宗が夜一郎を認識しはじめたのはいつだったか。それはいまとなっては明確に思い出すことができない。だが、それがどうあれ、窮屈な家と退屈な学校の行き来で一週間を終えるような、子どもであるがゆえの、そんなささやかな生活範囲に彼のような人物があったことはまさに幸運としか言いようがなかった。
互いに惹かれあったのは、夜一郎もまた宗と同じくらいに周囲の環境を窮屈に感じていたからだ。二人で寄り添っている間はそれらの憂いから解放された気分になった。
狭い世界に二人きりの、けして色褪せることのないうつくしい記憶たち……、
「ああ、夜一郎ならウチにも来たな」
淡い色の回想をぶった切って、鬼龍紅郎が言う。
宗にとってはもうひとりの幼馴染といえる立場の男だ。つまりそれは夜一郎にとってもそうということになる。自分との友情ほどではないにしろ、夜一郎と紅郎もそれなりに懇意にあったはず、というのが宗の主観である。つまりこの非常事態を共有できる相手というわけだった。
用向きもなしに宗が道場へ赴くはずもない。紅郎のほうも宗のそういうところは十分理解しているのですみやかに話を聞き入れる姿勢を取る。部活のほうもちょうどキリが良いタイミングだったので、全体に休憩の指示を入れるのも忘れない。
「お前留守にしてたのかよ? 会えなかったって残念がってたぞ」
紅郎の台詞を宗は睨みつけることで返す。彼の口振りは夜一郎との会話が成立したことを示唆していたからだ。それが宗には、たとえ勝手に居留守を使った身であっても非常に妬ましく思えたのである。紅郎のもとを訪れた夜一郎は斎宮邸を訪ねたときと同じように山ほどの土産を抱えてやってきたらしい。なるほど、部屋の一角に詰まれた菓子の山はそういうことか。宗は納得する。
「花は、贈られたのかね?」
「花?」
「いや、いい。大したことじゃない」
と、ついそんな問いが口をついて出たが、知らないのであればそれ以上の問答は無用だ。紅郎の怪訝そうな顔つきを眺め続けるのも不快なのでさっさと本題に入ることにする。こんな馬鹿げたこと、とても知られたくはないが、誰かの相談もなしにいまの状況が解決できるとも思えない。
Valkyrieの活動を細々ながら再開しだした宗の精神状態は一時期の塞ぎ込み切っていたころに比べかなり改善した。それがどんな用であれ、他人を頼ろうとすること自体が以前の宗を思えば奇跡みたいなものなのだ。そもそも心身ともに健康であったころを思い返しても、もともと他人に物を頼むことは毛嫌いする性質の男である。こうして自分を頼りにやってきた彼を、紅郎は彼なりに歓迎してやりたいと思っていた。
意を決した表情で、やっと宗が重苦しい口を開ける。そこから聞かされた内容に、紅郎は柄にもなく絶句することとなった。
「──ハァ!? それは駄目だろいっちゃん!」
「りゅ~……、鬼龍! 突然大きな声を出すんじゃない! 周りに聞こえたらどうする!」
「ああ、悪ィ、でもあいつマジか……」
宗から聞かされた内容はあんまりにも意表をついたものだった。
つまり、彼の幼馴染である夜一郎は同じく幼馴染の宗のことを女だと思い込んでいると。一体何を間違えたらそうなるというのか。確かに幼い頃の宗は今以上にか細く、泣き虫で、人形遊びを好むような少年ではあったのだが。まだ分別もついてない子どもの認識だ。宗に紛らわしい点があったのも分かる。しかし誤解があったことは仕方ないとして、それを今日まで訂正しなかったのは完全に宗の落ち度だ。それでいまになって慌てふためいているということも含めて。
「だから恥を忍んでこうして打開策を募っているんだろう」
自業自得の事態にありながら、宗は遥か上から物を言う。山より高いプライドを有する彼にしてはこんな態度でもかなり軟化しているほうなのだ。
「いや、正直に白状するしかなくねえか?」
素直な感想を吐き出すと、返答さえ無駄、とばかりに睨まれる。面倒だ。紅郎からすれば幼馴染同士の取り違えなど、大した問題とは思えない。でも宗にとっては違うのだ。そのことは彼の切羽詰まった表情からよく分かるので、面倒見がいい質の紅郎は結局宗を突き放すことができない。
「となると、お前が女に化けるか、女の代役を立てるかのどっちかだな」
「それは僕も考えたのだよ。だがどちらも現実的とは言えないね」
紅郎の案を一蹴しながら、宗は憂い顔を見せる。彼は一から十まですっかり本気で、馬鹿げた話をしている自覚さえないらしい。女装に踏み込むほど血迷ってはいないことに安心しながら、紅郎は考える。いくら宗の好みが少女趣味で線が細い方とはいえ、女になりきるのは無理がある。少女と間違われてたというころからは背丈も随分と大きくなってしまった。
「見た感じいまの夜一郎より斎宮のほうがでかそうだったしな」
「全て忌々しい二次性徴のせいなのだよ……!」
紅郎が昨日会ったばかりの幼馴染の記憶を思い起こしながら言う。すくすくと育った二人と比べ、夜一郎はそれほど縦には成長しなかったらしい。
とにかく、その方法が色んな意味で難しいとなると、やはり残された手段はひとつしかないと思うのだが。女の代役。そう考えたときに思い当たる先は、残念なことに宗にも紅郎にも一人しかいないのだ。
翌週末。その日も天気は晴天だった。青々とした空のもと、夜一郎が朗らかに笑っている。根拠は何もないのだが、彼の笑顔を見ていると、この数日の気候の穏やかさは彼が連れてきたもののようにも思える。反して宗の心は曇天そのものだった。悪化するいっぽうの顔色で目線の先の、談笑する一行をじっと見ている。
「なんだか二人とも見違えたなあ!」
「お前はあんまり変わらねえけどな、夜一郎」
紅郎がしみじみと呟くのを、宗は遠くから睨みつけた。いまはひとことだって余計な話題は命取りになるからだ。
「二人が同じ学校に通っているというのも全く知らなかったよ」
宗の視線の先には、今日も和装に身を包む夜一郎と、紅郎、みか、そしてプロデューサーの彼女が仲良く喫茶店のテーブルへ集っていた。
「みかくんも。この間は突然お邪魔してしまって。また会えて嬉しいよ。そうかあ学校の後輩だったのかあ」
「あ、あう。おおきに……?」
みかの態度がたどたどしいのは仕方がない。彼と夜一郎は元からの知り合いではないから、多少挙動不審であっても些細な問題だ。いや本音で言えばみかにも完璧な振る舞いをさせたいところだがそれは高望みというものだろう、と宗は珍しく妥協する。それよりも気にすべきところは紅郎と彼女が襤褸をださないかだ。
向けられたにこやかな笑みを、淑女・宗役の彼女は口を噤んだままただ微笑み返す。そうだ、それでいい。彼らからは後方にある、夜一郎から死角となる位置の席で宗は見守り続ける。
紅郎と宗が助っ人として白羽の矢を立てたのは学院のプロデューサーである少女だった。夢ノ咲、特にアイドル科周りはその特性からほとんどが男子校のようなものだ。紅郎の妹に頼むという案は出す前に紅郎本人からNGが出たし、(そもそも年齢等を差し引いても、鬼龍家の人間を代役として連れていくのは色々と無理がある)いくら宗がプロデューサーに対して当てつけめいた確執を覚えていたとしても適任がいないのであれば背に腹は代えられない。
つねに複数のユニットの世話を焼きつつ多忙極まる身であるはずなのに、それを少しも顔に出さない彼女は、宗の人に物を頼む態度とはとても思えない依頼に、数秒驚いたのち、快くそれを了承したのだ。その返答にほっと息をついたのは一瞬で、そこから宗による『淑女・斎宮宗』の詳細な設定の作り込みが始まった。軽く講演一つ分くらいはある厚みの台本を手渡されているプロデューサーを見て、紅郎はこの頼み事を受けたことを早々に後悔した。
「──して、この店は斎宮くんが選んだのかのう?」
「そうとも。奴らのセンスに任せていたのでは完璧な僕のイメージが損なわれかねないからね!」
視線の先に集中するあまり、自分自身に近づく気配を宗は感じ取ることができなかった。自然と返事をかえしてからはたと気が付く。
「れ、零っ!?」
「れいだけじゃないですよ~」
予想外の出来事に全身を震わせてあたりを確認すると、夢ノ咲の連中……宗にとってはけして浅からぬ仲の四人衆が一人残らず雁首そろえてそこにいた。無論ここは学院の外、こうも顔ぶれが集まるのは意図的でなければありえない。いまは片時だって視線の先から意識を逸らしたくない宗だったが、面子が面子である。渋々と顔を一行に向ける。
「何なんだね、次々と……!」
「へえ。あれが宗にいさんの特別なヒト?」
苛立つ宗の問いには応えずに、マイペースな連中は思い思いにぞろぞろと着席しだす。いずれもきらびやかな見目の、とにかく目立つ面子だ。アンティーク調の備品で構成された喫茶店内は元からそう広い場所ではない。声を荒げたい衝動を宗は必死に抑え込む。いまここで自分の存在がばれてしまえば計画が水の泡だ。
「……情報を漏らしたのは一体どれだね……?あの頭に綿の詰まった案山子か?武骨で粗雑な乱暴者か?それともとぼけ顔の小娘か……!?」
──ああ、やはり世の中裏切者ばかりだ。他人の手なんて借りるんじゃなかった!
四人分のにやけ面を見れば分かる。これは事情を全て承知の上で来ている顔だ。この旧い友人たちにはなんとしても知られたくなかった。宗はあまりある羞恥で憤死寸前だ。そんな彼を置き去りに、勝手にやってきた彼らはおのおの飲み物の注文まで始める。これは完全に居座る気だ。
「……この間会ったときも思ったが、前は着物なんて着てなかったろ? 趣味が変わったか?」
血が上りきった頭に、対岸の団欒が届く。宗の心配をよそにあちらは存外うまくやっているようだ。紅郎の疑問は宗も気になっていたところである。彼の召物は上等な生地が使われていることは窺えるものの、その色合いはかなり落ち着いている。というより地味だ。欲を言わせてもらうなら、もう少し着飾ってもいい。衣裳のこととなると指先がうずうずしてくるのは宗にとってもはや本能だ。いまはその欲望をぐっとこらえ、聴覚に神経を研ぎすます。
「うん。そうやってよく目立つだろう。仕事柄、いかに印象に残るかということを考えたらこうなったというのかな。いまはすっかり着慣れてしまったから単に好きで着ているんだけどね」
仕事という言葉に、プロデューサーとみかが大袈裟な反応を見せたので、宗は後方から鋭い視線を浴びせる。
夜一郎は宗や紅郎とは同い年であるが、育った家が特殊なためとっくに教育課程を済ませた社会人なのだ。しまった。淑女・宗の設定だけでなく、夜一郎の人となりもしっかり説いておくべきだった。いまさら後悔しても遅い。紅郎だけはそのあたりの事情を弁えているはずだ。いまはあれに頼るしかない。
「でもみんなの制服も、とってもかわいいね」
そんな心配をよそに、夜一郎は三人を眺めてそんな感想を告げる。彼の言う通り、授業があったわけでもないのに三人は揃って制服を着ていた。宗の指示だ。他人を演じるにあたって、身に付けるものは重要な要素である。その点、制服なら個人差はでない。
由緒正しい爽やかな青のブレザーを、しっかり折り目のついたプリーツスカートを、夜一郎はかわいいね。と笑いかける。
宗にはそれが何故だかひどく印象深く心に残った。夜一郎の言葉はおだやかに続けられる。
「みんなで揃いの服を着て、揃いの教育を受けるわけだね。そういうのってちょっといいよね」
微笑を浮かべたまま、夜一郎は目を伏せた。その瞼の裏には一体どんなことが思い浮かべられているのだろう。いまはそれを知る術はない。
「……お前は自由にやってんのか」
紅郎がそんなことを問うたのは、まるで宗の気持ちを汲んだかのようだった。彼もまた(宗ほどの仲ではないにしろ!)夜一郎の幼馴染なのだ。
「もちろん! こうして帰国できたのがその証明だよ。これからは日本を拠点に考えていてね、しばらくはみんなに世話になることもあると思うから、是非よろしく頼みたい」
みかの予想通り、夜一郎は当面日本にいることを考えているらしい。それは自分の存在を隠し通したい宗にとっては歓迎できないことのはずだ。しかしそれを聞いた彼の心にはそんな損得を度外視した喜びが芽生えていた。なにしろ、幼少期に別れたことだって彼の中で全く納得がいっていない、忌まわしい出来事だったわけだから……。
かつてのことを懐かしみ、宗の気が瞬間緩んだ。だから、こちらの席から立ちあがった背が、向かいの机へ突撃していくのを止めることがかなわなかったのだ。
「ッああもう我慢できない……!! 夜一郎さんはじめまして! 私、日々樹渉と言いまして、宗の旧い友人をしております!」
(わ、渉ーーーッ!!!!)
トレードマークともいえる美しい髪を靡かせて、渉が飛び出していった。
あまりのことに、絶叫しそうになった自分の声を宗はすんでで抑えこむ。危ないところだった。店内で喚き散らしては、計画の破綻どころか、ここら一帯に二度と足を踏み入れられなくなる。
フーッフーッ、と興奮しきった猫のような唸り声をあげながら向かい側を見ると、紅郎も、みかも、プロデューサーも唖然として固まってしまっている。アドリブどうこうの騒ぎではない。あのメンバーで渉と即興の寸劇を演りあうのは明らかな役不足だ。突如現れた男の変態性を知らない夜一郎だけが普通の顔をして渉を受け入れている。
「はじめまして。友人に偶然会えるなんて、宗ちゃんは幸運なひとだね!」
何が嬉しいのやら、満面のにこにこである。実際は幸運どころか大事故もいいところなのだが。しかし渉の勢いは誰にも止められない。
「夜一郎さん。あの籠屋グループの現取締役とお見受けします。お会いできて光栄光栄! 私、あなたの会社の絡繰り箱が大好きでして!」
「やあ随分古いものをご存知ですね! そうやって知っていてくれるのはこちらこそ大変嬉しいことです」
即興劇のようでいて、渉の言うことは全て整合性が取れているのだから侮れない。初対面の夜一郎とほんの一瞬で打ち解けてしまった。
「はい。 今年から本社を再び日本へ移すとのことで。××市で建設中のビルがもうじき完成するそうですね。オフィスとしてだけでなく、エントランスでは一般客向けの商業スペースも設けられるとかで!」
「驚いた。何から何までその通りです」
あらかじめ考えてあったような台詞たちがすらすらと出て行っては消えていく。夜一郎の反応を見て、渉はいつもの胡散臭い、しかし満足そうな笑みをこぼす。
「宗! どうでしょう。オープン記念の客寄せイベントを我々で盛り上げるというのは!」
──勝手に何を。
咄嗟に抗議の声をあげようにも、そう言いつつ渉が視線を向けたのは宗役を演じている少女のほうだ。そう。夢ノ咲が誇る敏腕プロデューサーである彼女。彼女がどんな反応を示したのかは言葉を発しなくてもわかる。振って沸いた仕事の話題に前のめりになって聞き入っているからだ。
焦りに焦った宗は、今度はみかに視線を投げかける。彼ならば拙いなりにも自分の思惑を察せられるはずだった。
「おれも……、またValkyrieでお仕事したい……」
(ああもう裏切者なのだよ!! どいつもこいつも!!)
後方に控える宗に対する遠慮を見せつつもみかもどうやら乗り気のようだ。やる気に満ち満ちた空気に囲まれて夜一郎も物腰柔らかくそれらを受け入れる。
「お仕事? 盛り上げてくれるってどういうことだい?」
「おや。どうやら私たちの属する学院のことは宗からお聞きになっていないようですね。ならば不肖、この日々樹渉が語って聞かせましょうとも!」
転がりだした石が、見る見るうちに加速していき、もう宗には止められない。宗の頭はとっくにキャパオーバーでいまにも火を噴きかねない状況だ。
「ああ。宗にいさん、これは腹をくくるべきダ」
隣で夏目が軽々しい声で言うのすら、もはや聞き取ることができていなかった。
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