招かれた食卓を前にして、宗はもう何度目かになるシミュレーションを頭の中で繰り返した。
季節はにわかに桜がほころび始めた早春の夜。国を挙げての開花予報こそなくなったものの、それでも桜を前にしたこの国の浮かれ振りは変わらない。ESの人間であれ例外ではなく、宗の周りでも日々春の訪れに浮足立ち、花見でもしようかと話題があがることもしばしばであった。そこに暗黙のうちに乱痴気騒ぎが含まれていることがどうにも気にいらないというだけで、彼とて桜という花の愛らしさについてはおおいに認めるところだ。
夜一郎が長年暮らしていたアメリカにも桜はある。しかし幼いころに日本を離れた彼は本場の花見というのをよく知らないのではないか、と宗は考えた。もしそうならここは自分がリードする場面だ。
淡く色づく花を前に夜一郎はきっと心からの笑顔を見せるだろう。そして奥ゆかしく、差し出された手を取る。エスコートするのは当然、宗でなければならない。思い描いた光景を実現するために、彼の脳内にはすでに近郊の桜の名所がいくつも記憶されていた。そこから適度に人のいない場所をふるいに掛けなければならないが、その前に多忙極まる夜一郎のスケジュールを抑えておく必要がある。意を決して、宗は口火を切った。
「ときに、その。桜が咲きはじめたようだね」
目的地からは随分遠い切り出し方だ。しかしそれを聞いた夜一郎の反応は想定通りに悪くない。他愛のない世間話と判断して穏やかに相槌を返しただけであっても、その表情は宗の心を勇気づけた。
「いい機会だから、折を見て僕たちも眺めにいっても良いと思うのだが」
あたかも社会研修かなにかのような口振りが、デートの誘いであることはその場の全員が理解した。
「わあ、宗兄さま。素敵です」
同席していた夜一郎の妹が、軽やかな声で言う。話を持ち掛けたのは籠屋邸の晩餐の席でのことだった。彼女は躊躇いなく宗を兄と呼ぶ。勿論その事実は宗をいつも上機嫌にさせた。
「わが家にももうじき桜が来ますものね」
彼の耳は確かに彼女の楽し気な声を拾った。だがその意味は脳に届く前に重大な交通事故を起こす。
「桜が“来る”?」
思わず、そのまま聞き返す。その困惑を読み取って夜一郎が曖昧な声を出した。
「うん……、前の家からね」
「ほう?」
先を促す宗のまなざしは厳しく、それから逃れる術を夜一郎は持っていなかった。
籠屋邸の庭に巨大な重機が轟音を立てながら登場した。
「こっちにお願いしまーす!」
春の日差しに照らされて夜一郎は満開の笑みだ。正真正銘、その表情は宗の求めていたものではある。しかしシチュエーションは想定とはなにからなにまで違っていた。もとより妄想ほど静かで人払いのできる桜の名所など現実にはないことはわかっていたが、ここまでの騒音に包まれて目にするなんて思いもしない。
力自慢の屈強な男たちが続々と目の前を通り過ぎていくのを宗は幅広の麦わら帽子の下から見送った。夏を前倒ししたかのような陽気を気遣って、夜一郎から手渡されたものだ。彼がすんでで立っていられるのはこの日除けのおかげだろう。でなければいまごろ眩暈を起こしていたのは確実だった。
曰く、異国で暮らしていた際、ある伝手から桜の苗木を譲り受けたのだという。「桜が来る」とは「丸々移してくる」という意味だったのだ。青々と葉をつけた木が重機によって運ばれてくる。どうやら問題なく予定通りの一角に収まりそうだと分かると、夜一郎は表情をやわらげた。麦わら帽に軍手とスコップを手にした彼の装いは完璧なガーデニングスタイルだ。
「君に園芸の趣味があったとはね」
半ば感心する気持ちで宗は言った。基本的に彼がつねに忙殺されているのは知っていたので、それは意外なことだったのだ。
「正確には、これからそうなるかもしれないってところかな」
籠屋邸の庭園は個人の趣味の範疇で管理できるような広さではない。引っ越してきた桜の木を見る限り、異国にあったという家もそうだろう。本来は専任の庭師の仕事だ。いま広がっている庭だってプロの手でしっかりと整えられていることは明らかだった。
「桜は皆さんに任せるとして、俺も試しに種を蒔いてみようかと」
そう言って、夜一郎は立派な庭からは少し離れたところに置かれた花壇に目を向けた。そこにはまだ何の植物も植えられていないが、用意されたふかふかの土からは庭師が家主のために気を利かせたのだろうことが窺える。
「土いじりなんて、僕が好まないだろうって?」
日々を効率的に過ごすことに追われている夜一郎の生活からすれば、趣味を持とうとしたこと自体が非常に良い傾向だ。だったら隠す必要なんてないものを。宗の疑問に言葉を濁らせたのはつまり彼に気を遣ったということだろう。それが事実であっても、除け者にされたようなのは気に入らない。
「ふふ、ごめん」
含み笑いで返されると自分が拗ねていることが浮き彫りになるようで、宗はむむと相手に目を向ける。
少し視線を下げた先の夜一郎は大事なものに触れるような繊細な手付きで宗の手を取ると、その白い肌に軍手を嵌めた。ごわつく生地が直に纏わりつくのは不快な信号を宗の脳へ送ったが、それを気にする間もなく彼の手は離れていった。
「きみを避けたわけじゃないよ。こういうのは俺にとっても初めてのことだし、」
それなら余計に包み隠すことはなかったろう。宗は内に湧いた不満を飲んで、「別に、もう構わないのだよ」とだけ返した。
それよりも今は、お揃いのように見える帽子といい、もしやこれが彼との初めてのペアルックになるのではなかろうか、というのが気になっている。当然認めがたく、宗はそこからなんとか目を背けた。
非難がましい視線が消えたところで、ひと安心した夜一郎はいよいよ花壇へスコップの切っ先を立てた。興味津々の様子は傍からすれば十分に趣味として機能しているように見える。
「あ、ミミズだ」
「ぎょおお!!?」
「……あ。ごめん」
思わぬ闖入に飛びあがった宗を夜一郎の気まずそうな顔が見上げた。庭師からの事前のレクチャーで、ミミズは土にとっては良い生き物と教わっていたためつい歓迎の声をあげてしまったのだ。にょろにょろした動きをもう少し観察したい気もしつつ、彼は小さなお客さんを花壇の隅に隠した。
それから二人は慣れない手つきで種を埋めた。出鼻をくじかれたのもあって、スコップを握ったきりで宗の視線はほとんど、作業に没頭する夜一郎に向けられていたが、それでも二人にとっては長閑な良い時間となった。
小一時間も経てば、桜の植樹のほうもある程度目途がつく。撤収作業に移りだす様子を尻目に宗はもう一つの疑問を口にした。
「あの桜はまだ花をつけていないのだね」
気候の異なる土地から運んできたからか、外の桜たちは遅くとも五分咲き程度にはなっているというのに、見たところその木は葉をつけるのみで蕾さえ見当たらない。
「見立てではあと一年か二年かかるらしい。きみに伝えなかったのは、それもあって」
宗だって、特段植物の生態には詳しくない。だが譲り受けたときには苗だったというから、ここまで背丈を伸ばすのにもかなりの年数がかかっているのが分かる。わざわざ海を渡ったくらいだ。持ち主から大事にされているのも明白だった。あまりの気の長さに宗は感嘆をもらす。
「確か、きみが国を離れたのが9年前だったね」
何となしに発された言葉に、夜一郎はぴくりと肩を震わせた。彼は宗相手に限ってつくづく隠し事ができない。
「まさか、そのころから?」
「う……、うん……まあ、そう」
気恥かしそうに言葉を濁してしまっては、その奥になにかが秘められていると教えるようなものだ。それが自分に関わることだと、宗の観察眼は目敏く見抜いていた。
「きみの色によく似てるから」
宗の脳裏に、幼いころに別れたばかりの彼の姿が浮かぶ。異国の地にも桜はある。小さな彼がそれを見ては自分のことを思い出していたのだろうと。その寄る辺ない姿を想像したが最後、宗はもうだめだった。
「俺重いかな!?重いよね! ほんと、あー、もう……忘れて」
幅広の帽子の下で宗の胸中がどこまで乱れているかなんて知らずに夜一郎が喚く。可哀そうに、いくら願ったところでさっき浮かんだ光景が宗の心から消えることはないだろう。たしかな確信を持ちつつ、来年こそはこの庭で彼と桜が見られるようにと宗は祈った。
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