「そういうわけで、あるカフェのプロモーションをすることになってね」
スマホを片手にお喋りする宗はいつになく穏やかだ。あれほど毛嫌いしていた電子機器は海を隔てた定期的な連絡にはおおいに真価を発揮した。さしもの宗も便利さには敵わなかったようで、最近ではそれを使っての通話も手慣れたものである。かつて行われていた夜一郎との手紙のやり取りもかけがいのないものだ。しかしそれを交わさなくなってしまったのはそもそも会う頻度自体が格段に増えた証左なので差し引きの結果、現状は喜ばしいことと言えた。
あり合わせで結成したシャッフルユニットも軌道に乗り勝算が見えてきた。気に入りのカフェ存続の道が拓けたことに加えて、つむぎと目的を同じくするという経験も実は彼の上機嫌の要因になっている。宗自身でさえ意識の外にある情緒をその口振りなどから通話先の夜一郎は穏和に感じ取る。
「君は存外子ども舌だから、あまり珈琲などは嗜まないのだろうね?」
話をする合間で、微笑みながら宗が言う。夜一郎の好みが子どもっぽいのは彼の予想通りだ。電話口から夜一郎の肯定的な相槌が聞こえて、宗の機嫌はまた上向く。
『摂取はしているよ』
しかし夜一郎の台詞は奇妙な言葉に着地した。
「摂取……かね?」
まるで薬かなにかを指しているような言葉だ。静かに先を促す宗に夜一郎は僅かに躊躇いを見せ、こう続けた。
『珈琲にはカフェインの効果があるだろう。だから仕事するときにちょっと多めにね』
「ふむ。ちょっと多めに、かね」
『う、うん』
「具体的には?」
『えっと、量とかはちょっと分からないな、あるだけどんどん作ってくれるから……部下が……、』
カフェイン中毒。その文字が宗の脳内にでかでかと表示される。しどろもどろの夜一郎から白状されたのはあまりにも不健康な内容だった。
「……正気じゃないのだよ……!」
気付けば宗は真っ白になった頭で通話を切り、勢いよく立ち上がっていた。なにせ、下手人は彼の職場にいる。
就業時間が過ぎた社内では残っている社員もまばらだ。中でも万年明かりが点いていると噂の社長室で、夜一郎は一方的に切られてしまったスマホを見下ろしていた。
「ご歓談は終わりましたか、結構なことです」
いつからか彼の付き人のごとき立ち回りを担う男・漆原がいつも通りの鉄面皮で社長室へ入ってくる。押されたワゴンには珈琲の入ったデキャンタサイズの容器が置かれていて、微かなにおいを漂わせていた。
あ、いまそれはまずい。と夜一郎が言うよりも先に早々と業務用カフェイン摂取薬はカップに注がれる。残業中の漆原は昼間以上に無用な対話を好まない。夜一郎のほうも付き合わせている負い目があるので彼からの奉仕に普段であれば文句は言わないのだが。
扉を隔てた先からドタバタと、この時間にはそぐわない音が聞こえだす。その正体がわかっている夜一郎は扉がけたたましく開かれるのを観念する気持ちで見ていた。
「やはりここか!? 夜一郎!」
怒り任せの勢いで斎宮宗が乱入してきた。彼のアイドルとしての素養ともいえる高らかな声はよく響く。
「ご、御機嫌よう宗ちゃん」
予想よりもずっと早い到着に夜一郎は狼狽気味だ。さきほど話していたシャッフルイベントのこともあり、宗は一時帰国している。普段パリにいることを思えば国内ならばどこだってそこよりは近場だ。
「ああ御機嫌ようッ! こちらの気分はまったく良くないがね!」
「そうみたいだね……、いや、俺のせいなんだろうだけど……」
宗は当たり散らしながら目つきを厳しくする。こうしたとき夜一郎が見せる殊勝な態度は勿論嘘ではないのだが、だからといって宗の意見になんでもかんでも屈するわけでもない。
宗は歯痒くなって、今度は夜一郎の傍らの長身を睨み上げた。明確な敵意の発露に漆原も風変わりな道場破りへと目を向ける。二人の間で見えない火花が散った。
「……その不躾なものを下げてもらえるかね」
宗が指すのはいままさに夜一郎のために用意された珈琲入りのデキャンタである。色気も情緒も感じられないそれは宗の美意識の外にある物だ。しかし彼から命令を受けたところで大の男は眉ひとつ動かさない。
「ひとが飲むものを粗末にしろというほうがよほど不躾なのでは?」
「なにッ!?」
「や、やめてくれ」
たまらず力なく声を漏らす夜一郎に二人分の視線が返ってくる。
「夜一郎、この男の教育はどうなっている!」
「彼は部下ってだけで使用人というわけではないからね……」
「苦いのは嫌だから薄味のものがいいと言ったのはあなたですよね」
「うーん、言ったかな……言ったかも……」
矢面に立たされた夜一郎にコーヒーマグが勧められる。アメリカンコーヒーといえば聞こえはいいが、漆原が淹れるものはいつも故意に薄められている。それをただただ飲み下すのが夜一郎にとっては慣例となっていた。大きめのマグカップを傾けるのになんの感慨もない。
それが夜一郎の珈琲に対する苦手意識が払拭されない原因であることは明らかだった。それを目の当たりにした宗の背筋には寒気すら走る勢いだ。
彼が絶句するのを横目に、夜一郎は変わらず窮地に立たされていた。改めて自分の習慣を糾弾されれば分が悪いことは彼もよく分かっていた。でも、だからといって宗のヒステリーに任せて飲み物を無駄にさせるのもきまりが悪いというものだ。結局夜一郎には美味くもない苦味を消費するしかできることがない。漆原だって、多少行き過ぎなところはあるにせよ、良かれと思ってしていることなのだ。そんな夜一郎の逡巡を察せない宗ではない。むしろ全て理解して、眉をより吊り上げる。
「給湯室を借りる!」
吐き捨てた言葉は許可を乞うものではなく、すでに決められたことだった。就業時間後に廊下を闊歩するアイドルの姿はそれは目を引いただろうが、この時間に社内に残っている者はある程度夜一郎の交友関係を知っている者たちである。そのうちの適当な人間を捕まえて、宗がまるで王様のように道案内を仰せつけても断られることはなかった。
冒頭に彼自身が述べた通り、とあるカフェの再起計画を担うにあたり、宗たちアイドルも店員としての振る舞いをいちから教えられた。客のためにあくせくと身を動かすことは普段の宗の在り方とは言えない。だがその実、彼は自分が認める相手には最大限の敬意を払う質(たち)でもある。
もともとカフェの閉店をはじめに憂いていたのは宗で、店主の手ずから珈琲の淹れ方などを教わることは彼には非常に有意義なことなのだった。
サイフォンでの抽出には少しの時間がかかる。それらを待つ時間は暫し物思いに耽るには最適だ。使う湯の温度や豆の配分をとっても繊細に変わる香りを、夜一郎は知っているだろうか?電話口でこのことを彼に話してしまったのは、彼と珈琲のもたらす穏やかな時間を共有したいという想いがあったからだ。そのはずが、彼を取り巻く事情があまりにもそこからかけ離れたものだったためここまで取り乱してしまった。
深呼吸して宗はいくらか気を落ち着かせる。いつまでも苛立った気持ちで珈琲に向き合うのは彼に技術を教えてくれた店主の想いも踏みにじることだ。心中でそう言い聞かせてもう一度深く息をつく。たとえ限られた器具だけだったとしても彼の人並外れた器用さがあれば、あの喫茶店相当とまではいかずとも理想に近い味を作り出すことは造作もなかった。無論、夜一郎の前には完璧なものを提供したいが、いまはそうも言ってはいられない。
たっぷりと抽出時間をかけた珈琲が冷める前にと、素早い足並みで宗が再び社長室へ戻ってきた。出ていったときとは彼を取り巻く空気が違うことに夜一郎はすぐ気が付く。
宗はデスクに鎮座する大量の珈琲も、それを作った男にも一瞥もくれてやらず、まっすぐ夜一郎のもとへソーサーとカップを置いた。
もともと部屋は珈琲のにおいで充満していたが、宗から差し出されたカップから薫るにおいはまた性質の違うものだ。それは分かる。それは分かるのだが、すでにそれなりの量を飲み下しているところに新たに用意された珈琲というのは夜一郎にとってあまり気が進まないのも事実だ。
「さあどうぞ」
しかし宗にそう促されては彼に断る選択肢はない。
夜一郎はマグカップをごとん、と置くと今度はカップの華奢な持ち手に手をかけた。香ばしいにおいが薫る。覗き込む水面は黒く、それが混じり気なしのブラックコーヒーであることが窺える。
珈琲が苦手ならミルクや砂糖で苦味を和らげるのが定石だが、夜一郎ほどの子供舌となるとそれすら焼け石に水で、いくら砂糖を入れても珈琲本来の焦げっぽい苦味を完全になくすことは敵わない。だから彼に必要なのはいつだって苦味に対する覚悟である。
こちらを見つめる宗の眼差しは柔らかく、夜一郎は固唾を飲むといよいよカップに口をつけた。
「……あれ、あんまり苦くない……かな?」
確かに苦味はある。しかしそれは予想していたほどには舌に残らない。薫りは深く、その深みがいままでは感じることができなかった豆の果実にも似た酸味までともに連れてくるのだ。それが彼には不思議に感じられて、宗が促すまでもなく、もう一口とカップを傾ける。
「当然だよ。この僕が、君のために淹れたのだから」
正確には彼でも飲めるような豆を宗は事前に用意していたのだ。夜一郎の味覚もばかではない。複雑に隠れた味を探ろうとするほど苦味以外のものを感じ取っているようだ。自然とゆっくり味わいながら飲むようになるのも含めて思惑通りで、宗は得意げになる。
「なんでもいいですが、淹れた分はきっちり飲んでくださらないと」
口を挟まれたことで、折角和らいでいた宗の表情が強張った。いままで存在を無視されていた男は夜一郎の返答を聞くこともなくだぽだぽと珈琲を注ぐ。曰く、こんなものを飲むのはあなたくらいなんですから。と。その口調からは呆れさえ窺える。
「明らかに健康を害する量というのは分かるだろう!」
「これが一番効率よかったもので」
「効率!?」
本日何度目かの宗の絶句。
……ついに怒髪天をつかれた彼の勢いは止められない。再び給湯室へと引き返すとデキャンタコーヒーに対抗すべく、器具一式を持ち出してきた。
「頭に血がのぼってしまった……、やりすぎだ。すまなかったのだよ」
当然、そんな二人の応酬の報いを受けたのは夜一郎である。流石に許容量を上回ったらしい彼は併設の仮眠室でぐったりと身を横にしていた。
そんな状態でも、冷静さを取り戻した宗にしおらしく声をかけられれば曇った顔は見せないのが彼の甲斐性だ。
「大丈夫だよ。俺、これまでお腹壊したことがないし」
「そ、それは頼もしいことだけど」
あの部下は夜一郎の胃の丈夫さを把握していたのだろうか。それを問う間もなく、器が空になるのを認めるとなんの未練もない歩調で部屋を出ていってしまった。そのようにあまりにあっさり身を引かれると宗も拍子抜けだ。不可解ではあるものの、夜一郎自身に執着心が見えない態度には素直に安堵する。
いまは立ち去った何某より、目の前の夜一郎だ。
「カフェのこと、きっとうまくいくよ」
脈絡なく笑う夜一郎の言葉は自分を見下ろして表情を曇らせる宗を慮ってのようだ。しかし彼がいま心配していることとは見事に焦点がずれている。
「君の言う通り、いままで珈琲は苦いばっかりだったんだけど。そんな俺でもおいしいと思えたんだからね。寧ろおかげで開眼したみたいで今度は色々試したくなってきてて……」
「安静にしてなさい」
「はい」
話しているうちに熱が入り、乗り出し気味になる夜一郎の半身をまたベッドへ戻す。彼から手放しに褒められては宗は当然悪い気にはならない。結局いつもの調子で宗のしたことは有耶無耶のまま許されてしまう。これではよくないとは宗も自覚しているが、だからこそいまは夜一郎を大人しくさせておくことに注力する必要がある。こうしてやっと二人だけの、穏やかな時間を取り戻せたのだから。そう思い、宗は横になる夜一郎へ自分の手を添えた。
もともとは彼の不健康を正したくてきたはずなのだ。それが不摂生の象徴ともいえる仮眠室を使わせてしまう結果になった。
「好きになってくれたのはいいけど、試すときは僕も付き合うからね」
君は無茶するんだから。と、夜一郎の髪の流れに沿う宗の手付きからは労りが伝わる。
「それは嬉しいな」
その提案に夜一郎は素直に声を弾ませた。そもそも給湯室の設備は宗の求める環境には程遠いものだった。なんとしても夜一郎には、効能のためだけではない珈琲の嗜み方を知ってもらわなければならない。今日の出来事はいわばその足掛かりだ。
宗の目に闘志が宿るのを見て、第二回戦の兆しを感じ取った夜一郎は胃薬を常備することをそっと考えはじめた。
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