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 手を引かれて入り込んだ空間の、深い暗闇を見上げていたせいで、幼い夜一郎は何かに膝をぶつけた。思わず、あいた、と声を上げてしまうと、宗の気遣わしげな声がやってくる。

「平気?」
「大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
 その声に夜一郎はすぐに背筋をしゃんと正して応えた。父母からどう言われようとそれほど気に留めたことのない夜一郎だったが、宗にだけは情けないところを見られたくないと思っているのだ。そんな幼な子の小さな意地を、同じ背丈の相手は気がつかない。
「気をつけて。いま、明かりをつけるから……」
 そう言って宗は手に持っていた懐中電灯を床に置いた。夜一郎とは違い、勝手知ったる歩みで光源から離れていく。子どもが持ち歩ける程度の懐中電灯では部屋を照らすには頼りない。夜一郎は宗の歩いていった先を見つめながら、これから起こることへの予感に胸をはやらせていた。

──秘密の場所へ連れていってあげる。
 宗からのお誘いは突然のことだった。
 しかし、他の誰にも聞かれないように、ひっそりとされた耳打ちは夜一郎を一瞬にして強く惹きつけてしまう。
 子どもって、秘密めいたことが好きだ。そしてそれを誰かと共有することも。互いに小さく微笑みあって、連れられるまま夜一郎は斎宮家の門をくぐった。その邸宅の離れにある大きな石造りの蔵。それこそが宗の秘密の場所なのだった。

 少しして、宗の姿が暖かい光に照らし出される。特徴的な優しい色合いの髪に暖色の灯りが付け加わって……、幼い夜一郎はものを形容する言葉を多く知らない。それでもその光景はとても綺麗で、少しも目を離すことも叶わず見惚れきってしまった。
「こっちにおいでよ」
 動かなくなってしまった夜一郎を変に思ったのか、宗が声をかける。橙色の光を映す瞳が自分に向けられると、きゅっと胸が詰まってしまい、夜一郎は頑張ってお喋りを続けた。
「すごい。それ、ランプ?」
「うん。火傷するといけないからあまり近寄ったらだめだよ」
 確かに、それは近づくとほのかに暖かい。宗はガラスの中に閉じ込めた光を手頃な机に置いた。光源が増えたことと、目が慣れてきたおかげで部屋の全貌が見えてくる。壁一面の棚、箪笥、ショーケース。少々乱雑ではあるが、そのどれもにびっしりと物が収まっている。夜一郎の背よりも高く積み上がったそれらは一目しただけで壮観と言えるものだった。

「わあ、格好いい……」
「格好いい?」
 思わず漏れ出た感嘆を、宗は不思議そうな表情で受け止める。おかしな感想だったのかも知れない。夜一郎は自分の言葉を取り繕うように無意味に口をもごもごさせた。
「いや、いいんだ。少し意外で。僕はそういう風に思ったことがなかったから」
 どうやら宗は気を害したわけではないらしい。
 大人に合わせていい子ぶったり、同年代に合わせて言葉を選んだりとか、そういうのは疲れる。夜一郎にとって宗は遠慮も容赦もなしに話すことができる相手だった。そしてそれはきっと相手にとってもそうで、だからこそ宗は夜一郎をここに連れてきてくれたのだろう。

「見たことないものがたくさんあって、宝箱みたいでどきどきするね」
 と言う夜一郎の爛々とした瞳も、ランプの穏やかな光が照らす。ここにあるものの大半は小学生には正体がわからないものばかりだ。古い絡繰りの計測機や地球儀、分厚い洋書の背、きらめくガラス玉の瞳をしたお人形。それらを宗の感性では美しい、と思うのだが。
 でも、どきどきするという点に関しては宗も同じ気持ちだった。いつも一人で眺めるだけだったのが、いまは彼が隣にいる。それを思うと、余計に。

「何か気になるもの、ある?」
 落ち着かない心を悟らせないように、宗は少しぶっきらぼうな声色で言う。するとそんな思惑通りに、夜一郎はきょろきょろ辺りを見回した。やがてその目に止まったのはケースの中に収まった臙脂色の小箱だった。銀色の金属で細かく装飾されたそれは見るだけでも美しいものだが、箱の中にさらに箱が入っていると言うのが夜一郎の目には不思議に映ったのだ。

 彼の視線を追った宗はすぐにその箱を取り出して見せる。
「ああ、これはね……」
 夜一郎の目線が自分に注がれていることを横目で確認すると、幼い手に収まるほど小さな箱の裏側を数回指先で擽ぐった。のちに帝王の音楽を奏でるために使われるはずの指を、いまは一人の少年を楽しませるために動かす。
 すると、開かれた箱の中からガラスで作られた小鳥が顔を出した。それと同時にそこから覗く金櫛が旋律を奏でだす。
「オルゴールだ……!」
 金色の円盤に合わせてガラスの鳥もくるくる回る。きっとさっきの宗は発条を巻いていたのだろう。夜一郎は咄嗟にあげた感嘆を両手で抑えた。わずかな話し声でさえ、オルゴールの音色を妨げてしまう気がして憚られたのだ。

 自分で動いてくるくる音を奏でる歯車が不思議で、夜一郎は夢中になってそれを覗き込む。それは宗も同じだったらしく、ごく自然と二人分の頭は寄せ合うようになる。目線をあげると想像していたよりも間近にお互いの顔があって、それがおかしくて笑い合う。

(なんとなく、ずっと一緒にいるものだと思っていたんだよな)
 と、夜一郎は回想する。
 だが現実はそのはずもなく、初めて斎宮家の蔵に招待されてからたった数ヶ月で彼は日本を離れてしまった。子どもは自分自身の居場所を決められない。それを思い知った彼は、誰よりも早く大人になることを望んだのだった。

『──この良き日を飾るのにぴったりのショーでした!』
 頭上から高らかな声が響く。夜一郎の真上にあるのは巨大な飛行船だった。今の時代なかなかお目にかかれない大袈裟な飛行物体をマイク片手に操るのは、日々樹渉。あんなもの一体どこから調達したのだろう、と夜一郎が今回のイベント担当チームを見ても、そこは驚きやら何やらで困惑の表情など浮かべて皆一様に首を振るだけだ。

「日々樹め、全く以って度し難い」
 ステージを降りた敬人が眼鏡の奥の瞳を歪ませる。

 今日は籠屋グループ本社ビルのオープニングイベント当日だ。始まる直前まで、諸々の引き継ぎ業務に追われていた夜一郎はイベントの企画運営は部下と夢ノ咲学院に任せきりになってしまった。なので紅郎の所属する紅月のメンバーに会うのも今日が初めてだ。

「素晴らしかった! 今日は来てくれて有難う!」
 彼らのパフォーマンスを見た夜一郎はすっかり興奮しきって身を乗り出した。紅月を率いるリーダーは飛行船から視線を外し、厳格に頭を下げた。
「こちらこそ。本日はこのような場を与えてくださり、感謝申し上げる」
 敬人のすぐ後ろで、彼らの後輩であり、メンバーの颯馬も同じくお辞儀をしてみせる。

 紅月のコンセプトは純和風だ。まるで舞踊を思わせる振り付けと、きりりとした出で立ちは海外生活の長い夜一郎にはより一段と魅力的なものに映る。特に曲の合間に颯馬が模造刀で披露した殺陣は素晴らしかった。
「はは、社長殿。これは真剣であるよ」
「ん?」
 夜一郎の賞賛を受け、颯馬は少々気恥ずかしげにはにかんで見せる。
 その表情も大層魅力的だが聞き逃してはいけない言葉が吐き出された気がする。夜一郎がイベント担当チームに再度目を遣ると、今度は静かな首肯が返ってきた。そういうものなのか。日本に武士はいたんだな……。

「お前マジで今回が初見なんだな」
 一連のやり取りを見ていた紅郎がやっと口を開く。その顔は一試合終えたかのような爽やかさに満ちている。
「紅郎! 君も素敵だった! かけっこで一番をとって女の子から大評判だったのを思い出すよ!」
「馬鹿、いつの話だやめろ」
 そんな子どもの頃を引き合いに出されても困る。当然紅郎は顔を顰めるが、夜一郎にとってはその辺りで彼らの記憶が止まっているのだから仕方ない。夜一郎だって立場は同じはずなのに、つい昔を懐かしみ瞳を和ませてしまう。
 紅郎の言うことは尤もで、本当はもっと企画側として尽力すべきだったのだが多忙で敵わず。ただでさえアイドル文化に詳しくない夜一郎はすっかり観客目線でイベントを楽しんでしまっている。
「どうもタイミングがね。夢ノ咲側がイベントの運営慣れしていて助かった」
 屋外に設置された会場を眺めると、やはり観客には若い女性が目立つ。紅月の盛り上げた空間は興奮冷めやらぬ様子で未だざわめいていた。
 その熱気が、突然どよめきに変わる。呼んでもいないのにいつの間にか進行役を買って出た渉の空中アナウンスが響いた途端、だ。

『さて、続いて舞台に上がるのはValkyrie! かつての帝王の凱旋劇をご覧あれ! 皆さんは偉大な歴史の立会人となるでしょう!』

 Valkyrie。その名が会場の空気を変えた。その戸惑いが地続きの夜一郎にも確かに伝わる。
 舞台の幕開けが告げられると、あれだけ騒ぎ立てていた渉の声も静かに消えていく。

「その、なんだ。気をしっかり持てよ」
 夜一郎の隣で、告げられた紅郎の言葉は警告、そしておそらくある種の鼓舞だった。
「ま、お前はそんな心配はいらねえだろうってのは分かってんだ。問題はあいつだな……」
 やがてその声すらも消えていくと、舞台に一筋のスポットライトが差す。もはや会場で、声を漏らす者は誰もいなかった。大勢の注意をたった一点が集めきっている。

──静寂は破壊された。まるで定められたことのように音楽が奏でられる。

 舞台に立つ影は二つだ。奏でられた弦楽器の独唱はやがて一人の男との二重奏になる。
 一歩前へ出た少年が喉を震わせ、歌を紡ぐ。彼が腕を広げ立ち回るたび、光源に反射して一揃えの瞳がきらきらと光る。宝物のようにきらめく深い瑠璃色と琥珀色は、夜一郎の郷愁に強く訴えかける。

 これを知っている、と夜一郎は確かにそう思った。しかしその思考の間も無く、もう一人が光の中へ現れる。高い背丈の彼が歌い出すと、場は完全に支配された。
 全ての音が寸分の狂いなく織り込まれていく。重厚な音の合わさりは威厳に満ちていながらどこか甘やかだ。激情のごときパフォーマンスと細部に表される繊細さは完璧に表現されたアンバランスであり、鑑賞者の隙をたとえ一瞬たりとも許さない。

 当然、夜一郎の意識も舞台上の表現者たちへピン留めされたかのように動かすことができなくなっていた。
 黒髪の彼が傅くように、観客を煽動していく。それを操るのはもう一人の彼だ。彼の動きは単なる舞台演出の枠を超えている。彼の陶酔が、観客を酔わせ、彼の世界へと誘っていく。
(ああ、でも。ひどく、懐かしい。)
 彼らの芸術は劇薬のようですらある。それに引き込まれていきながら、夜一郎の身体が心地よさに包まれていたのは、やはり彼の原体験が関わっているのだろう。そう、舞台上の彼と夜一郎は同じ過去を共有しているのだから……。

 永遠かのように思われた旋律が終幕を迎え、また静寂が訪れた。
 どうしたことか、渉の過剰なマイクパフォーマンスも降ってこない。観客の視線を浴びたままValkyrieの二人はその中心に立っていた。

「……帰ってきてくれましたね、宗」
 飾り気なく語りかける声色が、ふと夜一郎の耳に届く。
 先刻前まで空中を漂っていたはずの渉がいつの間にか夜一郎の傍で満足げに微笑んでいた。ハッとなった夜一郎と目が合うと渉は今度は悪戯っぽい眼差しを滲ませる。
「ああ、目を離しちゃいけませんよ。ほら、もうすぐ貴方の出番です」
 そう促され、再び舞台へ目を向ける。舞台へ立ち続けていた片方がそのバランスを崩した。彼を保たせていた気力が一気に切れたのだろう。崩れ落ちる身体をすぐそばの黒髪の彼が反射的な動きで支え直した。倒れた男はそれにぐったりともたれ掛かり、少しも動かない。

 会場にどよめきが返ってくる。その喧騒に逸り、夜一郎の脚も舞台へ駆け出した。