チョコとか愛とか

「いらん」
「ええーーーーーっ!!?」

 ヴィノの気の抜けた絶叫が部屋に響く。
 それ自体はもはや何の変哲もないありふれた光景だ。しかし最終的に行き着く地点が同じであっても、プロセスが違えば意味合いは異なる。

 第一に今日はとても良い散歩日和だったので。それは、やおら外の様子を覗き込んだヴィノが気まぐれにどこかに出かけようかな、と思えるほどに晴れやかで、かといって暑すぎない絶好の気候だった。そしてお誂え向きに、その日彼らが拠点としていた島にはそこそこ賑わった市場があった。人集りには少し気おくれはしたものの、彼はすぐにその活気を見物することに決めた。
 そしてふらりと立ち寄った先で、ひときわ目立つ賑わいを目にする。そこへでかでかと書かれた文字が目に留まった。バレンタインデー。

 その文字列はひと目で彼の心を捉えた。
 ヴィノにとってバレンタインデーはけして身近なイベントではない。対人経験の乏しい彼には縁遠いものだ。だからいままで忘れてさえいたのだが、とにかく、世の中にはそんな素敵な催しがある。
 自分ではない誰かへ、チョコを携えて愛を伝える。喜ばしいのはいまの彼にはそれを贈る相手がいることだった。甘く、可愛らしい愛のイベントに、当事者として参加する資格が彼にもあるのだ。それはなんて素晴らしいことだろう。チョコを買い求める人々はどちらかといえば、みな戦に挑むかのような鬼気迫った表情をしていたが、名案に胸高鳴らせるヴィノはそんなことは気にしない。陽気なにこにこ顔のおにいさんは大小様々チョコが並ぶ中からふたつ選ぶと、それをかわいくラッピングしてもらったのだった。

 そうして意気揚々と帰ってきた彼を、クロコダイルはほとんど一瞥もくれずに突っ撥ねたのである。

 まさか、断られるとは想像さえしていなかったヴィノは口を開けたまま大げさに面食らってみせた。しばらくぽかんとなってから、彼なりに考えに至ったらしく口を開く。
「ええと、今日はバレンタインデーといってね、」
 遮るようにじとりとした視線が相槌代わりに向けられ、再びヴィノは口を噤んだ。どうやら相手はイベントを知らないわけではないようだ。

「おまえの考えは大概見当がつく」
 知らないどころか、クロコダイルにはヴィノの思考の一部始終が手に取るように分かった。町の騒々しいムードに乗せられた単細胞。余計なトラブルを引き起こさなかっただけ今日は幾分ましだが……、と差し出された小箱を見るクロコダイルの目はいかにも胡散臭いものを見るように眇められる。その目つきからは社交辞令的な含みさえ感じられない。

「クロコは、おにいさんのこと嫌い?」
 あまりに幼い声色に、クロコダイルはこめかみ辺りにはっきりとした頭痛を覚えた。その苦々しげな表情の意味を解さないヴィノはただ目を瞬かせるしかない。

「おまえこそ、意味を分かってるんだろうな」
 声色になにやら苛立ちまで帯びて、クロコダイルは大柄な体躯をずいとヴィノに詰め寄らせた。
「意味? 何の意味?」
「今日、そいつをおれに渡す意味だ」
 問われる謎かけに、そんなのわかってるに決まってる。とヴィノは思った。今日は好きなひとに贈りものを渡せる素晴らしい日だ。知っているからこそ彼もそれにあやかったのだから。なのに、その相手ときたら責め立てるかのような視線を外そうとしない。

 困って口籠もってしまっているヴィノの顎を冷たい金属が持ち上げた。目を向けるまでもなく、それは彼の鉤爪だった。ひとたび戦場となれば十二分の威力を持つ武器だが、いまはただ彼の片手としての役割しか持っていない。ヴィノはそのひやりとした温度を感じながら仕向けられるままに相手を見上げた。
「あげたいなと思って、そしたら思いついたのがきみだったから……、変かな?」
 探られたところで彼の真意などそれくらいのものだ。ヴィノはそれを偽りなく、過不足もなく伝えた。なにかしくじってしまったらしいというのだけは察して、おそるおそると。

 ふとクロコダイルから詰問の空気が消えた。代わりとばかりに長く重い溜息が吐き出される。
 これ以上の詮索は徒労に過ぎないと、そう折り合いをつけたのだ。ヴィノの体はあっさり解放された。椅子に深く腰かけて脚を組むクロコダイルの姿はいつも通りの貫禄を取り戻したように見える。
 そんな彼を、放っぽかれたヴィノの一心な瞳が見つめている。お行儀よく己の返答を待っているのだ。そのまなざしへクロコダイルは再び目を向けた。駆け引きもなにもないまなざしにあてられて、彼の気分はほとんど投げ遣りになった。
「寄こせ」
「えっ?」
 あんまり端的な言い種をヴィノは聞き逃してしまう。仕方なしにクロコダイルはもう一度念を押すように言葉を吐いた。
「受け取ってやる。早くしろ」
「ほんと!?」
 その言葉に文字通りヴィノは飛びついた。催促のポージングで広げた右手に喜色満面の彼の手が収まる。チョコを受け取ってそれでおしまい、というわけにはいかなそうだ。彼の弾んだ声が続く。
「じゃあ、開けてもいい!?」
 窺いながらも待ちきれないらしく、贈り主自らリボンは解かれてしまった。プレゼントのマナーなど露ほども知らないヴィノである。とにかく早く中を見せたくて仕方ないのだ。

 全身で期待を表すのに急かされ、クロコダイルは小箱に視線を注いだ。その中身とばっちり目が合う。そこにはころんと丸く、まるで絵本の中から出てきたかのようにデフォルメされた動物たちが彼を見ていた。
「……。」
 彼が言葉を失うのも無理はない。動物型のチョコなんて、間違いなく壮年の大悪党に渡す代物ではないからだ。
「おまえには世界がどう見えてるんだ……」
 思わず漏れ出た呆れ声も、ヴィノは意に返さない。楽しくてたまらないといった調子で微笑むと箱からひと粒を選び取る。
「はい、どうぞ」
 つまんだ指先ごと押しつけられ、クロコダイルは今度こそ呆れ果てた。これ以上のごっこ遊びに付き合う義理は彼にはない。すげなく断るべく椅子へ乗り上げる勢いのヴィノを見降ろす。彼の眼はそこに僅かな企みの色が含まれているのを見逃がさなかった。

 おそらくひよこを模した愛らしいひと粒を容赦なく噛み潰す。単純な甘みのなかに仕込まれたものが溢れだし、クロコダイルは静かに喉を鳴らした。
「……細工したな」
 こども向けの無害だったチョコは彼の手によって芳醇なウイスキーボンボンに変えられていた。手ずから差し出したのはそのためだったのだ。
「おにいさんからの特別製だよ」
 企みを見透かされてヴィノは殊更嬉しそうに微笑んだ。彼がそのように作り変えたのだから、量産型のチョコは人を堕落せしめる味に昇華されている。そんな劇物を、ヴィノはのほほんとした顔でひとつ、またひとつと勧めてくる。
 手つきだけはいやに甲斐甲斐しいが、クロコダイル相手に平気で一服盛っている事実に本人は気が付いていない。事前に断りさえない行動はどう受け取られたっておかしくないのだ。ヴィノが上機嫌でチョコをぽいぽい投げ入れられるのは、一重にクロコダイルの聡明さと忍耐のおかげであった。

「実はダズにも用意してるんだ。お肉が好きだから、ステーキ用のチョコソース」
 ご機嫌ついでにヴィノは口を滑らせる。彼の楽しいバレンタイン計画はまだ続くようだが、想像するまでもなくそちらは不発に終わるだろう。

 同時に、先ほどの尋問がまるきり徒労だったことを思い知って脱力する。やはりこの男は「何も分かっていない」。
 胸中にさまざまな苦言が氾濫するのを感じながら、クロコダイルはそれらごとチョコを噛み殺した。