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 地下に作られた店内は薄暗い。間接照明としてランプが点々と灯ってはいるものの、隣に座る相手の表情さえ不明瞭だ。まさに悪人たちが非合法に社交するには絶好の場所といえた。

「今夜のシャンパンは味気ないですね」
 暗がりからやってきた声が、歌でも歌うかのように軽やかに言う。その顔を確認するよりもさきに、声の主はするりと隣に腰掛けた。手には同じくシャンパングラスを携えていてる。しなやかだが、しっかりした男の手だった。

 彼は瞳の奥を笑ませ、グラスのふちを合わせて乾杯を送った。水面が揺れて、液体はきらめく黄金色に変わったようだったが、男がそれに気付く様子はない。微笑みをたたえて杯を勧める相手へ目を向けていたからだ。そしてその瞳に促されるまま杯は傾けられた。

 

「ああ緊張した! あんなにたくさん人がいるなんて」
 標的をしっかり“潰し”終えて、ヴィノは胸を撫でおろす。

 クロコダイル――言うまでもなく今回の黒幕である――は彼の仕事ぶりを見ずとも、その満足げな表情から役目が確かに果たされたと確信していた。

 二人が落ち合わせた場所はさきほどの店に比べれば人手は少ない。クロコダイルの巨躯が収まっているのはさらに人目を避けた場所のボックス席で、ヴィノはそのことにまたひと安心し、広く開いた向かい側ではなくクロコダイルの隣へ身を寄せた。彼のパーソナルスペースがおかしいのには何の意図もない。ただ、この距離感にいつの間にか慣らされている自身にクロコダイルが辟易するだけだ。

 今日の標的はここ一帯の酒場を取り仕切る代表格だった。犯行現場から通りを二本挟んでもなお続く歓楽街。『偉大なる航路』でも名のある享楽の街である。クロコダイルでなくとも、情報を求めた人間があちこちから集まってくる土地だ。ただ、自ら動くには彼は顔が知られすぎていた。勿論いつだってそれを上手いこと利用してきたが、諸々鑑みてこの街では出し惜しんでいる。そこでヴィノに白羽の矢を立てたのだ。

お酒おにいさんを嫌うひとなんていないもの」
 それをまたひとつ証明してみせて、彼はとてもいい気分だ。いい気分ついでに、通りがかる店員相手にも愛想を振りまく。クロコダイルはその締まりのない顔ごと頭を鷲掴んで席の奥へ押し込んだ。折角作戦が上手くいったのにここで問題を起こされては敵わない。事情を知らない人間から見れば彼がわざわざ他人の目からヴィノを遠ざけたように見える。それは間違いではないのだが、ヴィノの危険度を知らないのなら、意味合いの異なる行動と受け取られるだろう。
 それこそ、アラバスタの英雄時代を知る者からは、「クロコダイルさん、趣味変わりました?」などといった不躾な目が向くのも屡々だった。おそらくその脳裏には砂漠の王国で彼の秘書を務めたミステリアス美女が浮かんでいることだろう。二重で勘違いである。腹立たしいことこの上ない。

「お前、この服はどうした」
 苛立ちついでにクロコダイルはじろりと彼の装いへ目を向けることにした。
 ヴィノを送り込んだ先ほどの店には軽いドレスコードが設けられていた。そこへ問題なく溶けこめるよう、彼ぴったりに合うスーツを用意してやったのだ。しかし、いまヴィノが身に纏っているのはオーバーサイズのシャツで、ジャケットさえ見当たらない。当の本人は指摘を受けてようやく自分の恰好を思い出したようで、視線をしどろもどろさせだした。
「かたい服ってやっぱり、どうしても苦手で……」
 ここで言う「かたい」とは形式の堅苦しさ以前に生地の厚みのことを指すのだろう。ヴィノから言わせればフォーマルな服はどれも例外なく硬い。

 だがそこの理由はどうでもいい。クロコダイルが問うているのは勝手極まる彼が代わりに着ている上等なシャツの出どころについてだった。それが大いに見覚えのあるものだから問題なのだ。
「でも、きちんとした格好で行かなきゃって話だったろう? どうしたものかなと思って、おにいさんあんまり服持ってないし」
「それで」
「それでその……、借りちゃった」
 せっつかれた末にようやく、ヴィノの台詞は結論に至った。つまり、どう見ても見覚えのあるシャツは正真正銘クロコダイルのクローゼットから拝借したのだと。すでに寝室の占領を遂げている彼にとってクローゼットを漁るのは容易なことだった。

 ダズにしろヴィノにしろ、部下は自分の服飾品も同然のクロコダイルである。つまるところ所有品に所有品が付属しているだけにすぎず、シャツの一枚くらいどうということもない。
「つくづくお前は略奪者向きだ」
「ええっ」
 が、見繕ってやったのを無碍にされたのはまた別の話だ。棘を纏わせた指摘は悪事の自覚がない相手には効果的だった。

「借りただけなのに……」
 お門違いな傷心の表情を浮かべる様子は反省からはほど遠い。正直なところ、ヴィノに服の良し悪しはわからない。それでもクロコダイルが生粋の洒落者であることは理解していたので彼が選んだ服ならきっと相応しいだろうと、クローゼットを覗きこんだヴィノはひらめいたのである。

 実際その思惑自体は当たっていて、カジュアルに着てもなお上等な風格は問題なく作戦を遂行させた。
 それどころか、緩やかな着こなしは彼の持ち前の雰囲気によく似合っている。だぼついたシルエットは肉体をより中性的に見せるのに効果的だったし、ずり落ち防止に巻いた革ベルトと意外にもしっかり留められたボタンのアンバランスさは見る者に何とも言えない引力を感じさせた。
 クロコダイルの好む着こなしとは違うが、見てくれだけはいっちょまえの姿を前に、怒りよりも感心に近い感情が上回った。

 それに、とクロコダイルは再び鑑賞の目を向ける。目に留まったのはこれまたゆるく編まれた柔らかそうな質の髪だ。ヴィノの手先はこまごました作業をするのに向いていた。誰に教わるでもなく髪弄りが得意になったのは、一人時間を持て余しがちな彼の手慰みに最適だったという背景があるのだが、そこはひとまず置いておく。
 お小言をやめて口を閉ざしたクロコダイルが、前触れなくその髪の束に触れた。なんだろうか、とヴィノの雄弁な目が問いかけた。

「随分伸びたな」
 と、どこか感嘆の声でクロコダイルは言った。彼の言う通り、ヴィノの髪は監獄で会ったときに比べていつしか長くなっていた。
「あのときは色々あったから……、」
 先述の通り、手慰みにできたほどもともと彼の髪は長かったのだが監獄のあまりに劣悪な環境のため失われていた。確か、燃えたかなにかしたのだ、とあの大騒動を思い出そうとしてヴィノは曖昧な思考に浸る。しかしクロコダイルの言うことに気をとられ、それはどうにも上手くいかなかった。

 爬虫類めいた視線が眺める先でシルクのスカーフが触れる。これもまたクロコダイルには見覚えがあった。今回の仕事に際し、スーツひと揃えとともに見立てたものだ。首もとが締まるのが苦手だと言う主張のためにネクタイ代わりに与えてやったのだが、どうやらそれさえ耐えられなかったようだ。ここまでのすげない仕打ちのあとでは説得力のない話だが、ヴィノとて貰ったものを蔑ろにしたいわけではない。彼にも良心のほんの欠片くらいはある。
 結果、折衷策としてスカーフは彼の三つ編みに組みこまれることとなった。これならば息苦しさは少しもない。クロコダイルの想定とはどこまでも食い違うものの、ヴィノなりに巡らせたであろう考えを認めてやってもいい。器用に編まれた美しい織物は彼をそんな気分にさせた。

「まあ、一年も経てばこうなるか」
 そしてこれまでの苦労を想い、だいたい当たりをつけてそう言った。
「え、そんなに?」
 何となしの言葉は決定的なものだった。さっきからどこか気持ちが疎かで落ち着かなかった原因をヴィノはようやく理解した。

 あの脱獄劇から、果たしていくつの季節を越しただろう。それを数えようとして『偉大なる航路』においては無意味なことだと思い出す。ひとところに留まっているのならまだしも、自分たちはもう何度も拠点を変えているのだ。
 結局、ヴィノには正確な経過時間は分からなかったけど、クロコダイルの指がなおも行き来する自分の髪がなによりの証だった。

 そのことを自覚した途端、ヴィノの胸の奥がなにかに鷲掴みされたようにぎゅうと狭まる。一年。彼にとっては破格の期間だった。なにしろ、そんなにも長く誰かのもとに留まれたことはいままで一度だってなかったのだ。にも拘らずそれを数えることさえ忘れていたなんて。
 体内を急速に血が巡る。なにひとつ言葉を発せないまま、彼の頬が赤く染まっていく。熱をうまく逃がすことが出来ずに瞳は困惑に揺れる。クロコダイルはその変化していくさまをまじまじと目にした。遅れて、まずいと思いなおす。

「抑えろ馬鹿!」
「だ、だってえ!」
 言っている間にもヴィノの赤面は止まらず、あたりをぽんやりした空気が満たしだす。慌てたクロコダイルが彼を机の下へ力任せに押し込んでも状況はろくに変わらない。それどころか乱暴な接触でさえいまのヴィノは不思議に胸を高鳴らせてしまうのだからどうしようもなかった。
 非常事態であることだけは傍からも明らかで、店の奥から意を決したような顔つきの店員がやって来る。

「お客様、店内で破廉恥な行為は……」
「うるせえなッ!! してねえよ!!!」