくる。
「ときにナナシくん、今度の休みに予定はあるのかな」
それは自然な語り口だった。あまりに自然だったので、俺は友人にするような気安さで口を開き……、すぐに閉じた。
「兵士に休みはありません」
「またまた。流石に休日くらいはあるだろう?」
「休息をとるのも仕事のうちですので」
口を突いて出た言葉は本心だ。この男相手に舌戦で策を弄したところで無駄なのは分かっている。本心であれば、揚げ足を取られたりつつかれることもあるまい。しかしヒュトギンが考え込んだのはほんの一瞬で、すぐにまた形の良い瞳を瞬かせてこう言った。
「じゃあ、オレの監視っていう名目でなら付き合ってもらえるかい?」
市井に目を向けたままだった視界にヒュトギンの顔が入ってくる。彼が身を乗り出して覗き込んだおかげで俺はその目とばっちり視線を合わせる羽目になった。相変わらずの、他人に胸の内を悟らせない笑みを携えてこちらを眺めている。次は俺が喋る番ということだろう。何か口に出すまではこの視線を浴び続けなければならないらしい。
「……それは、理屈が通っているか……?」
観念して返事をするとヒュトギンの笑みは一層深くなる。
「でも誘いを受ける口実にはなるだろう?」
つまりはそれがヒュトギンの言い分なのだった。
「アナタ、忙しいのでは」
「うん。だからこそもっと労われていいはずだと思うね」
話は堂々巡りだ。俺は頭が痛くなる。
目を惹く男前が優雅な仕草で紙の上の文字に視線を落としている。それを遠巻きに見ている婦女子たちが、彼が手癖で前髪に触れる仕草をするたびに色めき立った。
噴水前に佇むヒュトギンの姿は絵になるので、彼女らの反応は理解できる。
それでも誰一人として声をかけたりする様子がないのは持ち前の近寄りがたさのためだ。なにやら熱心に本を熟読する彼からはいつもの社交的な雰囲気が感じられない。黙っている姿は静かで、一種の神聖さすらあるように見えた。今からあの空気をぶち壊しにいかなければならないと思うと非常に気が重い。
俺の脳裏にあの日の怪獣大戦争が甦る。不意をつく形で襲ってきた幻獣に、ヴィータもハルマも対応しきれなかった。王都が守られたのはヒュトギンの功績だ。その直後に奴自身が起こした奇行のせいで全て吹っ飛んでしまったのだが、あとになって思い返すほどそれは紛れもない事実だった。
強引に口約束を取り付けたヒュトギンを断れなかったのはその負い目のせいだ。彼が駆けつけなければ市街にまで被害が及んだだろうし、騎士団の仲間も無事ではすまなかっただろう。
そこまで考えても、俺は踏ん切りのつかない脚をどうしたものかと行ったり来たりさせていた。
これは仕事、仕事なのだ。そう何度か内心で繰り返しても、頭は状況を現実的に分析してしまう。休日の昼間から、城下の賑やかな場所でわざわざ待ち合わせるのが仕事であるものか。折角もらった口実とやらも、自分を騙眩かすことができなければ大して意味はなさなかった。
整理のつかないまま、辺りをうろうろしてもヒュトギンは一向に顔をあげない。大した距離でもないんだ。俺が逡巡してるのに気がついていないわけはないだろう。せめてあちらから声をかけてくれればいいものを。
「……ヒュトギン殿、その、遅くなりまして」
「やあ、こんにちは」
腹をくくって名前を呼ぶと、真っ先に愛想のいい返事が返ってくる。
「遅れてなんかいないさ。想定通り、キミは時間を遵守する人だね」
自然な仕草で閉じた本には半ばあたりに栞が挿されていた。それは彼がこの場に到着してからいくらかの時間が経ったことを示していた。
「それが分かっているならアナタも時間の通りに来ればよかったのでは……」
浮かんだ疑問を口に出したのは、ヒュトギンの不躾な分析をやめさせたい気持ちからだった。俺にしては上手く回避できたかに思われたのだが、返答の代わりにヒュトギンは手持ちの本を掲げてみせた。その顔はどこか得意げでもある。
タイトルに覚えはないものの、少女趣味な装丁と書体から察するに多分、恋愛ものの小説だ。何故こんなものを。目を丸くする俺を尻目にヒュトギンの口はぺらぺら回る。
「こういうときにはこう言うべきだったね。──『オレもいま来たところさ。気にしないで』」
歯の浮くセリフがよく似合う。
それを向けた相手が俺でなければさぞサマになったことだろう。だが残念なことに相手は俺なので、渾身のセリフに対する返答は白けた視線のみだった。そんなこと程度では痛くもないらしいヒュトギンはまったく変わらないペースで言葉を続ける。
「軍団の仲間には読書家が何人かいてね。色々借りたりしているんだ」
「色々でそれですか」
「こういうのが好きな子がいるんだよ。どれも難解だけどなかなか興味深い。ほらほら、恋愛ものにおいて身分差のある間柄というのは王道の設定らしい」
奴はヴィータの生み出した文化に興味津々だ。ヒュトギンはトーア公国の領主政治に重用されている希有な純正メギドである。他の転生メギドたちと比べてヴァイガルドでの生活の日は浅い。にもかかわらず、内政に関われるのはこの旺盛な知識欲があればこそだろう。
この特性は厄介で、彼の振る舞いは時にヴィータ以上にそれらしく見えるときがある。日常に溶け込める怪物など出来の悪い怪談話よりよほど怖ろしいじゃないか。
現にいま、ヒュトギンは女性集団からの熱視線のさなかだ。彼が控えめな仕草でそちらへ手を振るだけで黄色い声があがる。目の前で繰り広げられる詐欺まがいの行為に、俺は自然と咎めるような目を向けた。妙に機嫌の良さそうな猫目も俺を見る。
「誘ったのはいいけど、キミがそれに乗ってくれるかは確証がなかったからね」
いまにも鼻歌なんか歌い出しそうなくらい上機嫌なのはそういう理由らしい。気づけば俺たちはどこへ行くでもなく、手頃な壁際に背を預けてそんな話をしていた。話し手のヒュトギンと聞き手の俺という立ち位置はいつも通りだ。人通りのある場所で話し込む奇妙さを感じる様子もなくヒュトギンとの会話は続けられる。
「キミの行動はいつだってキミの答え次第だ。悔しいけど、そこにオレが推測する余地はあんまりないみたいだね。……誘われてくれたのはオレに助けられた恩があったから?」
弁の達者でない俺をこうして促すのは、誘導されているようでいつもならあまり好かないのだが。今回ばかりはそれに従う。
もし、あの場で彼の助太刀がなかったらどうなっていたか。街の死守は俺たち騎士団の意地だ。どれだけ犠牲がかかってもそれだけは果たそうとするだろう。ヒュトギンが救ったのは最前線の仲間の命だ。メギドから見ればきっと些細なものなのだろうが、俺たちにとっては何ものにも代え難い財産である。
「はい。アナタのおかげで俺たちの隊は助けられました。街に被害が出なかったのもアナタが来てくれたからです」
やっと言い終えると、それだけで胸の内が軽くなるのを感じた。彼に面と向かった礼が言えていないことを、俺は存外気にしていたようなのだ。
深々と頭を下げてから、もう一度男を見る。するとヒュトギンの顔は喉になにか詰まらせたような、奇妙な表情になっていた。なんだ、一体何が不満なんだ。
「うーん。それはそうなんだけど、ちょっと違うかな」
「はあ」
「そりゃあ、オレだって無駄な被害は避けたいよ。ソロモンくんの軍団にいる以上、彼の“ヴィータをなるべく救いたい”っていう考えにも同調はする。でもオレが前線さえ乗り越えてあの場に駆けつけたのは、それはキミがいたからだよね」
「は?」
また得意のまくし立てが始まるかと思えば、ヒュトギンはゆっくりと、一呼吸ずつ置きながら、俺に一言一句聞かせるようにそう言った。俺がいたから。ああ、そうか。やっぱり野蛮な戦争種族にとっては一介のヴィータの生き死になんて大事ではないのか。本来後方で策を練るのが得意なはずのこいつがらしくもなく飛び出してきたのも、立派な大義名分があったわけではなく、俺がいたからってだけで……。
いつものように、こっちの考える隙も無いくらい台詞をぶつけてくればいいのに、今に限ってなんで黙り込んでるんだ。そのせいでこいつの吐いた言葉の意味がぐるぐる頭を占めてしまう。
しばらく意地悪く俺を観察していたヒュトギンがようやく、口を開いた。
「ナナシくん、手でも繋ごうか!」
「え!? い、嫌です!」
結論がうまくまとまらないまま、俺は反射でヒュトギンの戯れ言を一蹴する。
なんだってそんなことをしなきゃならない。こんな日中に俺とお前で手を繋ぎ合うなんて正気じゃない。ちらりと周りを確認すると先ほどの女子集団こそ消えたものの、ヒュトギンの見てくれは休むことなく通行人の視線を奪っている。
俺なんか選ばなくたって、こいつがしたがるヴィータごっこに付き合ってくれる相手は山ほどいるだろう。危険だ。それを思えば、こいつが冷徹で計算高い化け物だと知っている俺が相手をするほうが、まだ被害は避けられる気がする。そういう類の、あくまで自己犠牲の精神のもとヒュトギンに再び向き合うと、彼は軽やかに笑ってみせた。
「嫌? おかしなこと言うね。オレたち、もっとすごいことしたのに?」
奴のたいそう楽しげな声は俺の記憶を思い出させるには十分だ。俺の眼前を強烈な目眩が襲う。
「あの時のアレはもっとそれらしいことを言っていただろう!? 確認だとか治療目的だとか……!」
何の脈絡もなく俺の口腔を襲ったこいつは確かそう言っていた。相手がメギドだから、あの行為に他の意図があるなんて思いもしないし、だからこそ俺はあの一件を犬に噛まれたのと同じだと思うことができたってのに。
「はは、残念だったね。せっかく勉強したんだから、実践でも活用していかないと」
俺が本気で声をあげても、ヒュトギンは単なる雑談をしてる風でちっとも悪びれない。なんなんだ、こいつのヴィータ文化への異様なモチベーションは。
「さあどこへ行こうか? 王都には見るべき場所がたくさんあるけどね。こうしてお喋りしながら歩くだけでも十分デートにはなるじゃないか」
早々に意味をなくしていた口実にとどめを刺してから、ようやくヒュトギンは歩き出した。
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