※嘔吐描写があります。
屈指の悪党の行き着く終着点には刑期満了の言葉はない。膨大な刑期と刑務とも呼べない過酷な拷問は生死を些末なものにする。
しかし、大監獄には隠された空間が存在した。
「まったく、とんッでもないバカもいたもんだわ!」
呆れかえって言い放ったのはインペルダウン・レベル5.5番地、名付けて「ニューカマーランド」。その女王、イワンコフである。
突然叱責されているというのも忘れて、ヴィノは煌びやかな照明の光に目を瞬かせた。なにせ、こんな人口めいた光を浴びるのは久々だ。
饗宴に大騒ぎする人々、煌めくミラーボール。それを見て一体誰が、ここが監獄だと理解できるというのか。
曰く、遠い昔に穴を掘る能力者が収監されていた。年月を経て、誰とも知らない人物が開いた空間はいつの間にか囚人たちの楽園と化していたのだという。獄卒たちの間でオカルト話として語られていた、囚人の神隠し現象の実態がこれとは夢にも思わないだろう。
「全部見てたわよ、モチロン!見てましたとも! 海楼石をがぶ飲みするバカなんて〈偉大なる航路〉広しといえど、そういないわよ!」
周りの騒ぎを凪いだ目で見るヴィノにイワンコフの巨体、いや巨顔が詰め寄る。
この、違法集団の中のさらに無法な連中は、何某かの手段で監獄全体の監視映像を盗聴していた。監獄の様子を肴に好き勝手騒ぎ立てるのが5.5番地で一番のエンタメだ。変わった動きをする者はすぐにマークされる。「猛獣地獄」での騒ぎも彼らには筒抜けだった。
「うぷ」
新参者に一通りの説明をしてやっていると突然ヴィノは口元を押さえて俯き出した。
「おい新人! いくらイワ様のお顔が濃いからって吐き気を催すとは失礼じゃないか!」
「そうよそうよ! って誰が二日酔い必至の顔面ですって!?」
イワンコフと信奉者の戯れに付き合えるような余裕はヴィノにない。
「ふん。海楼石の拒絶反応ね。触れるだけで力を奪う代物を飲み込んでどうなるか、興味がないわけじゃないけれど」
ヴィノから大したリアクションが返ってこないことを悟るとイワンコフは一瞬で冷めた表情を作り、言った。
彼女/彼にはヴィノの次の言葉が分かっている。見れば、ヴィノはすでに立っているのもギリギリのようだった。衝動に任せた自傷行為の愚かさが身に染みていることだろう。イワンコフに縋りさえすれば、それくらい治してやるのは彼女/彼にとって造作もない。
「……。」
だが、ヴィノはだんまりだ。いつまでたっても懇願の言葉はやってこない。
「呆れたわ。そのまま死ぬつもり?」
それはなんとつまらない結論だろう。生きる気のない人間を相手にするほど無意味なことはない。イワンコフから、侮蔑すら込められた視線を向けてもヴィノはぷいと反抗的にそっぽを向いた。
「かッッッわいくないわねェ~!!! いいわよ!! 一生そうやって海楼石がぶ飲みで勝手にダウナーになってなさい!知らないから!」
「なんでお母さんみたいになってるんですか?」
イナズマがローテンションで呟く。それも無視してヴィノは賑やかなフロアの隅に座り込んだ。
ヴィノの態度はまるっきり、へそを曲げて引っ込みがつかなくなってるだけの幼稚な行動だ。そんな様子で居座られては馬鹿騒ぎの興も醒めるというもの。
しかし一度地獄を味わった囚人たちだって負けてない。ノリが悪かろうと彼らには関係ないのだ。
「せっかくあの地獄を生還したんだぜ? 楽しめよ」
「無限に呑み比べできるなんて最高。ね、仲間に入りましょうよ」
彼らからの声かけをヴィノは黙って拒絶する。こんなシチュエーション、これまでの彼なら考えなしに飛びついただろう。でもその結果、何度も失敗を起こしてきたのである。30年の人生でようやく、ようやく彼はそれが身に染みた。
いままでが駄目だっただけで、今度こそ大丈夫かも。その期待がさらに事態を悪化させるのだ。後ろ髪引かれながら、ヴィノは顔を伏せて誘惑を拒み続けた。
「──麦わらが目を覚ましました」
今度のは誘い文句ではなかった。
イナズマがヴィノには目もくれず、足早に彼の前を走り去っていく。……そういえば、今日の騒々しさはいつもとは少し毛色が違う。息苦しさに耐え、時々意識を失いながら、ヴィノはやっとそのことに気がついた。
てっきり、また外から新しい人間がやってきただけと思っていたのだが。
何日かぶりに顔をあげてみる。あれだけ愉快に騒いでいた人々が武器を手に険しい顔を作っていた。そうしていると途端に凶悪犯に見えてくるので、馬鹿騒ぎばかり見ていたヴィノにはなんだか不思議に光景だ。
脱獄。どこからかそんな言葉が聞こえる。そうか。みんなここから出て行くつもりなのだ。そのことが分かっても、ヴィノはその波に飛びこむ気になれない。
なにより、いまの体調では彼らの勢いについていくことすら困難だろう。
「いいこと!? 暴れるだけ暴れて戦力を分散させるのよ!」
誰よりも大きな声のイワンコフがなにやら指示を出すのを聞きながら、ヴィノの胸中はとっくに諦めが支配していた。だから、こんな事態であっても他人事だ。そんな腑抜け目掛けて、彼女/彼の腕が伸びる。剛腕は勢いのままヴィノを揺すぶった。
「ヴァナタもいつまで拗ねてんの!! 協力すんのよ!!」
「ちょ、待っ……、揺すんないで……」
絶不調のところ揺さぶられては堪らないが、イワンコフに遠慮は一切ない。
「イワちゃん、そいつ誰だ?」
知らない声が問うのがかすかに聞こえたものの、強烈な吐き気の渦中にあるヴィノにはそれが誰なのか判断できない。
「こんなでも、撹乱を狙うなら打って付けの人材よ」
どうやら勝手に脱獄を手伝わされる流れになってるようだ。そのうえ、イワンコフの口振りはヴィノの能力を頼ろうとしているようにも聞こえる。ヴィノとしてはなんとしても抗議しなければならない。強引に連れ出されながら、なんとか言葉を紡ごうとする。
「悪いけど、おにいさんは協力なんてしな……」
「うるせえ!! 吐けェ!!」
ヴィノに思い切りボディブローが決まる。そのまま真っ逆さまにされ、胃の中の一切合切を吐き出させられた。どこから見たってただの暴力にしか見えないが、抜け目なく解毒ホルモンも一緒に撃ち込まれている。
「ヴッ……、ウおェーーーーーッ」
大量嘔吐の末、おおいに嘔吐きながらヴィノは身体の感覚が変わっていくのを感じていた。
「きったね」
麦わら帽子の彼が、思わず、という風に言った。こっちは無理矢理吐かせられてるだけなのにひどい言い種だ。体質ゆえ、ヴィノはなったことがないが、二日酔いの人ってこんな感じなんだろうか。
「ん?なんだ? なんかクラクラするような……」
麦わらの彼が異変に気付く。涙目になりながら、ヴィノはぎくりと背を強張らせた。それは体内の海楼石を出し切ってしまったことを意味していた。まずい。これじゃまた逆戻りじゃないか。
「サケサケの実よ。ヴァナタのやることはわかるわね?」
首を捻る麦わら帽へ簡潔に説明を与えながら、イワンコフの台詞はどんどん先へ行ってしまう。ヴィノの意見なんてまるで関係ないみたいに。
「だって、きみたちだって巻き込んでしまうのに……」
焦るほど、酒気は高まる。空気中に溶け込む酒精はヴィノのコントロール下にないのだ。攪乱と言ったって、都合よく酔わせたい相手だけを酔わせられるものじゃない。
「……くだらねえ」
空気が、変わった。
ふわりと漂っていた香りが掻き消える。その中心に男が立っていた。ヴィノと同じ、囚人服に身を包む男。いままさに、己を拘束していた海楼石製の手枷を悠々と外す姿は彼もまた能力者であることを語っている。
獰猛な爬虫類の目に、鼻筋を横断する大きな傷。囚人には見合わぬ、これまた大きな金属製の鉤爪。元七武海、サー・クロコダイルは不敵に口端を歪ませる。
「ただの水分だろう」
そして気怠げにヴィノへと視線を向けると、そう言った。自分の能力をものともしていない。状況についていけていないヴィノにもそれは理解できた。言い換えれば、それだけ分かればあとはどうだって良かった。
「ハ……、猫の手も借りてえってとこか? あのイワンコフが?」
「しばらく会わないうちにお喋りになったわねえ、クロコボーイ」
旧知であるらしい二人が不穏に顔を突き合わせる。
引き摺られるだけだったヴィノは、いつのまにかすとんと地に足を着けてその様子を見ている。さっきまでの捻くれた態度はどこへやら、その目はまるで子どものように輝いており、頬なんかちょっと赤らんですらいた。
リーンゴーン、とどこからか福音の鐘の音が聞こえる。それはその場でヴィノにしか聞こえない幻聴だった。
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