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 クロコダイルは知略を得意とする男だ。中でも大衆の扇動が抜きん出ているのは、あのアラバスタでの悪行を踏まえれば言うまでもない。人間相手でさえそうなのだから、動物を扱うなんてことはさらに容易だった。
 
 ヴィノの扱いはどちらかといえば動物相手の類に近い。と彼は考えている。
 そんなことを考えながら、彼は傍らで転がる寝姿を一瞥し、迷いなく手刀を振り下ろした。布団の塊からは衝撃による呻き声が漏れる。たいした力は込められていないが、なかなか良い場所に入ったらしい。
「起きろ」
 ──いつまでも呑気に寝こけるな、と。さっきの一発で目は覚めたはずだが、ヴィノはそれでもなかなか微睡を手放そうとしない。憎たらしいことに、目を開けていたってろくに命令をきかないのだ。クロコダイルからは大きな溜め息が出る。
 
 獣の躾をするうえで重要なのは上下関係をはっきり理解させることである。だが、それよりも有効なのは習性と反応をこちらが利用することだ。クロコダイルは布団を抱いてもにゃもにゃ言っているヴィノへ上体を近づけると、今度こそ聞き逃すのは許さないとばかりに耳元へそっと唇を寄せた。
「……おれのコーヒーを淹れさせてやる」
 朝に似つかわしくない低音を流し込まれ、途端にヴィノの目がぱかりと開かれる。
「おはよう!!」
 クロコダイルの目論見通り、やる気に満ち満ちて一気に覚醒状態だ。
 このように適当な役割を与えてやればヴィノは目の色を変えて喜ぶ。追い出すまでもなくベッドから飛び上がる背に「顔洗ってから来い」と釘差すと、ようやくクロコダイルの平穏は訪れる。それがたった10数分後に再び壊されるのだとしても、気怠い頭で身を整える時間としては十分だった。
 
「商談がある。相手は『元七武海様』だ」
 ブラックコーヒーに口をつけながらクロコダイルは言った。
 手触りの良いファー付きの黒コートに身を包んだ出で立ちはいつも通り、もう寸分の乱れもない。その向かいに座ったヴィノも同じく、苦味の強いブラックを眉ひとつ動かすことなく口にする。相変わらず、彼が気持ちを込めすぎるとブラックコーヒーにいつの間にかブランデーが混ざったりしてしまうので、淹れるにはいい塩梅に気を遣わなくてはならず、これがなかなかコツがいる。今回のは上手くいったはずだ。たぶん。クロコダイルから文句があがらないことに胸をほっとさせながら、ヴィノは話に耳を傾けていた。
「じゃあ、お客様だ」
「いや今日のは客じゃない。立場が違うからな」
 その皮肉げな言葉節の真意をヴィノは察することができない。どんな相手であろうと、来客には変わりないはずだが。クロコダイルの言うことはときどき謎掛けみたいだ。と彼は思った。
 
 
 大きく賑々しい船に、これまた大勢をお供にやってきたその商談相手はヴィノにも覚えのある人物だった。以前見たときに比べ、少しばかり人相と体格が違うようではあったが特徴的な顔立ちは「道化のバギー」、いまは「千両道化のバギー」その人で間違いない。
 知っている顔ではあったけども、あの脱獄劇においてそれほど接点もなかったため、ひとまずヴィノはおとなしく様子をうかがうことにする。
 
「よーぉ、まだくたばってなかったかクロコダイ、ぶへぇッ!?」
 第一声は鉤爪による強かな一撃で終了した。バギーの体はあっけなく船の端まで吹き飛ぶ。
「シツレーなやつだなッ! 海賊同士の挨拶って言ったらこんなもんだろうが!」
「海賊“同士”、だァ?」
 あからさまに機嫌を降下させるクロコダイルを前に、ばらけた体を正しい位置に戻しながら、道化はむしろ抗議に声を荒げた。図々しいと称するべきか、タフなのだ。この海を根城にする者は大概タフである。
 
 お客様の要件は、インペルダウン脱獄を果たした親愛なる戦友に、要は金の無心にきたということらしい。
 本題に入るや否や急に平身低頭で語り始める男相手に、クロコダイルは顔色ひとつ変えずに悠々と葉巻を吹かしている。その態度はヴィノに言い聞かせた通り、「立場の違い」をよく体現していた。金を持っているほうが大きな顔ができるというのはヴィノにも理解できる普遍的な事実である。構造が分かったところで、ようやく二人のやりとりに興味がわいてきたのか、彼はクロコダイルとダズという二つの壁の間からそろりと顔を出した。
 
 そうして目が合った優男の顔は道化にも覚えがあった。戦場を引っ掻きまわしてた囚人のひとりだ。場違いな面構えをしていたため、なんとなく目の端に入っていたのである。それが強面二人の背後でまるで隠れるようにしているので、バギーの頭には「一体何の冗談だ?」と文句が浮かぶ。それだけだ。彼にはそれを揶揄するような言葉は浮かんでいなかったし、そのつもりもなかった。
 ……だが本人よりも早くそれを察した鉤爪が鋭利な切っ先を道化に突き刺した。
「おれ様まだなにも言ってねえんだが!?!?」
「同じことだ」
 横暴の塊のような男が静かに唸る。なぜこんな男のもとを訪れてしまったのだろうと、そろそろバギーは後悔しだした。なにもかも金欠のせいなのだ。
 
「教えておいてやるが、こいつを表に出さないのは貧弱なおまえらをうっかり殺しちまわねえためだ」
「いや別に聞いてね……、イエ、アリガトウゴザイマス……」
 それもまたクロコダイルの理解するヴィノの習性だった。一座がやって来てからというもの、ヴィノは自分の能力を危惧して余計にクロコダイルの後ろから出てこない。
 だがそれが事実であれ、己の背後に身を隠すのをクロコダイルが承諾するかどうかはまた別の話であるはずだ。今度こそ内心を気取られないようバギーは表情筋を殺した。
 
「可哀そう……、大丈夫?」
 一方、容赦なく穿たれた傷からしとどに出血するバギーの痛々しいさまに、ヴィノは憐れみの目を向ける。どうやら二人の気兼ねないコミュニケーション(暴力)は彼の目には肯定的に映ったようだ。
 クロコダイルの友達ならば助けなければ。ヴィノは怯むのをやめてそっと歩み寄る。すると、あら不思議。華やかな香りとともにバギーの体から手酷い痛みが和らいでいった。
「な、な、なんだ!?」
 状況からして、ヴィノが何か施したのは明らかだった。バギーは持ち前の高い危機回避能力に従って未知数の男から数歩後ずさる。
「鎮痛作用か」
 クロコダイルが納得とともに呟くとヴィノは微笑んで肯定を示した。アルコールにはそういった特性もある。数秒遅れてバギーも腑に落ちた。
「そりゃ良いけどよ。血、止まらないんだが?」
 寧ろ勢いを増したように活気よく流れる血を指さしながら道化は言った。
 
 それにさして興味を持った風もなく、クロコダイルは凪いだ目つきで煙を吐くと、その白が空気に溶けていくのをゆっくりと見送った。バギーの指摘はおそらく正しい。たっぷり間を置いたのち、ようやくクロコダイルは口を開く。
「まあ……、だろうな」
「人体って不思議だよねえ」
「死が近づいてるだけじゃねえか!!」
 
 つくづく、ヴィノの能力は毒にはなっても薬にならないのだ。酒は名医になり得ない。バギーの命がけのツッコミを、クロコダイルはただ煩わしげに顔を歪めただけで終わらせた。そして右手で大きな鉤爪に触れる。言うまでもなくそれはバギーに怪我を負わせたばかりの代物である。
「良いだろうピエロ……。お前の要求を飲んでやる」
 意外にも、彼から発されたのは快諾の一言だった。剣呑な雰囲気に息を呑んだばかりだったバギーは面食らいつつ待ち望んだ言葉に飛びついた。
「無償で!?」
「利子はつける。当然な」
 バギーは見た目通りの道化だが、貸しを作っておくこと自体には利がある。後ろのほうで控えている大所帯を見据えて、クロコダイルはそう打算した。
 
「良かったね」
 ヴィノはとにかく場が円満に収まったことを喜んでいるようだった。短絡的な認識による齟齬はいつものことなのでクロコダイルも逐一訂正はしない。いまはそれよりも債務者のサインに目を光らせるほうが重要だ。睨み殺さんばかりの眼に見降ろされ、バギーは泣く泣くペンを動かした。その動きがぎこちないのは契約内容に乗り気でないだけではない。それまでやりとりを遠巻きに見守っていた部下たちによってバギーはいつの間にか全身包帯でぐるぐる巻きにされていた。あの脱獄騒ぎで彼について行った囚人たちの慕い振りは相変わらずのようだ。見覚えがあるような、別にそうでもないような顔触れを眺めるヴィノの視線に、そこでバギーはひとつ金策を思いつく。
 
「見ての通り大所帯でなァ。食費ばかり嵩みやがる……」
 希代の詐欺師が憐れっぽく語りながら、ころりと声色を変えて「で、おまえ誰だっけ?」と問うので、ヴィノは素直に名を名乗った。
「ヴィノくん! 知ってるだろ、海賊ってのは酒を呑むもんだ」
 聞く人が聞けば空々しい文句もまんざら嘘ではない。一度肥大化した力の維持費は馬鹿にならないものの、それをみすみす手放すことなどバギーに出来るわけがない。ヴィノ本人はかなり小食なほうだったが、この規模を養う過酷さは想像できた。海賊に大酒飲みが多いのは事実で、だから彼は基本的に海賊のことが好きだ。
「うん、そうだね。その通りだ」
「そうかそうか分かってくれるか! で、物は相談なんだが……」
 標的があっさりと頷けば、バギーの口振りは勢いづく。頭の中ではすでに無尽蔵に湧く酒を元手にした大宴会が繰り広げられ、部下の野郎どもは口々に彼を褒め称えていた。……そんなささやかな妄想に歯止めをかけたのはクロコダイルの低音だ。
 
「呆れたな。このうえ、まだ借金をこさえたいか」
 現実へと引き戻されたバギーがおそるおそる確認すれば、彼は椅子へ深く腰かけたまま声だけこちらに寄越していた。その態度からはバギーを積極的に咎める様子は窺えない。てっきり、変な地雷を踏んだかと思われたが、杞憂と分かれば怖がることはない。彼は胸を張って言い切った。
「別にいまはお前に頼んでねえだろが」
 クロコダイルとの交渉は終わっている。靴まで舐める勢いで金をせびりはしたが、いまこの男は第三者のはずだ。
 
 バギーの思惑を裏付けるように強気な返答にも鉤爪が振り下ろされる気配はない。その代わりとばかりに、クロコダイルは長いため息をつくと片手を懐に入れた。
 常人であれば内ポケットでも探るのだろう。しかし彼の右手は留まることなく、そのまま砂の身体のなかへずぶずぶと埋まっていく。指輪をぎらつかせて探りあてたのはしっかりした材質の紙だった。
「あっ。 それ……」
 それを見て、ヴィノが声をあげる。それはもうひとつの契約書だった。それも、ヴィノがクロコダイルと協力関係を結ぶことになった日に交わしたもので間違いない。そういえば。彼と交わしたいくつかの約束事のなかに、能力の一切を彼が取り仕切るという文言があった。ヴィノはようやくそれを思い出していた。
 
「だから、こいつがお前に協力することはない」
 言い聞かせるような声色で彼は言った。余裕の意味を見せつけられて、バギーの表情は苦々しくなる一方だ。
「……っつうか、それ持ち歩いてるわけ?」
 そして、辟易とした感情をようやくひとつ吐き出した。それが全て物語っている。クロコダイルの見せた執着の一端に、バギーは普通に引いていた。
 
「踏み倒そうなんて考えるなよ、お前も」
 悪魔のごとく、契約したが最後この男はどこまでも追ってくるだろう。
 その脅し文句に取り繕うかのような色が滲んでいたとしても、それは確かなことだった。