『来週、そちらに帰ります。』
その一文を目にするにつけ、斎宮宗は取り落としそうになったティーカップをあわてて持ち直した。優秀な反射神経のおかげで大事にはいたらずに済んだものの、受け止めきれなかった紅茶の水滴がわずかに彼の麗しき指先を濡らす。らしくない動揺に、宗は自らを苛立たせた。
就寝前の密やかなひとときを邪魔する者は誰もいない。なのでさきほどの無様な動揺も、別段誰かに見られたわけではないのだが、そこはそれ。衆人の目があろうとなかろうと、宗の美意識は損なわれるものではない。
彼が視線を落としていたのは一枚の手紙であった。開封され、その役目を終えた封筒の体裁はエアメールだ。フリック操作で国外問わずすぐにメッセージが送れる時代には手紙という手段はもはや古風ともいえる。相手先である彼が日本を発ってから10年が経つ。その間、このやや時代遅れのやり取りは不定期にではあるものの、二人の間で途絶えることなく続けられていた。受け取る手紙の年々美しく洗練されていく筆致、知的で広大な言葉節は宗の好むところだったし、季節の折に届けられるそれを質の良い紅茶とともに味わうのは彼の繊細な精神バランスを保つのに一役買っていた。それが今夜だけは違う。
目を皿のようにして何度読み返しても文面が変わることはない。宗は速やかに封筒の消印を確認する。その押印は手紙が4日前に出されたことを示していた。送り主の住む土地はニューヨークだ。もろもろのタイムラグを鑑みて、彼の書き記した曖昧な帰国日がもう目の前まで差し迫っていることはすぐに察せられた。
「影片! 影片ァ!」
一も二もなく宗が叫ぶと、彼の忠実なる人形の男が廊下からぱたぱた足音を立ててやってくる。
「なんやあ、なにかあったん?」
突然の呼びつけにも関わらず、斎宮家居候兼・たったひとりとなってしまった宗のユニットメンバー、影片みかは嫌な顔のひとつも浮かべない。どころか、ややだらしなく頬を緩ませて自分の名をヒステリックに叫ぶ宗を見ている。みかにとって、大事な師が取り乱すさまはわりと日常のことなのだ。ただ、夜も遅い時間に呼び出されることははじめてで──なにしろ、数少ない癒しの時間を邪魔されることを宗はひどく嫌うので──いったい何を言いつけられるのだろう、とみかはひそかに胸を高鳴らせていた。
そんな能天気な顔を前にして宗の顔色が一段と蒼白になる。唇をわななかせながら、彼はこう仰せつく。
「……逃亡だ」
「へ?」
「僕は国外逃亡するッ!!」
「ええええええ」
偉大なる師の言うことはいつだってみかには半分もわからない。
「えっ?えっ? お師さん、旅行にでも行くん?」
「その耳は飾りかね? 逃亡だと言っただろう!」
「いや急にそんなん言われても、だって、それじゃライブは!? Valkyrieはっ?」
「止むをえまい。ことは一刻を争うのだよ……!」
もはや宗の様子は軽い錯乱状態だ。まともな判断が出来ていない。そのことはみかにも理解できた。だって二人きりで再始動をはじめたValkyrieは、はじめこそ歪な機械演劇のままだったが、近ごろは少しずつ変化しつつあるのに。宗の練り上げた芸術の粋であるValkyrieをみかは今も昔も変わることなく愛している。しかしあれだけ塞ぎ込みきっていた宗が、目的は多々あれ積極的に動き、ライブをするまでになったのだから、それは当然良い変化に違いない。それなのに、その矢先にこれである。みかは縋り付くしかない。師の突発的な暴走を止めることができるのは彼だけだ。
「嫌や! お師さん! 考え直してえな!」
「やかましいッ抱きつくな!! 僕に指図をするなあああ!!」
「お師さーん!!」
影片みかは斎宮宗の人形、舞台道具にして唯一の手駒だ。
だが今日に限ってはそこに「番犬」としての役割が新たに加えられた。基本的に宗の指示には二つ返事のみかである。その勤めを果たすべく、来客の前へ立ちはだかった。葉が青く生い茂る、晴天の日のことである。
そんなみかの様子を見て、和服に身を包んだ青年は思いがけず目を丸くする。見知らぬ人間に突然通せんぼをされては驚くのは当然のこと。しかしその驚き、すなわち奇異の目はみかにとってあまり目にしたくない類の表情だった。
男の様子からは成長しきった大人の分別が窺えるが、顔の上にふたつ揃えたどんぐりのような目だけは愛らしく丸まっており、少し歪な印象を見るものに与える。彼こそが宗の文通相手。あの、自分の好みに合わないものを切って捨てることに一切躊躇のない宗が選んだ相手である。
(んああ……でも、やっぱ知らん人めっちゃ怖いい)
みかは震える背筋を抑え込んだ。見知らぬ相手からの視線に怯えながら、それでも健気な彼は宗から言付かったセリフを述べる。
「斎宮宗は今日は不在です!」
(言った! 言うたったでお師さん!)
出だしのミッションをクリアし、みかは頭の中の師にそう告げる。
宗が癇癪を起こした夜、みかはあの手この手で彼を思いとどまらせた。みかの平身低頭の懇願が効いたのかまでは定かでない。だが、宗が帰国を怖れているらしい相手がこちらへ来るまでには対策をこまねいている猶予はないというのがどうやら決め手になったようだ。相手は明日にもここを訪ねてやってくるかもしれないと。
「あれ、そう。今日宗ちゃんいないの?」
そんなやり取りがあったとは知らない男はどこかあっけらかんとした声色で言った。
「しゅ、宗ちゃん!?」
意外すぎるその物言いに今度はみかのほうが驚きをあらわにする。それが宗のイメージからはかけ離れた、随分と気安い呼び方だったからだ。
いきなり声をあげたみかをさほど気にしないようで、男はそうかあ、ともう一度呟いた。その様子からは確かな困惑が見て取れる。
不在とは言ったものの、勿論それは方便だ。
不測の事態に宗が選んだ行動は居留守、いないふり、だった。実際は不在どころか家の中からみかが失態をしやしないかとばっちり監視している。それを知っているみかは、彼の操り人形として当然のことをしたとはいえ、わずかな罪悪感に見舞われていた。人見知りがゆえに過剰に怯んでしまったものの、よく見れば優し気な雰囲気の男だ。パッと見では大人びて見えるが、きっと年齢も近いのだろう。国境をまたいでまで訪ねてきたのに門前払いというのはあんまりだ。
「せめて斎宮さんたちにご挨拶をしても?」
「んあ、家の人たちもいまはいないんです、ほんとたまたま。すんません」
これは本当だ。こればかりはこの男の運が悪い。みかが申し訳ない気持ちに苛まれると、そんな彼の思いとは打って変わってからからとした笑い声が耳に届く。
「そっか、そうとうタイミングが悪かったみたいだね」
アポイントも取らなかった俺が悪い、と。男は心底おかしげに笑っている。
「こうなると君がいてくれたことがいよいよ幸いだな。俺は夜一郎という。見るに、君は斎宮の人間ではなさそうだが、留守番でも頼まれているのかな?」
「あ、えーと。そんな感じです。えっと、影片です。影片、みか」
アイドル養成学科という、特殊な場所に身を置くみかの交友関係はおのずと多様だ。しかしそれらの面子を思い浮かべてもここまで晴れやかで屈託のない笑顔を見せる人間はそういない。と思う。ぎょっとしながら名前を伝えると、夜一郎はみかくん、と小さく繰り返した。
「うんうん、よかったよかった。また日を改めよう。これは引っ越し祝いだ。受け取ってくれるかな」
「え? んあ、祝い?誰が?おれに?」
みかがまごついている間も快活な笑みを浮かべながら、夜一郎はつぎつぎみかの手に箱やら袋やらを乗せていく。
「そうそう。お土産と兼ねて、俺の引っ越し祝いでね」
「あんたの引っ越し祝い? え、ていうかすんません、こんなもろてもおれ絶対消費できな……」
「ははは。ついあれこれと目に付いてしまってね。すまないが友人とでも分け合ってくれないか。このクッキーなんか虹色をしてて面白いだろう。はは」
夜一郎はみかがいくら否定的な返事をしても、ちっとも気分を害する様子がない。気前よくみかの腕に贈りものを積み上げきると、大口を開いて笑っていたのをやっと微笑みの形に戻した。
放っておけば永遠に笑っているのではと思うほどだったので、みかは少し安心する。夜一郎は視線をさげて、言葉を付け加える。
「あとは、よかったらこれも代わりに受け取ってほしいんだが」
そう言って差し出されたのは百合が束ねられた花束だった。淡い色の花弁の、薄紅色の紙に包まれたささやかなブーケ。
花のことなんかよく知らないみかでも、これがクッキーや飴の山などとは異なる意味合いを持ってるのは理解できる。だいいち、花なんてどう扱ったらいいのかさえわからない。
「いやいやいや! もらえませんて!」
「……だが、これが一番日持ちがしないものだからね。このまま持ち帰ってしまうのはあまりにかわいそうだ」
みかが後ずさってまで拒否を示すと、あれほど快活だった夜一郎の表情に翳りが帯びる。その表情に、みかの心は焦った。いくら花束に無縁でも、受け取るくらいはしてやるべきか。ああでも。どうしよう。まずは抱えている引っ越し祝いの山をどうにかしないことには受け取れるものも受け取れない……。
そんな思考のさなか、みかの背後からかすかに蝶番の軋む音が耳に届く。
開いたわずかな隙間から、ぬっと顔を出したのは愛らしいドレスに身を包んだお人形。それが宙でゆらゆらと揺れる。その登場に疑問符を浮かべたのは夜一郎だけだ。
『とっても素敵な贈りものだわ、夜一郎くん!』
頭のリボンを揺らしながらマドモアゼル嬢は言った。
ということは当然、ドアの隙間の奥には居留守を決め込んだ張本人がいることになる。みかは反射的に家の中が見えないように背で隠した。
「あ、ああーっ! マド姉ェはおったんやねえ!」
『たくさんお土産もありがとう。でも加減してあげないと、みかちゃんがお菓子で潰れちゃいそう』
「あ、これはどうもどうも」
達者におしゃべりをする人形を前に、夜一郎は頭をぺこりと下げた。おそらくは、人形の奥にいるであろう相手に対してだ。彼とマドモアゼル嬢とは今日が初対面である。
『せっかく来てくれたのに、宗く……宗ちゃんはお出かけしてて。ごめんなさい』
「いや、こちらこそ突然だったから。でもそうか。息災ならなによりだ」
話しかけてくるお人形、という奇妙な光景にさしたる動揺を見せず、夜一郎は言葉を返した。そしてみかとマドモアゼルを交互に見て、また日を改めるよ、とだけ残し、立ち去っていった。その声色は最後まで朗らかだ。斎宮家の玄関前にたくさんの土産だけが残る。ようやく退けた相手の背を見送り、みかは宗を見た。
「ほんまに挨拶しなくてよかったん?」
「……愚問なのだよ、その必要はない。できないのだ。僕にはその資格がない」
扉をしっかり締め切ると、白百合の花束はいつのまにか宗の手もとに収まっていた。彼の品のある顔立ちとひかえめに咲く小さな百合は最高の取り合わせだ。それを見て、ああ、やっぱりこの花は彼のために誂えたものなんだな、とみかは心底から納得した。
「でも、できひんって、本当はしたいってことやんなあ?」
みかは彼自身が評価するよりよほど心の機微に聡い。宗の偏屈な感情の浮き沈みを感じ取れないようでは彼とここまでの関係性を築くことは困難だろうから、当然のことではある。ただ、図星を指されたからといってそれに素直に応じる宗でないことも事実だ。
「影片。そこに転がっている菓子類の処理は任せる」
みかの疑問に対する答えを与えず、宗はそう申し付ける。
改めてその山を見ても、いくつかはクラスメイトなどと分け合うにしたって、それでもどうやって持ってきたのか不思議なくらいの量だ。消費期限に余裕があるようだったら故郷の子どもたちに送ってみようか……。などとみかが考えているうちに、宗はマドモアゼルと花束を抱えて踵を返す。過剰ともいえるプレゼントの数々はそれほど宗に会うのを楽しみにしていたということではないのか。本当にこのまま会わずにやり過ごすつもりなんだろうか。
「でもあの兄さん、引っ越し祝いがどうとか言うてたけど。あれってしばらく日本にいるってことなんちゃうかなあ」
みかの何気ない一言に、宗の足が止まる。
「それに日を改めるって言うてたし……、マド姉ェも断らんかったし、また来てまう気ぃするわ……」
それはそうだろう。彼の言う通りだ。本当に会うことを避けたければ、マドモアゼルに向かわせた時点ではっきりと拒絶するべきだった。宗に言わせれば、それをしなかったのは自分ではなくマドモアゼルなのだが、その言い分がまかり通るのは自分の中でだけだ。
「またおれが出てもええけど、きっとがっかりするやろなあ……」
と、今日会ったばかりの相手に自分まで悲し気な顔を見せるみかの言葉を背で聞きながら、宗は考える。みかの言うことは全て的を射ている。だが受け入れることは到底できるはずもなかった。
家人の出払った家では、宗は王様だ。マドモアゼルを携えたまま廊下をきびきびと闊歩する。
──がっかりするだと?そうだろうとも。
だが、面と向かって再会したほうがよっぽど相手は幻滅することだろう。宗にはそれがわかっていた。
それはまさに薔薇色の頬のころ。夜一郎と宗がべったり寄り添っていたのはもう随分昔のことになる。かつての宗がそのように仕向けたわけではない。だが気が付いたら、一体いつ取り違えたのか、夜一郎は宗が少女であると勘違いしていたのだ。そのことに気付いたのは彼が日本を離れ、文通が開始されてからだった。
自室の扉を開き、お気に入りの花瓶に受け取ったばかりの白百合を生ける。花弁はまだ瑞々しく、凛とまっすぐ立っている。百合の香りというものは場合によっては強すぎると感じることもあるが、小ぶりなものだからだろうか。気に障るようなものではない。それを眺めていると、宗は心の強張りが幾分なくなったような心地になる。
『宗くんを想って選んでくれたのよね』
「……“宗ちゃん”を想って、だろう」
マドモアゼルへ返答しながら、重苦しい気持ちを思い出す。
宗が女であるという誤解は、結局解消されることはなく、いまのいままで訂正されないままやってきてしまったのである。自分のしたことながら、怨みがましい。それこそ文通が始まったばかりの初期段階であればまだ幾分か本当のことを言い出しやすかった筈だ。誤解をさせたまま今日にまで至ってしまったのは詐欺行為も同然だった。
「……ふん、だが問題ない。危機があるなら切り抜けてみせるとも!」
彼は不遜な口ぶりを装ってそう言った。その額は若干汗ばんでいる。誰から見ても虚勢だった。
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