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 大きな犠牲を払いつつ、逃げ延びた者たちは奪取した海軍船で定められた航路を進んでいた。
 脱獄というひとつの目的が果たされたいま、無法者の寄せ集め集団は進路についてなにやら言い争っている。
 
 喧騒を興味深そうに見下ろしながら、ヴィノもひと心地つくように胸を撫で下ろす。空は場違いなほど快晴で、気持ちいいくらいだ。
 
「ヴィノ君。お前さんこのままついてくる気か?」
 これまた騒ぎとは離れた場所にいるジンベエが、ふいに声をかけた。彼もまたヴィノとは初対面だ。
「うん。〈凪の帯〉にはおにいさんもできるなら行きたくないしね」
 
 航路を逸れればそこは海王類たちの巣だ。海王類のおそろしさ……いや、融通の効かなさをヴィノはよく知っていた。それというのも、ある日「体が大きければ酔いが回るのも遅いのでは?」との要らない思いつきで、ヴィノは〈凪の帯〉に乗り込んだことがあったのだ。孤独は人をおかしくするらしい。実際、読み通り巨体揃いの海王類はそこらの獣より能力の影響が少なくはあったのだが。
 
「でも、全然だめ。全然話にならないんだもの」
 ヴィノはどこか呆れた風に肩をすくめた。理性も何もない海王類と絆を育むことは不可能だったようだ。誰が考えようと分かりきった結果である。なので、周りから呆れた顔で見られているのはむしろヴィノのほうなのだが、彼にはそれが分かっていない。
「話にならないか。それは同感だな」
 海に暮らす者として思うところがあるのだろう、ジンベエだけは微笑を含めながら言った。
 
 思いがけず自分の言葉に共感され、ヴィノは照れたようにはにかんだ。ほわりとよい薫りがのぼる。慌てて彼はクロコダイルの背に回るが、当然、接触する前に砂化し、ノーモーションでそれは回避された。
「随分懐かれたもんじゃのう」
「言うな。こっちは迷惑してんだ……」
 クロコダイルの寛容さはあまりに意外なものだ。相手にする労力と天秤にかければ、まとわりつく男を排除するのは簡単なはずだ。迷惑というのであれば、尚更。
 
(それとも、それどころではないというところか?)と、聡明なジンベエは想像する。クロコダイルの瞳に燈る闘志の色を見逃すことはできない。
 何にせよ、この男は自分がコントロールできるような質ではない。仕方なく、ジンベエはもう一方のほうへ声をかけることにした。
 
「お前さんは悪い男じゃなさそうだから言うが、クロコダイルについていくというのは……なんともなあ」
 ジンベエは忠告しつつ、本人の手前もあってか言葉を濁す。その慈悲深さにクロコダイルはとくに反論するでもなく、静かに煙を吹かした。今さらその程度の悪評で動じようはずもない。
「他人の心配たァ、お優しいなジンベエ」
「お前さんの態度が正直、不気味でのう」
「クハハッ」
 ジンベエの憂慮を理解して、クロコダイルは口角をつり上げた。それはそうだ。ヴィノの危機感のなさに比べればバギーの煽動に踊らされている海賊どものほうがまだいくらか賢い反応といえる。
 
「いいか。おれは白ひげの首を取る」
 そこではじめて、クロコダイルはヴィノをその視界に入れることにした。
 もはや無視されることに慣れ始めていたヴィノは少し驚いて、それから彼が語るのに耳を傾ける。白ひげ。その名がクロコダイルから発せられると、ジンベエは眼つきを険しくさせるが、構わずクロコダイルは舌を動かす。
「その邪魔だけはしてくれるな。あとはせいぜい好きにしたらいい」
 言いたいことだけ言って、またクロコダイルはそっぽを向いてしまう。それでも記念すべき一度目の会話成立には違いない。
 
「うん、まかせてくれ」
 ヴィノは鷹揚に答える。そこにどんな企みがあれ、彼にとっては相手が話の通じない海王類でないだけではるかにマシなのだった。

 

 

 ぱちん、と膜が弾けて、ヴィノは戦場に降り立った。のちに歴史に「頂上戦争」と呼ばれることになる場だ。
 想定外の連続で、軍艦ごと戦場に真っ逆さまとなった一行だったが、今さらその程度で脱落するものはいない。それぞれ能力で、自前の強靭さで落下の衝撃に備える。
 頭から落ちていきながら、ヴィノも風船でも膨らます動きで自分の周りに酒でできた膜を張った。攻撃から身を守るような防御力はないが、落下速度を格段に落とすことはできた。
 
「あれが、『白ひげ』……」
 ゆっくり落ちてきたため、ヴィノは多分に出遅れている。そんな中、クロコダイルが真っ先に向かっていく標的があった。仁王立ちのまま堂々とした振る舞いの大男は不意をつくクロコダイルの攻撃に然したる動揺を見せない。ここへ降ってくる前のクロコダイルの台詞を思い出す。であれば、あの男が白ひげで間違い無いだろう。
「お酒、好きかなあ……」
 ヴィノの興味は兎にも角にも、まずそこである。
 
「チ、距離が離れた……!」
 白ひげ海賊団の巨大な海賊船から退けられたクロコダイルの目は忌々しげに前を向く。
 人、人、人。物理的な距離は然程ではないにせよ、再びあの船首までたどり着くのは並大抵ではないだろう。ヴィノだって、突っ立っているばかりではいられない。やることはあの監獄でしたことの反復だ。だが、いまはあの時とは違い、クロコダイルには明確な標的がいる。……なんとかあそこまでの道を拓くことができないだろうか。因縁も事情もなにも知らないくせに、ヴィノはそんなことを考えていた。
「お前の助けなんざ要らねえ。好きにしろと言ったろ」
「うん。それと、邪魔しない、だよね」
「ほう?」
 白ひげへの敵意を露わにしたことで、白ひげ一派の海賊たちからはクロコダイルは立派に敵と見られている。そこに海兵たちまで混ざり合い、自体はますます混沌を極める。
「味方がいる戦いってしたことなくて……」
 入り乱れる人の群勢にヴィノは気圧されたように声を出す。だが傲慢なことに、その脅えは他人を害することに対するものなのだ。
 
「こんな戦場だ。弱いやつが死ぬってのは、誰がやっても同じことだろ。……だがお前の能力で少なくともおれは死なねえし、その程度何の邪魔にもならん」
 
 そう言って、クロコダイルは悠然と葉巻を咥えなおした。躊躇うな。やれるだけやってみせろと、彼はヴィノの能力を図る良い機会とでも思っているのだろう。
 彼の言葉は体(てい)よくヴィノを利用するためのものだ。しかし、その甘言はヴィノにとってはクロコダイルが想定するよりもより深く、魅力的に響いた。
「おにいさん、やるよ。ダズも出来るだけ風上にいてね」
「……忠告どうも」
 向けられた気遣いにダズは明らかに苛立った顔で受けていたが、ヴィノがそれに気づくことはない。
 
 強大な力を持つものとの交信や信仰のために、あるいは討伐のために人は酒を用いる。古来、酒は神をも殺す手段である。
 周りが海面なのをこれ幸いと、ヴィノはその水面に自分の血を混ぜる。たちまちそこから霧のようなうねりが立ち上った。
 白く立ち上る霧酒には“享楽”と名が付けられている。まともに浴びたものは脚が笑い、まず立っていられない。
 クロコダイルはいち早くその正体に気付くと、周囲の障害物で砂の障壁を作り、免れる。
 やはりヴィノの能力は他勢相手にかなり有効なようだ。とクロコダイルは確信を深めた。
 
「毛色が違うのが混じってるな」
 そこで、前触れもなくヴィノの腕が、くん、と引かれた。
 見えない「何か」に吊り上げられるかのように、奇妙に片腕だけが宙ぶらりんになる。それが起こった瞬間、クロコダイルはすぐさまヴィノ越しに鋭い目を向けた。
 
 その眼光の先にいたのは王下七武海、ドンキホーテ・ドフラミンゴ。かつてのクロコダイルと同じ肩書きを持っている男だった。
 見事クロコダイルの気を引くことに成功すると、ドフラミンゴは顔に張り付けたままの笑みを深くする。
 
「ワニ野郎ォ〜、監獄で面白え拾い物したみてェだなァ」
 この声色を耳にするとクロコダイルはいつもおぞましさに辟易する。そんな彼の反応に、知り合いかな?とヴィノが首を捻るうちに、今度は腕だけでなく、身体ごと宙を浮いた。
 そしてそのままドフラミンゴの長身に合わせて、視線が合う位置まで持ち上げられる。指先の手繰るような動きから、それが彼の仕業であることは明白だった。得体のしれない男の得体のしれない表情は、色の濃いサングラスのせいで余計に読み取ることができなくなっている。
 
 成すすべなく自由を奪われた状況にあっても、ヴィノは目を丸くしてぽかんと相手を見つめ返すだけに留まっている。その腕に血が滲むほど締め付けられてもまだ少しの抵抗も示さない。もっとも、抵抗したところでそれは敵わないのだから、ある種正しい行動とも言えるが。
 
「お前の話はおれのとこまであがってきてるぜ」
 意外にもヴィノのほうに用があるようで、逃げ遅れた野ネズミのような、いかにも間抜けた様子を品定めながらドフラミンゴは言った。
「酒の能力者に部下の船が一隻まるまる沈められてる」
「えっ」
 
 男の言うことはヴィノにとっていかにも信憑性のあることだった。途端、彼の背にじわっとした冷や汗がはしる。追い打ちをかけるようにドフラミンゴの弁は続けられた。
「覚えねえか? お前が沈めてきた中にこのドンキホーテファミリー傘下の連中がいたってことさ」
 わざとらしく、ドフラミンゴは出来の悪い子どもを相手にするような口調になって指でくるりと自分のマークを描いて見せる。シンプルなドクロに斜め線。そのシンボルは確かにヴィノにも覚えのあるものだった。まさか、という思いが確信に変わる。
 
「えっと、えっと、その……ご、ごめんなさい……」
 それが判明してしまえば彼に残される選択は平謝りだけだ。辺りから爆音が轟く。搔き消えてしまいそうに小さな声でヴィノは頭を下げた。
 命乞いからではない。命乞いなら、それこそドフラミンゴは飽きるほど目にしてきた。ヴィノは心から、自分のしたことを詫びているようだった。船ごと壊滅させた元凶にしては軽々しいとも言える。
 どちらにせよ、あまり向けられたことのない表情だったので、ドフラミンゴは少々面食らう。思わず、なにこいつ、と言う目をクロコダイルへ向ける。しかし頼みのクロコダイルからは返答はかえってこない。
 
「おにいさん、何てお詫びしたら良いか……」
「『おにいさん』?」
 ヴィノの年齢は高く見積もっても30代前半といったところで、ドフラミンゴを前にした一人称としてはおかしい。クロコダイルがいままで散々スルーしてきたことを彼は見逃さなかった。
 
 間の抜けた沈黙が流れた途端、クロコダイルの放った砂の刃がドフラミンゴを襲う。捕らえていた拘束が解かれ、ヴィノは地面に着地した。
 
「お前も簡単に謝ってんじゃねえ!」
「だって、だってぇあの人のお友達を、おにいさん……」
「頭でよく考えろ、あの鳥野郎にそんな大層なもんいるわけねえだろ」
「お前に言われたくねえよ鰐野郎」
 
 どう言われようとヴィノはなかなか立ち直ることができない。インペルダウンに収監されてからならいざ知らず、それより前にヴィノが自身の意思で他人を害したことは一度もないのだし。
 しょんぼりしたヴィノの目から涙が落ちる。それは煙に巻き上げられ、近くの炎に落ちた。
「あっ」
 途端、火柱があがる。
 
「ああ、なるほどな。そりゃ引火もするか」
 クロコダイルからはすぐに納得の声色が発せられた。実のところ、ヴィノが船を沈めた何割かはこの引火性に原因があったりする。さっきのようにアルコールを霧状にしてしまえばこの火柱の比ではないほどの火力に育つ。ヴィノにとっては見たくない光景だった。
 
「こ、これはその」
 鉤爪に胸ぐらを引っ掛けられ、今度はクロコダイルの眼前まで持ち上げられる。
「そういう芸当ができるなら早く言え」
 ヴィノを鼻先が触れるほど近くまで引き寄せ、クロコダイルはそう言った。爬虫類の瞳はぎらりと輝いているように見える。それは悪知恵が浮かんだときの色だった。
「あれ、待って? クロコ……」
 静止の声は無論、届かない。
 ヴィノを引っ掛けたまま、クロコダイルは鉤爪だけ残して半身を砂嵐に変えた。それは炎の渦巻きになって敵を蹴散らす。
 
 能力には使い様がある。インペルダウンからこっち、クロコダイルが大いに学んだことのひとつだった。