5

 ある港町を拠点にして数日が経った。
 ほとんど成り行きで降りた街は海風はあるものの、気候は概ねからっとしておりクロコダイル好みだった。
 
 あの大戦を生き延びたあとだ。まずは療養を兼ねた準備期間が必要だった。なにせ、挑む先は「新世界」である。相応の船だって要るだろう。やることは山積みだ。
 
 一度野望が生まれれば、策略家の面目躍如といった具合でクロコダイルは絶好調である。のんべんたらりとしているよりも、忙しく世界を脅かす構想でも練っているほうがよほど彼の気性には合っている。
 
 そんな彼が、ベッドを見下ろして苦々しい表情を浮かべていた。
 視線の下では柔らかい羽毛布団が不自然に丸く膨れている。ゆっくりと葉巻の煙をひと吐きし、クロコダイルは片手でそれをひっぺがした。
 そこでは牢獄から拾ってきた男、ヴィノが丸まっていた。身体を小さくして眠っているさまは動物の寝姿を思わせる。抱きこむようにしていた布団を奪われたくらいで起きることはないらしく、健やかな寝息は繰り返される。
 
「てめえ勝手に入りこむんじゃねえと言ったろ!」
 
 微睡みを劈くクロコダイルの怒号が飛び、ヴィノの身体は投げ飛ばされた。
 床にしこたま頭をぶつけた彼はむにゃだの、ぐにゃだの、とにかく不明瞭な声をあげて重い瞼を持ちあげる。
 怒鳴り声の通り、ヴィノが彼の私室に侵入するのははじめてのことではない。彼が寛大にも、ヴィノに一部屋用意してやっているのにも関わらずである。
 
「あ、クロコ……。お仕事終わったかい? お疲れさま」
 ぼんやりと目を開けて、ヴィノは覚醒時よりも数割増しに暢気な声で言った。
 いつの間にかこの男はクロコダイルの名を縮めて愛称らしく呼ぶ。そんなことで騒ぎ立てるほどクロコダイルは狭量ではないが、時刻はとうに深夜で、労われた言葉通り、彼は疲れていた。それがどうして寝床を陣取られ、無用な疲弊まで覚えなければならないのか。
「だって、ここが一番広くて寝心地いいからさ」
 と、ヴィノは主張する。それはまったくその通りだった。クロコダイルがそのように誂えたからである。勿論、だからといってヴィノの行動が罷り通る理由にはならない。大悪人であるはずのクロコダイルのほうが思わず閉口してしまうほどの傍若無人さだ。
 
「枯らす」
 ひと呼吸ついてから次に口を開いたのは問答の続きではなかった。攻撃の宣言である。
 彼の片手が襲うのをヴィノはすんでで転がり避ける。視線の先でサイドテーブルが砂と化して崩れていった。
「借りてる部屋なのに!」
「うるせえ、くせえ匂い撒きやがって!」
「えええーっ!?」
 彼の暴言に、襲いかかられるよりも、借り家が破壊されるよりも強くヴィノは反応を示した。
「くさい? それほんと?」
 困った調子で、いそいで真偽を確かめようと試みる。が、残念なことに自分の体臭は自分ではわからない。彼が体質を制御できない理由のひとつだ。
「でも、みんな喜んでくれたのに……」
「あ?」
 過去を思わせるヴィノのぼやきに、クロコダイルはまたひとつ青筋を立てた。しかし、いま過去のことは問題ではない。いまは目の前の男にどう思われるかというのがヴィノには一番大事なことなのだった。どうしようどうしよう。と迷っているうちにヴィノは簡単に部屋の外へ放り捨てられる。
 
「おにいさん、消臭剤とか買ってきたほうがいいかなぁ!?」
「要らねえ寝ろ!!」
「ごめんなさあああ」
 涙混じりで縋りついても締め切られた扉が開くことはないと分かると、すごすごと諦めるほかないのだった。
 

 

 
 その日分の仕事として、真水をつぎつぎ酒に変えていきながら、ヴィノは思う。
 ほとんど元手もなしに偽造酒でもなんでもござれで見繕えるのは金策として非常に有効だった。でも、だったらせめて、街まで売りに行くのも任せてくれたらいいのに、クロコダイルは早々に仲介業者を雇うと、販売の一切をそちらに任せてしまっていた。
 
「おにいさんだって、バルで働いたりとか、経験がないわけじゃないんだよ?」
 つい、少し拗ねたような声色が出てしまったのは彼のなけなしの見栄だった。いくらなんでも、なんにもできないやつだと思われるのは決まりが悪い。だが、それを見遣るクロコダイルのまなざしは冷えたままだ。
「その店がいまも体裁を保ってるってンなら考えてもいいが?」
「それはその、うん……」
 途端、お手本のように言い淀む。なにか良からぬ記憶でも思い出したのか、彼の気まずそうな表情を見る限りおおかたクロコダイルの予想通りだろう。
 酒量を律することのできない者に待っているのは破滅だが、その箍を外させることにかけてヴィノは天才的だった。少なくとも、拠点を移すまではこの街を壊滅されては困るのだ。仲介料で余計な手間賃をかけさせられるとしても彼を卸役に立てるよりは懸命だった。当のヴィノも、的確に痛いところを突かれてはそれ以上の言及はできない。
 
 早々にすべきことを失って、ヴィノは手ごろなソファに身体を預けた。
 彼に与えられた仕事は少ない。今日だって、クロコダイルはダズを連れ立って、なにやら悪だくみのための交渉へ向かってしまった。当然ヴィノは同行したがり、駄々をこねたが相手にもされない。
 クロコダイルと仲良くしたいヴィノにとってこの状況は良いとは言い難いものだった。ただでさえ、寝床から締め出されてこっぴどく振られたあとなわけだし。
 
 ヴィノが憂いの帯びた息をつくと、廊下に面した扉の持ち手が回る。来客だろうか?と首を傾げる。クロコダイルたちが帰ってくるにはまだ早い。それに、廊下から感じる気配は大人数だ。
 どたどたとした足音で部屋へ押し入ってきた顔たちと、ソファから覗かせたヴィノの顔が合う。
 
「……どちら様?」
「クロコダイルのアジトだろう、ここは」
 アジトとはいかにも悪者の住み家という響きだ、とヴィノは思った。
「うん、そうだね。借り家だけどね」
 
 あっさりと答えが返されると闖入者たちは殺気立つ。よくよく見ればそれぞれ銃や殺傷力のありそうなものを携えているのが分かる。いくら危機感の足りない頭でも、それくらいには気が付いた。
「どうぞどうぞ、お座りになって」
 ヴィノはぴょんとソファから身を退かすと先頭の男の手を引いた。何の敵意もない誘いに男が抵抗することを忘れてしまうと、その隙をヴィノは逃さない。
 
「なにかご用があるのかな? おにいさんに教えてほしいな」
 クロコダイルの名を出したということはそちらに用向きがあったのだろう。だが残念ながら家主は不在なのである。であれば、留守を預かる身としてはその間の持て成しをするのは当然と言えよう。ただ置いていかれただけのことをすっかり忘れてヴィノは考えた。
 多少荒立っていようと関わりない。ヴィノにとって、すべての人はこれから友達になる可能性のある人だ。
 

 

 
「クロコ、ダズ、お帰りなさい!」
 日が沈みきったころ、二人を迎えたのは満面の笑顔だった。
 そのうしろではあちこちにぐったりと転がる侵入者たち。それに、この匂い。惨状を前にしてクロコダイルは顛末をすぐに理解した。
 
「ほら。きみ、クロコが帰ってきたからね」
 ヴィノはそう言って隣の男へ呼びかける。だが、その目はうつろで、聞こえているかどうか怪しいものだ。どう見たって中毒症状のあらわれだった。
 クロコダイルはダズを部屋の外へ下がらせると、大股でソファまで歩を進めた。そしてヴィノの隣でゾンビになっている男を足蹴に引きずりおろし、その場に自分が腰をおろした。
 
「お客様はなんだって?」
 クロコダイルの爬虫類の目は正体のなくなった者たちを見下ろす。その凍てつくような視線に、酔っ払いどもはようやく家主の帰還に気が付いた。
「なんか、ほしい書類があるんだって」
 気持ちよくあれこれ吐きださせたことが、その重要性など知らぬとばかりに明らかにされる。
「でも、そう言われてもおにいさん、大事なことはあんまり教わってないだろう? アポイントっていうかさ、ちゃんと確認してから来なきゃだめだよって教えてたところだよ」
「クハハ、そうだな。わざわざこっちの不在を狙ったようにお越しとは、気ィ抜いてる証拠だな」
 
 クロコダイルは冷たい瞳のまま、器用に嘲笑った。ヴィノのおもてなしが大盛り上がりだったことは本人の満足そうな表情を見ればわかる。天国から地獄。侵入者たちの顔からはみるみる血の気が失せていく。
「ボス、どうしますか」
 酒気が薄まってきたのを見計らってダズが声をかけた。言いつつ、その目からは殺気が隠せていない。指示があればすぐにでも実行に移すつもりで、確認を取ったのは念押しに他ならないのだ。
「まァ待て。殺したら証拠がなくなるだろ」
 殺し屋のただならぬ気配をクロコダイルは軽口で制す。
「せっかくここまで骨抜きになってるんだ。先方への交渉材料にさせてもらおう」
 しかしその腹ではさらなる悪巧みが進行中だ。この男相手に下手を打った時点で侵入者たちに希望はない。
 なんだかまた難しい話が始まってしまいそうだぞ、と考えながらヴィノはそのやりとりを見ている。
「おにいさん、もしかしてお役に立ったかな?」
 そして小難しいことはひとまず置いておくことにして、その一点において表情を明るくさせた。
 
 クロコダイルは隣でこじんまりと座り、自分を見つめてくる彼に顔を向けた。能力の凶悪さに見合わぬ、なんとも毒気の抜かれる視線である。
「ん? ……まあ、そうだな」
 番犬としての働きを見せたことは認めざるをえない。乞うような瞳に応じてやればヴィノはわかりやすく口もとを緩ませた。