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 事務仕事に目を向けながら、ちらちらと視界に入る人影をクロコダイルは無視した。
 
 指示するまでは好きにしていればいいものの、ヴィノは甲斐甲斐しさを感じさせるほど、暇があれば彼の元を訪れている。……この言い方は少々語弊がある。ヴィノに任せられる仕事は依然としてダズの半分にも満たない。だから彼らの多忙さに関わらず、ヴィノは基本的に時間を持て余しているのだった。
 
 うろうろする気配は今度は後ろに回って、背中越しに彼の綴る文字を眺めはじめる。クロコダイルの眉間が一際、ぎゅっと狭まった。
「出てけ、こっちは暇じゃねえんだ」
 このやりとりも一体何度したことか。
 ヴィノが御し難いタイプの馬鹿であるなら、評価を改めなければならない。彼は苛立ちを誤魔化すように煙をゆっくりと吐く。
「あ、コーヒー淹れてこようか?」
「アイリッシュコーヒーでも呑ませる気か?」
 やっと思いついた口実を一蹴されても、ヴィノはまだ往生際悪く何か考える様な仕草をしている。
 キリがない。面倒だが、やはり無理矢理追い出すしかない様だ。クロコダイルが睨みつけた先で、ヴィノはなにか閃いたように声をあげた。
「そうだ、マッサージをしてあげよう!」
「要らん。出てけ」
「まあまあ。お仕事はしたままでいいから。おにいさん、結構上手だよ?」
「……ヴィノ、三度目だぞ」
 クロコダイルの声がワントーン低く響く。わかりやすい最終警告だ。むしろ、ここまで根気よく対応した方だろう。その努力をヴィノはちっとも分かろうとしないで、背後にいるのを良いことにクロコダイルの肩に触れた。どうやら彼の提案は本気らしい。
 
「うわ、かったい!」
 が、全く指が沈み込んでいかない。思わずヴィノは声をあげた。
 筋肉だけの話ではなく、ちょっと触っただけで分かるくらい、その肩はおそろしいほど凝り固まっていた。
「た、大変だ、固すぎて砂になれなくなっちゃうんじゃ……!?」
自然系ロギアをなんだと思ってやがる……」
 耳元に近いところで喚かれ、クロコダイルは己の中の冷静な部分をかき集めてなんとか言葉を返した。内容が馬鹿馬鹿しすぎてろくに脳を使わずとも済むのは利点といえば利点だった。
「いつも重いのつけてるからかな、とにかくちょっと、すごいよこれは」
 ヴィノはクロコダイルの左手に嵌まった鉤爪に目を向けて、大げさに深刻そうな表情で言う。
 べたべた触られずとも、自分の身体のことくらいは彼だって把握している。確かに、寄る年波というか、若いときほどの柔軟さはないことは認めるが、彼はそれを大きな問題とはしていない。
 
 クロコダイルの大柄な背を前に、ヴィノはしばらく苦闘していたがあまり成果はない。追い出す億劫さと天秤にかけて、クロコダイルはまた無視を選ぶ。この調子ならすぐに諦めるだろうと踏んだからだ。
 だが、紙面に注がれていた彼の眼はふたたびそこから離れることとなった。
 
「……何してる」
 はっきり言ってしまえば、寧ろ、かなりぎょっとして自分の足元を見るはめになる。さっきまで背中で手こずっていたヴィノが、いつの間にか机の下にすっぽり身を入りこませていたからである。
「あ、気にしないで。お仕事してていいからね」
 
 クロコダイルは絶句しつつもなんとか状況を認めた。見当違いの言葉を股のあいだから発されて意に介さない人間がいるなら、そいつはよほど頭がおかしい。にもかかわらず、ヴィノは迷いない手つきで彼の、一片の曇りもないぴかぴかの革靴を手に取るとそれをするりと脱がせてしまった。
 それだけでクロコダイルは自分がひどく無防備にされた感覚に陥り、声を荒げそうになったのをなんとか留めた。こんなことで動揺したとは思われたくはない。
 
「勝手もいい加減にしろよ……!」
「でも、だってこういうのは足から見るのが一番だからさ」
 ヴィノの口ぶりからはなにやら自信まで感じる。マッサージが得意だと嘯いたのは、まるきり出まかせというわけでもないらしい。
 普段肉体を支え、酷使している割には足の表面というのは鋭敏である。そこに他人が触れるのを感じてクロコダイルは僅かに肩を怒らせた。
「うわ。やっぱり、すごいごりごりだよ」
 ヴィノは躊躇いなく素足を包みこみ、感嘆をもらす。
「凝ってて良いことなんてひとつもないからね。大丈夫、おにいさんに任せて」
 その行動が善意から成ろうとなんであろうと、そこは問題ではない。
 何を言ったって聞く耳を持たない相手に、唯一言うことを聞かせられる方法。それをクロコダイルはすでに知っていた。こうなれば躊躇っている間はない。彼はその台詞を口にする。
 
「おまえはおれを怒らせたいのか?」
 予想通り、それは効果覿面だった。たった一声でヴィノの暴走はぴたりと止まる。そして、さっきまで何やら生き生きとしていたのを一変、眉をしょげさせて悲壮感をこれでもかと露わにした。
 
 さて、こうも上手くいってしまうと、クロコダイルはまるで自分まで幼稚な思考パターンに巻き込まれているようになる。
 これ以上するならおまえを嫌うぞ、なんてまるきり子どもの理屈で、まともな交渉とすら言えない。こんな言い分を振りかざすくらいなら、単純な脅迫、恫喝のほうがよっぽどマシだった。
 そして、もちろん、ヴィノに自分を害する気などないことは明らかだ。すべてわかった上での方便である。この男の行動には呆れるほどに裏表がないのだから、そんなことクロコダイルのような切れ者でなくたってわかることだ。それなのに、軽口を真に受けたヴィノは悲しげな顔をさらに深める。
 
 ……あれだ、あれに似ている。手足が長くて、立派な図体をしているくせにまだまだ遊びたい盛りの犬。
 くだらないイメージ図なのに、一度そう思ってしまったのが良くなかった。ヴィノはうまい反論を口にすることさえ出来ないまま、クロコダイルの膝へ頭を預けて懇願の目で見上げてくる。
 
「……そこまで自信があるならやってみろ」
 クロコダイルは態度を一変させ、今度は試すような口調で言った。せいぜい見定めてやる、とふてぶてしい態度を敢えて取った。途端にヴィノの表情が明るくなる。
 
 そうだ。こうして上手く使ってやればいいのだ。主導権さえ失わなければ、たとえ相手が脚の間に居座っていようが何のことはない。
 クロコダイルがそう結論づけた矢先、ヴィノはうまいこと椅子に片膝を乗りあげて、これから奉仕する相手と顔を突き合わせてみせた。この男は、距離の詰め方だけはなぜかいつも人並み外れている。まるで人が油断するタイミングを熟知しているかのようだ。クロコダイルの鼻先で甘やかな香りが舞う。
「どうぞ、楽にしていてね」
 諭すような声色を、つい聞き終えてしまったのが悪かった。クロコダイルの頭がぐらりと傾く。その靄を振り払うようにヴィノに掴みかかろうとするも、その腕は空を掻くだけだった。
 すべて遅すぎる。クロコダイルは届かなかった腕でなんとか周りの酒気を打ち消して、ひとまずの被害を抑えることにする。
「てめえ……っ!」
 凄んでみせても「お願い」を聞き入れてもらえたヴィノは上機嫌だ。
(くそ、まともに食らった……)
 いくら能力の相性で優位とはいっても、何の手立てもなしに真正面から浴びては砂人間だって普通の人間と変わらない。軽い前後不覚に陥るクロコダイルの眼光の先でヴィノは笑みを深めた。
「あ、肝臓は大事だから念入りにやっておこうね」
 言いながら、ぐーっとツボ押しを始める手付きは一体どこで習得したやら、的確だ。うまくクロコダイルの身体の緊張を奪い去ってやりたい放題である。
 
 一方、扉を隔てた廊下側では彼の「優秀なほう」の部下であるダズが、部屋の中から聞こえる争うような物音のほうへ目を向けていた。
 
 おおかた、またあのおかしな男が何ごとか騒いでいるのだろう。ダズにとってヴィノの奇行はすでにそこそこ慣れたものだ。巻き込まれる上司に同情しないでもなかったが、それこそ彼の口出しする領分ではない。どうあれ、淡々と仕事をこなすのみである。
「ボス、いまいいですか」
 迷いなく扉を開けると、彼はいつもの調子で声をかけた。部屋には大柄な上司の体躯に合った重厚な机。面倒な机仕事を支える革製の椅子。一流のもので周りを固めることに余念のない部屋の主が、取り乱した様子で机の下に目を向けている。そこに何があるかは入り口のダズの方からは見えなかったのだが。
「あっ! ダズだ!」
 彼がやってきたのにヴィノが反応しないはずがない。満開の花のような笑みで、ひょっこり顔を出す。……上司の机の下。正しくは股の間から。
 
「…………。」
 ダズが返したのは沈黙。何か意見するでもない。ただ、重い沈黙だった。
 
 喋らなくなってしまった仏頂面に、ヴィノは不思議そうな目を向けているが、その沈黙が意味するところがクロコダイルにはすぐに察せられた。
 違う、とらしくもなく言い訳のような文句が浮かぶ。一方的に付き合わされたうえ、部下に疚しい誤解をされるのはいくらなんでも不名誉なことだった。
 
「頼まれてたブツです」
「……おう」
 クロコダイルの焦燥など知らぬ顔で、恐れ知らずの部下は変わらぬ歩幅で二人が密着し合う机まで近づいて紙の束を手渡した。期待と寸分違わぬ成果だ。それを受け取ったクロコダイルの身体はざらりと砂と崩れる。瞬きひとつする間もなく、今度はダズの前に立っていた。剥ぎ取られた革靴を取り返した完全な姿だ。
 しかし、それを前にしてもダズは眉ひとつ動かさない。どころか、去り際に感心するほどの無表情で言った。
「別に何するのも勝手だし好きにしたら良いですが、取り込み中なら取り込み中で分かりやすくしてください。巻き込まれたく、ないんで」
 すべて一息で言い切る。とくに最後の一言からはかなり切実さが感じられた。
 
 なにしろ、クロコダイルがどれだけ顰め面で悪人然としていても、いまさら仕切り直したところで説得力は皆無だ。
 幾分酔いの醒めた頭で、クロコダイルは今度こそすべての元凶である男を締め出すことに決めた。