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 ゆらゆら揺れる、硬い床のうえ。いつの間にかヴィノはどこかの船室にいた。
 上半身のみで起きあがるとたちまちに眩暈が襲う。空も見えない部屋の中では時間すら分からない。
 
「あれ……? おはよ……う?」
 反射的に口をついて出た挨拶に応えることなく、黒い人影は部屋の奥までやってくると、どかりと手ごろな椅子に腰掛けた。身綺麗に整えられたクロコダイルの身体には、それでもいたるところに生々しい傷が見てとれる。
 それを見てヴィノは自分があの大戦の渦中にいたことを思い出した。起こったことと結末を思い出そうにも、彼の記憶は途中で途切れている。あまりに多くのことがあったのと、どこかで意識を失ってしまったからだろう。
 
 ぐるぐると頭を回すヴィノをさして気にする風もなく、クロコダイルは靴の汚れを落とすように煩わしげに床を擦った。赤黒い血が泥と混ざって変色していく。まだ付着してからそう時間は経っていなさそうだ。移動手段をもたないはずの脱獄囚が一体どのようにして船を手に入れたかは聞くまでもないことだろう。
 
「ヴィノ、と言ったか」
 クロコダイルの言葉はゆっくりと紡がれる。その目はヴィノを見定めるように向けられていた。
「それで? お前は何の役に立てる?」
 それはごくシンプルな問い掛けだった。彼にとってはヴィノの素性も人となりも知るには値しない。知りたいことは、使える駒かどうかの一点だけだ。
 彼は、ヴィノが自分に同行したがっていることは折り込み済みで、その辺りの問答をすっ飛ばして尋問をしている。とにかく、ヴィノの処遇にしろ、その命にしろ、クロコダイルが選ぶことができる立場にあるのは間違いなかった。簡単なことだ。都合が悪いなら海に投げ捨てればいいだけなのだから。
 
 絶体絶命が迫っている自覚のないヴィノはまた頭を悩ませる。ヴィノにとってクロコダイルはまさに千載一遇の相手で、そのためにはなんとしても自分の有用性をアピールしなければならない。
「その能力で、何ができるんだ?」
 口籠る相手に少々苛立ち、クロコダイルは質問を変えて言った。ヴィノに価値があるとすれば当然、能力の一点になるだろう。
 見事獄中から逃げおおせたとはいえ、クロコダイルも手数が少ないことに変わりはない。ろくな戦力にはならないにしても、利用価値があるなら引き込んでおきたいのが本音のところだった。何度も言う通り、切り捨てることはいつでもできる。
「お酒はたくさん作れるから便利だよ」
「便利……」
 ヴィノのとっておきのアピールポイントにもクロコダイルは重い息をつくだけだ。
 海の男たちは大概が酒好きなので、これを言っておけばいいという短絡的な認識が彼にはあった。そうでなくともこれまでの人生、人の集まる場所に出向いて造った酒を適当に売るだけで生活に困ることはなかったのである。しかし日銭稼ぎ程度でクロコダイルの気を惹くのには無理がある。便利なのにな、と残念そうにヴィノはぼやいた。それからまた、うーんと考える。
「ダズは?」
「んあ?」
 詰めている帳本人からの質問に、クロコダイルは片眉をあげた。ダズならいまごろ操舵室で待機中だ。
「そっか。なら、いいよね」
 部屋を見回し、思い浮かべた仏頂面がいないことを確認するとヴィノはようやくその場から立ち上がった。
 
 改めて、小綺麗な出で立ちの男だ。いまは襤褸の囚人姿だが、それでも損ないきれない見目の良さがある。
 その男がクロコダイルの前へ恭しく片膝をつく。
 
「聞いたよ。砂漠の王様なんだって?」
「……そう呼ぶやつはいたな」
 応えるクロコダイルの声が二段階ほど低くなる。ヴィノは彼の悪事については何も知らなかったはずだった。おおかた、先の騒ぎで誰かが口にしたのを耳聡く拾ったのだろう。過去の詮索はクロコダイルの最も嫌うもののひとつだ。それが思い出すのも忌まわしい敗北の記憶であるなら、なおさら。
「王様。きみの好みが知りたいな」
 戦いでは素人同然だったくせに、ヴィノはクロコダイルの間合いにするりと入りこむ。
 
 悪魔の実の能力は鍛えることでさらに研ぎ澄まされる。ヴィノはこれまで自分の能力を他人に気に入られ、取り入るために特化させてきた。造れる酒の種類だってワンパターンではないのだ。酒と冠されるものなら、一度味わえば容易に構造を理解し、再現することができた。すべては相手に取り入りたいという一心で体得してきた術だ。
 とんでもない、とクロコダイルは顔を顰める。葉巻の煙でも上書きできないほどの強い香り。呼吸すればたちまちに喉の奥がかっと熱を持つのを感じた。
「一体いくらで売ってたって?」
「え?」
 籠絡の手にもクロコダイルの顰め面は崩れない。その反応にヴィノは少々面食らう。
 
 この男は散々自分の能力と体質に悩んでおきながら、そのくせそこには絶対の自信がある。いま、クロコダイルは自分を砂化させていない。それなら切り崩せない理由はないはずなのに。
 不思議に思って彼の顔を覗き込んでも、その目はヴィノの答えを急かすだけだった。
「市場とかに行って〜、適当にそこで売ってあるのと同じ値段で……」
 仕方なく、ひとまず疑問はさておいて、彼は間延びした口調で思い返した。彼が造った酒を金に変えるのはいつだってその日の寝食のためなので、過分に儲ける必要はない。そこらの酒には味で劣るはずもないから同じ値をつければそれだけで売れていくのだ。
 
 その言い分が終わる前に、クロコダイルは侍るように寄り添うヴィノを蹴散らして立ち上がった。再び固い床に転がることになり、ヴィノは目をぱちくりとさせる。
 その視線の先でクロコダイルは当たりをつけた机の引き出しから紙とペンを探し当てた。奪った船の所有権は彼にあるので、我が物顔は当然のことだ。片手でペンを走らせていくのを、展開についていけないヴィノはただ見守った。
 
「これからはおれが値をつける。簡易的なもんだが、取り分はこんなもんでどうだ」
 ずいと眼前に突き付けられた紙には几帳面に視認性の高い文字が並んでいる。これは契約書だ。
「これでも言い値で売るよりは余程儲かるはずだが?」
 文字を追っていた相手の視線がぴたりと止まったのを見かねて、クロコダイルは表情を鈍らせる。
「……文字は読めるよな?」
「勿論! とっても読みやすいよ」
「……。」
 
 返しながらも、ヴィノの瞳の動きは緩慢だった。これまでほとんど口約束しかしてきたことがない彼にとってそれの読み解きは時間を要するもののようだ。
「この、甲とか乙っていうのはよくわからないけど、おにいさんもついて行っていいってことだよね」
「そこの条件を飲むならな」
 
 クロコダイルは愛想のひとつも浮かべようとしないが、彼に有用性を認めたことは確かだった。そうとなればそこにどんな悪条件が示されていようがヴィノはものともしない。もともと金儲けには微塵も興味のない彼である。それはクロコダイルのような策略家にとってはまったく都合がいいことだった。能力には多少厄介なところもあるが、本人は単純すぎるくらいに裏表もない。そこも取り扱う分には非常にやりやすい点である。
 
「ひとまず、その恰好をなんとかしろ。上陸するにしても目につく」
 ヴィノは監獄からずっと着の身着のままだ。これまた我が物顔で、クロコダイルは漁った中でも彼がマシだと思える服を一式、ヴィノへ投げつける。
「あ、ありがとう」
 思わず礼を言ってしまってから、それが誰か他人の服であるというのを思い出してヴィノは奇妙な気持ちになる。
 だが、倫理的なこととは関係なく、自分が嬉しいと感じたことは確かだった。
 
「別に、襤褸切れ着たやつを置いときたくねえだけだ」
「うん、なるほど。覚えておくよ」
 少々口早にクロコダイルが釘を刺されつつも、ヴィノの喜びようはふたたび薫りだす甘いにおいでだだ漏れである。やっぱり、どうにも分かりやすい。
 
「あっ! ダズにも正式に挨拶してこなきゃ!」
 言うが否や弾丸のごとく部屋を出ていこうとするのをクロコダイルの鉤爪が阻む。この船まで沈められてはたまらない。
「操舵室にいるっつったよな?」
 部屋を満たしはじめた花のような匂いに咽せそうになりながら、少々躾も必要なようだ、と彼はにわかに頭を痛ませた。