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 今朝から、どうにも調子が良くない。
 常日頃から愛想もないおかげで、いま彼が感じている不調にはおそらく誰一人気付かないだろう。だが自分自身を誤魔化すのはクロコダイルとて至難の業だ。
 
 ここまで、彼の諮りごとは概ねうまくいっていた。しかし今日に限っては普段通りのことがなぜだかスムーズに進まない。そのどれもがすぐに取り返せるくらい些細なものだったが、生じるリカバリーに労力を感じないわけではない。何とはなく気が立っているのはそのせいか、苛立ちこそが良くないサイクルを生むのか。とにかく、さしもの彼も自身の不調を認めざるをえなかった。
 
 見るからに苛立ちあらわな地雷原へ、好き好んで踏み込んでくる者はいない。腹心にすら遠巻きに扱われながら、クロコダイルは足取りも荒く甲板まであがってきた。ここ数時間は波も穏やかなものだ。その証拠に、船の縁にはあのふわふわ頭が呑気な様子で腰かけるのが見えた。
 
「ヴィノ」
 とくに何の用があるでもなく、その背に向けてクロコダイルは声をかけた。単なる気晴らしである。ほかに誰も彼に近づく様子がない以上、選択肢はなかった。
 しかし、高い位置から見下ろしたヴィノはうつらうつらとうたた寝するのに忙しく、彼の呼びかけは届いていない。
 つむじがゆるやかに揺れるのを数回見届け、そこからさらに視線を下げてクロコダイルは目を剥いた。船の柵から伸びた脚の先が海面に浸かっていたからだ。
「おい!」
 それが目に入った瞬間、思わず彼から声があがった。もちろん助けようだとか正義感からではない。能力者にとって海は絶対の弱点である。砂の能力を持つ彼からすれば余計にぞっとしない、あまりに常識外れな状況を、つい咎めてしまったのだ。
 
「ん……、え? な、なに?」
 おおきく上体を揺さぶられ、眠りのふちからようやくヴィノは瞼を開けた。
「おまえ、足! 何考えてやがる!」
 叱責を受けてもヴィノはどこかぼーっとしている。それは眠気からのみではないだろう。
「えっと、足? ──ああ、これくらいならだいじょうぶ」
 
 引き続き正体の危うい口調で、ヴィノは言った。彼の言う通り、能力者は海に触れれば即気を失うようなものではない。海中に飛び込んでしまえば別だが、足の先程度ではせいぜい身体の動きが鈍くなり、力がうまいこと使えなくなるくらいだ。熟練者であれば手首くらい浸したって難なく戦うこともできる。
 そのうえ、自分の能力が使えなくなったってヴィノには何の不安もない。彼のこれまでの努力からすれば弱体化はむしろ望むところですらある。
 
 クロコダイルのまるっきり異常なものを見る目つきをどう思ったか、ヴィノは緩慢に、波間に足を遊ばせて無事をアピールしてみせた。濡れてもいいように裸足になっているところを見れば、彼が自主的にそうしたのだとわかる。
「涼しくてきもちがいいし、力は抜けるけど、悪酔いみたいでおもしろいよ」
 ヴィノは体質がら、酒に酔うということができない。これは彼なりの危険なお遊びなのだ。それにしても、その状態で眠りこけるとは、命知らずと言うほかない。
「突き落とされても知らねえぞ」
「でもきみは声をかけてくれたじゃないか」
 ずいぶん嬉しそうに返されるので、忠告ではなく突き落としてやるんだったとクロコダイルはわりと本気で思った。
 
 クロコダイルがやって来たのなら、もうひとり遊びの必要はない。ヴィノは水面から足をあげると、やはり、ややぼーっとして長身を見あげた。
 
 今回の異常さは置いておくとして、彼がところ構わず寝るのはいつものことである。ちょっと姿を見ないと思えば心地の良い場所を勝手に見つけて転がっている。その糸目の付けなさといったら、初日からクロコダイルの寝所を選ぶほどなのだ。
 
 無論、クロコダイルだってなんの手立ても取らなかったわけではない。腐食し、破壊されたドアノブは間違いなく非常識な侵入者の仕業だった。おおかたアルコールを使って腐らせたのだろう。なるほどこの海を生きていくだけの小手先は知っているらしい。ヴィノは暴力とは真反対の位置にいる男だが、開けたい扉をこじ開けることに躊躇いはないのだった。
 
 ならばこいつに必要なのはマナーだ、とクロコダイルはしばし頭を痛める。問題は、この世にどうして鍵なんてものが存在しているのかを鉤爪を突きつけながら丁寧に説いてやるのが、果たしてクロコダイルのすべきことなのかどうか。彼がそんなことを考えたのは、ちょうど侵入回数が片手で数えられなくなった辺りのことだった。つまりそれだけの扉が無駄になっている。
 一方で、お気に入りの寝床に収まるヴィノの寝つきは非常に良好だった。時折小さな寝返りをうつくらいで、あとはお行儀よく規則正しい呼吸を繰り返すだけだ。ベッドの一部を占拠されることにさえ目を瞑ればたいした邪魔にはならない。
 そのことに気がついたクロコダイルは途端に馬鹿馬鹿しくなり、すこやかな寝息を足蹴に押し遣ることで溜飲を下げることにした。
 
 だというのに、それが船の上での生活になった途端、ヴィノは押しかけてくるのをぱったりとやめたのだ。理由は明白だ。あの非の打ち所がない贅沢なベッドがなくなったからである。いまあるのは嗜好品的要素のまるでない、グレードの低いものだ。実を言うとクロコダイルの趣味でもない。彼が寄り付かないのも理解できる話だった。そのおかげでここ数日というもの、彼が毎晩どこで寝こけているのかはクロコダイルは知りもしない。
 ヴィノが求めているのは飽くまで安眠であって、そこが誰の寝床かというのにまるで関心がないのである。
 
 そこまで考えて、この数日の自分の不調はあの粗悪なベッドのせいではないかとクロコダイルは結論づけた。
 それを思えば野良猫よろしく、外でもどこでも眠りこけられるヴィノの行動は賢いといえるかもしれない。
 
 納得とともに、海面から吹く風を浴びているうちにクロコダイルの苛立ちはマシになっていた。
「次は客船でも見繕うか」
 彼の中で睡眠環境の改善が優先事項にあがった瞬間であった。正体不明の原因にようやく思い至って、クロコダイルの表情からはどこか清々しささえ感じられるが、要は適当に目に付いた船を襲撃するつもりだ。
 
「ワルいなあ!」
 それを聞くヴィノはひとまず驚いた声を出してはみたものの、彼もまた、ここのベッドに不満を持つ一人だったので、それきり非難は出てこなかった。