6

「わ、わ、わーっ!」
 
 いつにない騒々しさに、まずダズが眉を顰めた。常日頃顰め面をしているせいでその表情の機微は他人からはわかりにくい。それでもいま彼が騒ぎの張本人に向ける目は端にも伝わるほど厳しく細められていた。
 
 ヴィノはこれでも、ダズより年上である。平常時の彼と比べても大概の人間は二人の年齢差を逆に見積もることだろう。それくらいヴィノには大人としての分別がない。珍妙で信じがたい生き物。これがダズの彼に対する認識だ。
「喧しい。なんだ一体」
 そんなものだから、ダズにヴィノへの敬いの気持ちははじめから一片もない。冷ややかな目を向けられて、むしろヴィノは助けを求める顔で声がかかるほうを見た。
「ダズ、犬ちゃんがあ……!」
 犬。その言葉にダズは足もとのほうへと目線を下げた。そこではむくむくの四つ足の小動物がご機嫌な表情を浮かべている。ヴィノはその小さな存在からなるべく距離をとろうと、廊下の壁にべったり背中をくっつけている。この犬はなにも不当に侵入してきたわけではない。ある雨の日に、彼らのボスであるクロコダイルがふらりと拾ってきたのである。クロコダイルの強面には見合わぬ、愛嬌のある顔つきの小型犬だ。名前さえないので、犬、とダズも胸中で呼んでいる。
 いままさに、それに迫られながらヴィノはまた一層壁に身体を押し付けた。
 
「……ちったァ静かにできねえのかてめえは」
 遅れてお目見えのクロコダイルが煩わしげに口を開いた。その姿を視界にいれるや否やヴィノは身を反転させて一目散に彼の大きな背に回り込んだ。分別のなさは置いておくとして、ヴィノも一般的な基準では十分に大の男であるのだが、クロコダイルと比べれば彼の姿は背にすっかり隠れきってしまう。
「犬なんか怖えのかおまえ」
 盾代わりに使われることへ怒るよりも、呆れさえも通り越してクロコダイルの言葉には感嘆が浮かぶ。こんなでもヴィノは大監獄と大戦争を乗り越えてきた身である。それこそ、あの監獄には獄卒の獣がうじゃうじゃと蔓延っていた。それがこんな小さな命相手に大慌てで逃げまわるとは信じがたいことだった。
 
「駄目なんだ、小さい子と小さい生き物は……。こ、殺しちゃうから」
 そう呟くヴィノの身体は震えている。アルコールには致死量がある。小動物や子どもには彼の存在はかなり悪影響となるだろう。能力の歯止めの利かなさをヴィノは深く自覚していた。彼の微かな震えがクロコダイルの背へと直で伝わる。
 
 そもそも犬は犬好きの人間に対して非常に鼻が利く。ヴィノの拒絶は好意があるからこそのものだ。犬もそれを理解していて、じゃれつきたいだけなのだろう。その証拠に丸まった尻尾は忙しく振り回されている。
「キャン!」
「ひゃっ!」
 そうこうしている間に遊びの催促とばかりに犬がひと鳴きし、ヴィノはさらに距離を取ろうとより強くクロコダイルのコートを握った。そればかりか、肩までよじ登らんとする勢いである。
 
 お前が安全地扱いしてる男は国家転覆を諮った極悪人だぞ、とダズは思わず教えてやりたくなる。しかしそんな冷静な眼差しの先でクロコダイルの片腕は不安定にぶら下がるヴィノを拒むどころか抱えなおしたものだから、彼の忠告はふっ飛んでしまった。
 そうだ。この人は案外、拾う性質(たち)なのだ。ダズがそう思うのは、自分もまた拾われた身であることに違いないからだ。
 
「それにしても、犬なんて連れ帰ってどうするんです」
 苦言は別の論点に着地した。レインディナーズで飼われていた大鰐の群れを知っているぶん、ダズにとってはそれとの違いはサイズくらいのものだった。拠点をひとつに定めるのであれば何を飼おうが反論するつもりもないが、いまはあのときとは状況が違う。ダズが言っているのはそういう、当然のことなのだが。
「そう思うか」
 面白味のないくらいまっとうな意見にも関わらず、それを聞いたクロコダイルは不敵に口元を歪めた。にわかに嫌な予感が走る。
「十中八九野犬じゃねえだろう。血統書付きってやつだ。ちっと探しゃあ迷子犬の張り紙でも見つかるんじゃねえか?」
「それをおれ、が?」
「お前しかいないだろ」
 
 クロコダイルは視線を動かすことすら億劫そうに、ヴィノを見た。駄々っ子の様相で必死に首を横に振るヴィノ。彼がその仕事に適していないのは見ての通りだ。確かに、その男は戦力外だとして、でも拾ってきたのはクロコダイルなのだ。世の道理で言えば面倒を見るのはそちらのはず。
「おれは忙しい」
 だというのに、クロコダイルは眉のひとつも動かさずに言う。
 男たちの話題の中心に据えられている自覚のある当人(当犬)が一際大きく尻尾を振った。

 

 

 悪の組織のボスなんてやっていたくらいの経歴からすれば、この程度の横暴さはむしろかわいいものだ。別室でここ数日の新聞を漁ったりしながら、ダズはなんとか自分を納得させた。
「どう? 見つかった?」
 いつもより、さらに顔つきを険しくするダズへ、扉の間から窺うように身を覗かせたヴィノが声をかける。
「……見ればわかるだろ」
「う、うん。おにいさんも手伝おうかなー」
 あそこまで取り乱したことがいまになって恥ずかしくなったのか、彼は部屋に犬の姿がないことを確認するとおずおずと中まで入ってきた。
 ダズは抑揚のない声で応じつつ、役立たずの珍獣を受け入れることにする。彼も、いまは上司好みにスーツを着せられておとなしく用心棒のような顔をしているが、クロコダイルの下に就くよりも殺し屋としての経験の方がずっと長い。細かい作業は嫌いではないが得意でもないのだ。手が多いならそれに越したことはない。
 
「ダズも海賊だったの?」
 しばらく黙々と新聞をめくっていたヴィノだったが、沈黙は数分ともたなかった。少し遠慮がちではあるものの、机の向こうへ向けるのは好奇心でいっぱいの目だ。
「……いや、おれは逆だ。賞金稼ぎのようなものをやっていた」
「ふーん?」
 
 本当はもっと血生臭い、殺し屋なのだが。大部分を端折った淡泊な応えにも、ヴィノは前のめりの姿勢のままだ。生死を左右する世界情勢から市井の噂話まで、およそ興味を持たないでのうのうと生きてきたはずの男なのに、その態度はなんだ。とダズは思う。不審に思い目線を返すと非難されていると思ったのか、ヴィノは慌てて紙面へと視線を戻した。
「クロコのことなんだけど……」
 が、やはりお喋りは止まらない。無駄話に割く時間は僅かでさえダズにはないが、上司の名を出されてはひとまず体(てい)だけでも聞かなければならない。
「砂になってないときでも能力が効かないときがあるみたいなんだよね」
 海軍本部から船で逃れるときにも起こったことだ。その後、何度かクロコダイル相手に能力を仕掛けてみたことがある。その度にヴィノの誘惑はにべもなくあしらわれてきた。寝床への侵入もいまだに成功したことがない。それはヴィノにとってはとても喜ばしいのだが、同時に不可解なことでもあるのだった。
 
 あまりに勝手な言い分に閉口しながらも、ダズにはヴィノの疑問への答えがわかっていた。
「あの人は合理的なんだ」
 非常に理性的、と言い換えてもいい。策略の成就のためにはあらゆる犠牲を厭わない。長年英雄なんかやっていたのも鑑みて、自分自身にしてもそうなのだろうことが分かる。
「つまり、とっても我慢強いってこと?」
「お前が生きてるんだから、そうだろ」
 結局のところ、それがいま一番の証明になってしまっている。
 
「うーん。でもそっか。我慢かあ」
 自分の命が助かっていることも含めて、素直に喜べばいいものを、ヴィノはひとつ唸る。
「おにいさんはもっと仲良くなりたいんだよなあ。勿論、ダズともね」
 なんとなく、それは忍耐とは離れたところにある気がする。我慢しすぎると身体によくないともよく聞くことだし。と、ぼやきながら、その元凶である自覚はあまりない。
「なら教えてやるが、おれは無駄話は嫌いだ」
 飛び火の気配を察した彼の言葉に、ヴィノは熱心に頷いている。
 それに果てしない無駄を感じ、ダズは静かに作業へと戻った。