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──ポーン。
 
 阿鼻叫喚の中、音色がひとつ響く。旋律ですらないひとつの音階。いままさに凶悪な二人組によって襲撃を受けている状況とまったくもって似つかわしくなく、それは響かせた指の持ち主とよく似ていた。
 
 戦況は一方的だ。クロコダイルが乗り気の時点で、少なくともいまここに鉢合わせた哀れな荒くれ者たちに交渉の余地は与えられない。
 そのことを少し残念に感じながら、ヴィノはまた手元の鍵盤に指を置く。平和そのものの音が鳴る。
 
 蹂躙は突如始められた。そのほんのちょっと前までのクロコダイルは至って穏やかで、口元に笑み(それが最低限の社交辞令的なものであったとしても)さえ湛えていたのだが、なにをきっかけにここまでの破綻に至ったのか、話し合いに参加していなかったヴィノにはわからない。最初から織り込み済みだったのか、相手がよほどクロコダイルを逆撫でしたかのどちらかだ。瞬きする間もなく、そこからは砂と斬撃の応酬である。
 
 戦いとなればいよいよお役御免のヴィノは速やかに大暴れの爆心地から距離をとった。そうして目に留まったのが華やかなエントランスホールにぽつんと置かれたグランドピアノだった。
 背中のほうから人間が吹っ飛んできて、大型の花瓶が壊れる。この暴れっぷりを見るに、ここの柱が建物を支えていられるのも時間の問題かもしれない。そんなことを考えながら、彼はピアノの黒いツヤを撫でた。上等な見た目のわりにあまり使われてはいないようだが、うっすら埃の被った鍵盤を指で遊ばせれば問題なく音が弾かれた。背後で知らない誰かの断末魔が響く。
 ろくに使われもせずこのまま壊れるだけなのを、哀れに感じたのかもしれない。奏者用の椅子へ本格的に腰かけると、ヴィノは気ままな指を鍵盤に滑らせた。軽やかな音が鳴る。どこかのガラスが壊れる。まるでスキップでもしているかのような音。壁が瓦解する音。
 
 早々に片をつけると、クロコダイルはようやく場違いな音色の出所へ目を向けた。ヴィノが楽器を嗜むなどとは知りもしなかったが、空気を読まない行動が誰によるものか推測すること自体はあまりに簡単だ。
 
「また妙な特技だな」
 思った通りの人物を視界に入れて、クロコダイルの声は呆れ返っている。しかしそこに咎める色がないのを嗅ぎ取ると、ヴィノは明るく言葉を返した。
「見様見真似だけどね」
 そう言ってみせるのは謙遜ではない。現にさきほどから奏でられているのは曲の体裁を保ってはいるものの、実際はでたらめな鼻歌みたいなものなのだ。
 この男はなににおいてもでたらめが得意なのだった。それで不思議と耳心地は悪くないのだから、一種の才能ではある。
 
 むっつりと口を結んだまま行儀良くしているダズにはその良し悪しはわからない。さきほどまで刃物と化していた指先に返り血がこびりついていれば尚更だ。崩壊寸前のエントランスを突然リサイタル会場に変えられても上司はなにも言わなかった。ならば、ここは彼が口出しをする場面ではない。突拍子のないヴィノの分を補って余りあるほどに、ダズは空気の読める男だった。
 気まぐれに移り変わるメロディを、クロコダイルはなにか確かめるような顔つきで聴いている。彼ら三人のほかにもう口を利ける者はいないから、先ほどは片隅に聴こえてくるだけだった音を存分に吟味することができた。
 
 まるで物を知らない無教養かと思えば、ヴィノには案外こういう面がある。暴力に向かない白い手は実はかなり器用な部類だ。その手に自分の手を取られる感覚をクロコダイルは知っていた。
 
 なにか出先でいいことがあったとかで、──大概は街の人間と話ができただの、ちょっぴり親切にされただの、取るに足らないことだ──身の内に気持ちを留められなくなると、ヴィノはいっそ一時の高揚に身を任せる。
 その日も厭に上機嫌で彼はクロコダイルのもとを訪れた。当然、闖入者の機嫌などに関心を寄せる義理は彼にはなかったが、軽やかに両手を取られてしまっては無視するわけにもいかない。細かな事務作業をするときでさえクロコダイルの片手には大振りの鉤爪が嵌められている。しかしヴィノは、まるでそれがもとから彼の身体の一部であるように全く気に留めなかった。単純に見慣れてしまったというのもある。いまはそんなことよりも、心の内の喜びをいかに相手に伝えるかというほうが優先だった。
 自然、向き合う形になったクロコダイルの目線の下で、熱っぽい表情を浮かべながらあれこれと語りだす。酩酊を誘うにおいに相手が顔を顰めても、悪癖が発現していることに本人は気づかない。
 
 クロコダイルがそのとき舌を巻くはめになったのは、男の危険な能天気さにではなかった。
 じゃれつくだけの触れ合いにはいつしか一定のリズムが生まれている。緩やかな三拍子のワルツだ。ヴィノはあろうことかクロコダイルにダンスを誘っているのだった。しかも、生意気にも彼がリードする動きで。
「ふふ、」
 すでに彼の唇はおしゃべりをやめ、笑みをこぼすだけになっている。はじめは喜びの共有を押し付けるだけの行為だったのが、だんだんじゃれ合いそのものが楽しくなってきたようだ。
 
 クロコダイルより頭数個分も低いうえ、男のわりに細腕の持ち主であるヴィノはそれをものともせず、身体を寄せて単調なステップを繰り返す。合わせる音楽もないのに、先導されるリズムをクロコダイルは理解できた。それはつまり、ヴィノのリードが優れていて、そして手慣れている証拠だった。
 繰り返される三拍子はゆっくりとした拍動に似ている。ただその動きと合わせればいいだけのことだ。そのことに気づいたが最後、今度は互いの鼓動が伝わるほどの距離であるのをまざまざ思い知る。ここまでの至近距離で彼の能力を浴びせられては相手はひとたまりもないだろう。これが計算づくでないのなら恐ろしい手並みだった。
 
 こんなのどこで覚えた、と悪態のこもった目がヴィノを見下ろす。
「昔取ったキネヅカってやつかな」
 意外に察しは悪くないヴィノはそう返事を寄越すものの、しかし多くを語らないのだった。
 
 いま目の前で流暢にピアノを奏でているのはそのときの出来事の延長線といえる。いつぞやマッサージと称してべたべた触られたのだってそうだった。けして世間知らずなのではない。むしろ……。
 
 黙ったまま目を眇めるクロコダイルを横目に、ふとヴィノは曲調を変えた。
 それは聴く人が聴けばすぐに曲名が分かるほど有名なバラードだった。音楽に明るくないダズはそこまでは思い当たらなかったが、それでもさっきまでのツギハギの即興と違うことだけは理解できた。
 それは清廉で情熱的な、恋を綴った歌劇の一編である。果たして、これも「見様見真似」なのだとしたら誰かが彼にそれを弾いて聴かせたことになる。指の動きを覚えてしまうほど、きっと何度も。淀みないメロディが佳境に差し掛かろうとした、そのとき。
 
──がしゃん。
 
 大きな音とともに白い鍵盤が目の前で吹っ飛んで、音楽は止んだ。
 驚いて目を丸くするヴィノの前で、ピアノはざらざらと崩れていき形を保てなくなる。鉤爪を振り下ろしたのが誰か確かめるまでもない。唖然となるヴィノの足もとに、ピアノを形成する繊細なパーツがいくつか散らばった。それはどうあっても壊れる運命にはあったのだが、ここまで無残に、砂粒と化すまでばらばらになってしまうとは数奇なものである。
 
「もうここに用はない、行くぞ」
 粒化した木片に一瞥もくれず、クロコダイルは背を向けた。用済みの場所を立ち去ることに異論を挟む余地はない。
 しかし彼の態度の変化は些か急であり、あとの二人は取り残されたようになってしまう。上司のあとを追う前にダズはちらりとヴィノのほうを窺った。必要以上に素直な性質の彼のことだ。また何事か泣いたり喚いたりするに違いない、と諦念に似た覚悟で彼を見る。しかし予想に反してヴィノの様子は不気味なほど静かだ。あまりのことに脳の処理が追い付いていないのかもしれない。少々憐れむ気持ちにもなって、ダズはなにか声をかけようと口を開いた。
 
 が、それは杞憂に終わる。突然癇癪をぶつけられた優男はあろうことか笑っていた。いたいけな悪戯を被ったときのような、穏やかな含み笑いだった。
 
「……彼、結構かわいいところあるよね?」
 とうとう我慢できずに言う。まるで同調を求めているかのような口振りだ。
 当然同意できるはずもなく、ダズはただ苦々しい顔で沈黙を選んだ。懸命な彼にできるのはこの妄言が先を行く上司まで聞こえていないのを祈ることだけだった。