プロローグ

 がたごと長閑に走る荷馬車に揺られるまま、ヴィノはゆっくりと瞬きをした。穏やかな陽光が彼のまつ毛にきらきらと反射する。
 
「おれらも町に戻るところだったからいいけどよお」
 小太りの行商人が前方から彼に声をかけた。彼らを乗せた車が往く道には轍が刻み込まれている。移動手段を持たないヴィノの狙い通り、この道はヒッチハイクをするにはうってつけだった。
 言い値の金を支払い、積み荷のスペースを少々開けてもらって、このままどこかの市場にでもたどり着ければそれで重畳。ヴィノの旅はいつだって大義を持たない気楽なものだ。
 
「一人でふらふら町から出るなんて命知らずだぜ」
「てっきり踊り子がどっかから逃げ出したのかと思ったもんな」
 そう言って男たちは、肩を落とし合っている。ヴィノの外見は華やかで、男臭さが全くない。遠目で見ては女性と間違われてもなんらおかしくはないのだ。
「ははは、それは悪かったな」
 彼は軽口で返しつつ、御者のほうへわずかに身を乗り出す。
「おにいさんにもなにか、君たちを楽しませられる一芸でもあればよかったんだけど……」
「男に踊ってもらってもなあ」
 
 ヴィノの口振りは心から残念がっているようだった。先ほどあげた通り、彼は町まで送り届けられるための十分な金を払っている。しかし足元を見せるような言動は却って商人ごころを無用に焚きつける結果となった。
「兄ちゃんが持ってるの、酒瓶かい?」
 ヴィノの身なりは驚くほど軽装だが、彼の荷はそれに見合わないほど大きなものだった。彼が運んできたらしい木箱には大きさがまちまちの酒瓶が入っている。それを見て、商人はもっともらしく言った。
「町の市場には商業組合があってな。とくにこういう酒類を売るには組合の許可がいるんだよな」
「組合?」
「そうさ。よそ者のあんたにその許可が簡単に降りるとは思えないな」
「俺たちがうまいこと口利きしてやるよ。売れた分の分け前を何割かくれるだけでいい」
 
 儲け話となれば男たちの結束は固い。示し合わせてもいないのに息ぴったりな誘い文句たちに、ヴィノは曖昧な表情で笑っている。乗り気とまではいかなくとも、拒絶する気もないらしい。
「ここで会ったのも縁ってやつじゃないか」
 しかし、その言葉に彼の目の色は変わる。
「そう……、そうかな?」
 男たちの言うことはどう聞いたって甘言の類だが、ヴィノには大した問題ではなかった。がた、と車が一度傾いた。いつのまにか車輪が轍から逸れてしまっているようだ。御者もすぐにそれに気が付いて、軌道を戻そうと手綱を引いた。しかしその動きとは裏腹に、馬車は今度は逆方向に大きく傾いてしまう。
「縁……縁かぁ……」
 乗り合わせた者たちが慌てふためくなか、ヴィノは頬を紅潮させるのに忙しく、周りの状況に気を回す素振りもない。馬の興奮しきった嘶きが響くと、ようやく目をはっとさせた。
「あ、あれ? ごめん、おにいさんついぼーっとしちゃって……うわ!」
 また馬車が大きく揺らぐ。同乗者たちはバランスを保てずに傾くままに身体を転がせていった。どう見たって異常事態だ。
 
──またやってしまった。
 ヴィノの頭に浮かんだのはそれだった。次いで、離れなければ。と思う。
「ごめんなさいっ、そのお酒はあげます! さようなら!」
 
 荷物をまとめることさえせず、大慌てで馬車から飛び降りるその言葉が届いているかもヴィノには分からない。しかし商人たちが昏倒した原因は明白だった。もう厭というほど繰り返してきたことだ。──ヴィノは悪魔の実の能力者だった。あらゆるものをおいし~い酒に変える、サケサケの実の能力者だ。
 厄介なのは彼自身が酒の特性を持った体質であることだった。とくに、さっきのように感情が昂ぶってしまうとよくない。普段は無意識に抑えているタガが外れるからか、はたまた発汗することによる発露なのかは分からない。一種のフェロモンのようなものだ。それがあふれ出すとたちまち酒気となり周囲の者を酔わせてしまうのだった。
 
 これが原因で、仲間やコミュニティに恵まれた試しがない。
 しかし埋まらない人恋しさは加速する一方だ。ヴィノの頭に諦めるという考えはなかった。もともとひどく楽観的で、喉元を過ぎればころっと熱さを忘れる性質(たち)だ。
 
 そんなものだから懲りずに過ちは繰り返される。またある日、うまいこと乗り合わせた船内でヴィノは柔和な造りの顔をにこやかに緩ませていた。
 野蛮極まりない〈偉大なる航路〉で、生き延びることができるのは歴戦の海賊くらいなもので、当然彼が乗り込んだのも海賊船である。
 
「面白いな姉ちゃん!」
 船内はどこからどう見ても宴会真っ只中だ。アルコールでいい気分になっているのは豪快な笑い声の主だけではない。
「おにいさんはお姉さんじゃなくておにいさんなんだけど……」
「そうだなそうだな、はっはっは!」
 自分の訂正を聞いているのかも怪しい相手に、とくに気を悪くする様子もなくヴィノはすすんで酌をする。注いだ先から空になる盃は彼の心を期待させるものだった。
「悪魔の実の能力者だと聞いたときは驚いたもんだが……」
 と、盃から口を離した合間に男が語るのに、ヴィノは穏やかに頷いて、部屋の隅に置かれたボトルを手にする。透明な容器に入っているのは真水だ。だがそれが彼が触れた途端赤紫に変貌する。勿論封を開けて中身を挿げ替えたわけではない。一瞬にして水は上等なワインに変わったのだ。一見手品の類にも見えるその御技はヴィノの故郷では奇蹟のわざだと称賛されたものだが。
 
「そんな能力でカナヅチになってちゃ割に合わねえなあ!」
 ガヤが茶々を入れる通り、彼にできることはそれだけだ。けして戦闘向きの能力ではない。だが、だからこそ海賊たちにヴィノに対する警戒心はほぼない。ヴィノ自身にだって攻撃性はなく、いたって気のいい綺麗めのお兄さんなのだ。
「くだらない能力だが金にはなるぜ。おれたちも“いい思い”ができる」
 湧いて出た上質なワインを舐めるように飲み干しながら大柄な男がヴィノの肩を雑に抱き寄せる。それを受けてもヴィノは満足げに微笑むだけだ。
「おにいさんのこと、ずっとずーっと船に置いてね」
 彼の密やかな声は船の喧騒に消えていく。もともと海の荒くれもの集団だ。そこに酒が入れば騒がしくもなるのは当然だが、ときが経つにつれそれは際限を失っていく。
 
 どこもかしこも酒が回ったことで、どこかで言い争いが起こる。日頃の不満や鬱憤を抑えていたタガを酒は溶かしてしまう。口論の末、誰かが手をあげた。見る見るうちにそれは殴り合いの争いになる。度が過ぎた無礼講を止める者はいない。なにしろ、普段味わうことの叶わないほどの美酒が無尽蔵で湧いて出てくるのだ。たった一滴だって他人にやるのが惜しいほどの美酒である。いや、それにしたってここまで無限に湧いてくるのはおかしいのではないか。ここは海の上だぞ。船員の中でも特別頭のいい誰かが思い至った。
 
「兄さんどんどんお願いしやす!」
「いいとも~ちちんぷいぷい~」
 船員が海水を汲み上げてヴィノのもとまで持ってくる。彼は心底楽しそうにでたらめなまじないを口遊んでそれをも酒に変えてしまっていた。
 あ。なるほど、マジに無限なわけね。男の思考がまともに働いたのはそこまでだった。
 
──あれよあれよと。こうしてヴィノが船を沈めるに至るのは実に×隻目になる。
 
 通報を受けて現れた海軍に引き摺られながら、ヴィノの顔は蒼白だった。能力と、彼自身の性分のせいで大小の事件を起こすこと数知れず。そのどれもが彼自身が悪意をもって引き起こしたものでないのは確かだが、彼の場合は自覚が伴っていないぶん、より凶悪であるともいえた。
 ヴィノは反省した。それはもう大いに、人生で五本の指に入るレベルで反省した。
 どーして、おれっていつもこうなんだろう。
 
「……っふ…、ぐす……うえ…」
 捕らえた下手人が年甲斐もなく泣きだすので、海軍たちはわずかにどよめく。
「な、なんだ? どこか痛むのかね?」
「だって、みんなおにいさんに良くしてくれてたのに……、なのに……」
 
 海軍からすれば今回壊滅したのは憎き海賊たちだ。賞金制度を設けているだけあって犯罪者たちを断ずること自体は罪には問われない。現に彼に手錠をかけた将校も、ヴィノの所業のおかげでいわば棚ぼた的に海賊を捕らえることができたので大層ご機嫌である。ご機嫌ついでに、彼はさめざめと涙を見せる彼を気遣う仕草を見せた。空気の流れに乗って、どこからか花の薫るようなにおいが将校の鼻を擽った。
「君と海賊たちの関係性は不明だが、そう気落ちすることはない。むしろ今回のことは善行といっていい」
 優しげに声をかけられるとヴィノの涙線は余計に決壊する。いっそう周囲の薫りが強くなった。ぼんやりと頭が重たくなるのを将校は感じ取る。
「こいつ能力者ですッ!」
 兵隊の一人が慧敏に声をあげた。
「海楼石だ! 予備のがあっただろう!持ってこい!」
 ヴィノが泣くほどに、船内の酒気は強くなる。油断していたとはいえ彼らも能力者への対策には覚えがあった。特別製の手錠があれば能力は無効化できる。その想いを遮るように行く道では次々と兵が倒れていき、行く手を阻んだ。

 

 

 一度捕まってしまえば余罪のあまりある身である。
 
 そんな成り行きで、海軍船をも沈めかけたヴィノが重罪人扱いされるのは自然な流れだった。
 大罪人たちの終着地、大監獄インペルダウンに投獄されるのを、悲しみに暮れるヴィノは無抵抗で受け入れた。
 
「その手錠してるってことは能力者だな」
 乱雑に放り込まれた雑居房で囚人が彼に語り掛ける。この監獄の慣例である100度の熱湯の責め苦を受けたばかりなのもあり、それに応えるだけの気力はヴィノにない。
 
「おれのパンくれてやる、ほら」
「……いいよ、別にお腹すいてない」
 無理やり押し込められそうになった、何日経過しているかどうかもわからないパンの欠片をヴィノは緩慢な動きで拒絶した。
「別に親切で言ってるんじゃないんだぜ。あんたに協力してほしいんだよ」
 顔を背けたまま何の反応も見せなくとも男には関係がないらしい。囚人の話は一方的に進められる。
「ここより上の階層にいる赤鼻のなんとかっていう能力者は何度か檻から脱出してるって聞くじゃねえか。悪魔の実の能力があれば可能なんだろ? なあ、あんたはなにが出来るんだ」
 
 雑居房に収まっているほかの囚人たちは男がヴィノを口説くのを遠巻きに窺っているらしい。インペルダウンは残虐性の度合いごとに囚人の収監場所を分けて管理している。要は同じ場所に収まっていれば基本的に凶悪さは同等なのだ。脱獄のための協力関係が生まれたとしてもおかしいことではない。
「なんにせよ、まずはその手錠をなんとかしなきゃならねえが……」
 ヴィノの答えを聞く前に男はなにやら思案顔だ。いままでであればこの類の話を持ちかけられては、他人から頼られるのがだーい好きなヴィノはすぐに飛びついたはずだった。でもいまは自分になにやらを話しかける相手より、檻の外へまなざしを向ける。
「海楼石……、」
 ここは階層レベル2「猛獣地獄」。無数の怪物たちが犇めくエリアだ。ヴィノは何事か呟いてからゆっくりと立ち上がると、檻の前で獣らと視線を合わせた。
「な、なにやってんだ?」
 もしも運悪く野生動物に出遭ってしまったときには目を合わせてはいけない。というのが常識だ。多くの四つ足の獣にとってそれは敵対意識を伝える合図である。おかしな動きを見せるヴィノの様子につられて周りの怪物たちが一頭、また一頭と檻の前へ引き寄せられてくる。あろうことかヴィノは手錠が邪魔する限界まで腕を伸ばして外へ出すと、手招くように手のひらをひらりと動かした。それは囚人たちにも、獣たちにも分かる挑発行為だった。
 すぐさま、一斉に怪物たちが飛び掛かる。獣の牙が、鋭すぎる爪が檻に食い込んだ。そのまま巨体が突進すると強靭なはずの檻がひしゃげて壁から引き剝がされた。確かに檻は開いたが、こんな大事故は誰一人として望んでいなかったろう。
 
 囚人たちの驚きをよそに、ヴィノはそのまま獣たちの中心へ飛び込んだ。獣の初撃をうまく腕で受ける。その衝撃は海楼石製の手錠をも破壊する。ちょっとやそっとでは壊れないと言われている枷の呪縛から解き放たれ、思わず囚人たちは自分たちの危機も忘れて歓声をあげた。
「いいぞ兄ちゃん、そのままおれたちの手錠も……」
 海楼石の加護は失われた。牢に花の薫りがふわりと漂う。囚人たちとっては久しく嗅いでいない酒気である。これがこの男の能力だ、と囚人たちは理解した。次第にその思考にも靄がかかる。
 
 ヴィノは次いで、砕けた海楼石の破片を握ると、その切っ先を襲い掛かる獣の皮へ突き立てた。致命傷には程遠い。だが傷が開けばアルコールを直接獣の体内へ送り込むことができる。一頭昏倒させるとまた石を手に一撃を加える。獣の嗅覚にヴィノの酒気は強すぎるのだ。海楼石が砕けた時点で獣の動きはほとんど半減してしまっていた。
「はあ、はあ……っ」
 気づけば転がった獣たちのなかで息を乱したヴィノだけが立っていた。牢の中の囚人たちも茹だる頭で貰い酔いだ。アルコールも相まって、場は勝利の高揚に包まれる。
 しかし、ヴィノはその場の誰も想像しない行動に出る。砕かれた海楼石の欠片を適当につかむと薬でも服用するようにざらざら口に放り込んだ。
 
 ヴィノはすっかりやけっぱちだった。この能力と体質にもういい加減に嫌気がしていたのだ。