宗が目を覚ますと、そこはいつもの自室だった。締め切られたカーテンが一切の光を遮り、時間感覚を奪っている。
嫌になるほど覚えのある空間だ。静寂の中、自分の呼吸音だけを感じながら目蓋を閉める。ついさっきまでのステージ上の強烈な光が網膜でまだチカチカと明滅している気がして、宗は枕に頭を埋めて強すぎる光から逃れようとする。いつの間にか逃げ癖がついているのを自覚するとそれはますます自分を追い込む結果になってしまう。
こうして真っ暗な自室で身を丸めていると、先ほどまでの舞台がまるで嘘のようだ。宗が舞台に立ったのはほとんど騙し討ちのような形ではあったが、それは彼にとって言い訳にはならない。壇上を降りる前に意識を失ってしまったのは全く以て不覚だった。
『でも、みかちゃんとしっかり練習したおかげでライブは成功だったわ?』
どこからか少女の声色が言う。曲がうまくいっても、お客様の前で醜態を晒してしまったのでは台無しだった。
ここまで自分を運んだのは影片だろうか?意識を手放す間際に血相を変えて駆けつける色違いの瞳があったのを覚えている。
「……催しはどうなったのだろう」
パフォーマンスの合間にこちらへと注がれる視線。夜一郎の眼差しは宗のずっと焦がれていたものだった。高らかに歌い上げる姿こそが現在の斎宮宗だ。それを見て彼はどう思っただろう。
『おかしなことを気にするのね』
「おかしなことだって?」
『だってそうじゃない。ここで芋虫みたいに蹲ってる宗くんが彼のこと心配するなんて、烏滸がましいと思わない?』
ぎくり、とした。彼女の言うことは正しい。少なくとも宗はいつもそう思っている。防衛本能が働くと物事を捻じ曲げてしまう質(たち)の宗とは違って、彼女の硝子の瞳は一点の曇りも許さない。
帰国とともに会社ごと丸々連れてやってきた夜一郎。あの年齢で組織のトップに立つのは果たしてどれほどの苦労がいることか。それでも彼はやってのけたのだ。そんな彼の門出に、自分の、Valkyrieの音楽を捧げられるならどんなに素晴らしいだろう。いや、それを務めるのは自分たちを置いて他にない。しかしそれは自惚れだったんだろうか。
あの場には紅郎の紅月だけでなく渉もいた。僕ら二人が途中退場しても進行に問題はないだろう。頭の理性的な部分がそう考えて、虚しくなる。
再び深く沈みこんで自己嫌悪をやり過ごそうとした彼の耳に、ふと控えめなノック音が届いた。一寸の隙間なく閉じられた扉を叩く音だ。宗の脳裏にみかの心配そうな顔が浮かぶが、彼はノックなんて高尚な行為を知らないはずだった。耳元でざわざわと宗を詰っていた声が止む。
しかし彼の愛するお人形の言う通り、すっかり木偶に成り果ててしまったらしい身体はろくに返答もできない。それでも外の気配に立ち去る素振りは感じられない。どころか、息を潜ませてこちらへ入室してきた。新鮮な外気がわずかに宗のもとまで届く。
まさか。気配の正体に思い当たってしまい、宗の心は焦る。それなのに顔は枕に埋めたままで動けない。
気配はベッドに伏せたままの宗の傍で歩みを止めると、どこか一点へ視線を向けてわずかに呼気を漏らした。この空間で彼の注意を惹くものは一体なんだろう。生まれた疑問のままに宗はやっと顔をあげた。
運命的に目と目が合う。籠屋夜一郎その人が、腕を少し伸ばせば届くような距離で宗を見ていた。
はくり、宗の喉から音にならない声が湧いて出る。言わなければ、なにか。
「あ、あの」
「宗ちゃん、ごめんなさい!」
漏れ出るだけの宗の声を上回る音量で、夜一郎の台詞が被さった。
彼は窓辺の花瓶に向いていた身体をくるりと宗のほうへ向ける。ここは宗の自室だ。そこになにが飾られているかくらいは自ずと察せられる。夜一郎にもそこへ生けられているのが自分が贈ったものだとすぐに分かったことだろう。それに気が付くと余計、宗はどんな文句を吐けばいいのか分からなくなってしまう。混線極まる思考を紐解くのに必死の宗を前にして、夜一郎は更に懺悔を続ける。
「性別を間違えていただなんて俺はいままでなんて無礼を、ずっと嫌な想いをさせていただろう。その上こんな無理をさせてしまって、申し訳ない、本当に、ごめ」
「落ち着きたまえ! 大体、君が謝るのは道理がおかしいのだから!」
堰を切ったように流れてくる謝罪の波に、思わず宗は叫び返す。すぐに声を荒げてしまうのは悪い癖だ。しまった、そう思ったころには時は遅く、夜一郎はもともと丸い目を更に丸くして黙り込んでしまった。
「その、まず、これはいつもの低血糖だろう。騒ぎ立てるほどのことじゃない」
「う、うん。それと過緊張からくる貧血だってお医者様が」
夜一郎はいくらかトーンを抑えた声でそう言った。二人の間を沈黙が支配する。横目で掛け時計を確認すると、時刻はもう夕刻だ。三時間くらいは眠っていたことになるだろう。
「聞いたよ、今日のために無理を押してくれたって」
先に口を開いたのは、やはり夜一郎の方だ。だんまりの宗を慮って彼がぽつぽつと語るには、会場はあの場にいた他の人間やプロデューサーに任せたため滞りなく終えられたのだという。皮肉なことではあるが、夢ノ咲にいれば急なトラブルへの対処も手慣れたものだろう。加えて紅郎やみかなどは宗の健康状態については第一人者と言って差し障りがない。
「……影片はあの場に残ったのか」
慌てふためくみかの顔を思い浮かべながらの宗の言葉に夜一郎は首肯する。突如倒れた宗に一番動転してみせたのは間違いなく彼だ。しかしそこは宗の日ごろの教育の賜物。彼が倒れたとあっては、Valkyrieこだわりの特注の演出道具や手製の衣装の回収が出来るのはみかだけだ。
「うん、しっかり家まで持って帰るから心配しないようにと言付かっているよ。それと彼から飴をたくさん預かってきたからね」
「……。」
言いながら夜一郎は宗の枕元へ包装された飴玉をいくつか転がす。いかにもみかが好みそうな安っぽい柄の包装紙に宗の眉ははっきりと顰められたが、今度はお行儀よく文句を飲み込むことが出来た。いまはそんなことよりも言わなければならないことが山ほどある。ひとつ深く息をして、宗は言葉を絞り出した。
「夜一郎、僕たちはしっかり話をするべきだ。そうだね?」
その声は、宗には幾分か震えてしまったように思われた。実際にどう届いたかまでは分からない。夜一郎はよく喋る口を閉じたまま、ゆっくりと頷いた。
斎宮邸の廊下を二人は歩く。道中、家人に出くわすのではないかと内心ひやひやしていた宗の想いは幸い杞憂に終わった。彼の緊張を感じ取って、夜一郎もほとんど黙ったままでそのあとをついていく。
道すがら夜一郎は辺りの景色を頭の中と照らし合わせていた。記憶どおりのものと、見覚えのないものが入り混じるのは奇妙な心地がしたが、十年経ったところで家の間取りまでは変わることがない。なので、宗が自分をどこへ招こうとしているか夜一郎には分かってしまった。
話をするべき、と宗は言った。その顔色は蒼白で、本調子でないことは誰から見ても明らかだった。本当はまだ安静にしているべきだ。それでもなにごとか決心したような顔つきを前にすると夜一郎は二の句を告げられなくなる。
黙ったままで、きびきびとした足取りの彼を見る。実のところ夜一郎だって内心では大層混乱しているのだ。頭で納得したって、思い出の中の幼馴染と舞台上で高らかに歌い上げる彼、それと目の前の彼がうまく結びつかない。
「夜一郎」
すっかり成長した幼馴染はそんな戸惑いを見透かすような目を向ける。呼ばれるままに視線をあげ、また沈黙。心地の悪い気まずさが二人を襲う。
──ああ、良くない。一体なにしてる。
夜一郎は自分を叱咤する。なにしろさっきまでは問題なく会話が出来ていたのだ。万全でない彼に、これ以上の負担を強いるのは良くないぞ。
「気を付けたまえ。以前よりも入口が低く感じるはずだから」
一転して何も話せなくなってしまった夜一郎へ、宗の言葉がぶっきらぼうに届く。
夜一郎の想像した通り、二人が到着したのはあの懐かしき秘密の蔵だった。促されるままその扉を潜ろうとする夜一郎に向けて宗は声をかけたのだ。たったそれだけ。それだけの言葉が夜一郎の胸を大いにくすぐった。
「そう、そうだったね。俺、ここへ入るときはいつもあちこちぶつかって」
言いながら抑えきれないらしい笑みをこぼすので、宗はひどく驚いて夜一郎を見る。
「君、そんなことちっとも言わなかったじゃないか」
「だって宗ちゃんの手前そんなの恰好悪いと思ったから」
そう白状して夜一郎はまた笑う。もう、二人ともさっきまで感じていた緊張感はすっかりどこかへ行ってしまった。宗の顔色もだいぶん赤みが戻ってきたように見える。
それに一安心して、ようやく辺りを見る余裕ができた夜一郎は招かれた空間を改めて見上げる。宗の言う通り以前より天井の高さは感じない。しかしその様子は覚えていたときのものとは少し異なっているようだった。
「あれから時間を見ては自分なりに整理していたんだ、勝手ながらね」
夜一郎の疑問に的確に応えると、宗は手早く灯りを点ける。明度の低い優しい光だ。
ここがもっと雑然としていたのはとっくに昔のことで、いまは全てのものが収められるべきところへ収められているようだった。それはこの場所が何年経っても彼にとって大事なところだという証だ。彼の大事な宝物に囲まれて、どこかおもばゆいような面持ちで夜一郎はしばらく辺りを見回した。今度の沈黙は二人にとって少しも厭なものじゃなかった。
「昔ここへ二人で泊まったことがあったよね」
懐かしさに目を和ませながら夜一郎が言う。本当はそんなことよりもっと話すべきことがあるはずだが、その他愛ないお喋りを宗もとくに咎めたりしない。夜一郎の昔話には勿論宗も覚えがあった。
「ああ、君が渡米することになった前日に」
「そうそう。俺たち駄々を捏ねてここに逃げ込んで籠城したんだよ。翌朝見つかってうちの父母からも斎宮のお祖父様からも随分と怒られた」
思い返せば何て愚かで愛らしいできごとだっただろう。大人が決めたことに子どもが抗えるはずもないのに、それがあの頃の二人にとって精いっぱいの抵抗だった。大人たちに心配をかけただろうこともいまとなってはよく理解できる。
「いやあ、本当にあのときは悪いことをした。子どもってたまにストレートにすごいことをするんだよね」
「あのとき君を連れ出したのは僕だ、離れてしまうというのがどうしても信じられなくて」
「あ、そうだったっけ? でも同意で付いてきたんだからどちらが悪いということもないよ。それに、楽しかったし」
思い出し笑いの夜一郎と違って、宗は何か思うところがあるようだ。少し躊躇って、その一言を声に出す。
「ここ、電波が届かないんだよ」
ひどくばつの悪い顔で宗は告白した。
夜一郎はぽかんとしてスマホを取りだす。確かに画面の上のマークは圏外を表していた。夜一郎がそれを確認するかどうかという間で、宗の言葉は続けられる。
「思い返すだけで己の幼稚さに辟易するがね。勿論それを知ったうえで君を招いた。当時すでに君は携帯電話を持たされていたし、でも、その、ここなら絶対に見つからないだろうと考えて。だから君の親御さんは本当に心配して夜じゅう君のことを探し回ったはずなんだ」
その晩のことは宗にとっても忘れがたい記憶だった。だがそれを回想するには深い慙愧を伴うという点で夜一郎とは事情が違う。
祖父から譲り受けた蔵の鍵を大事にポケットにしまい、自分と同じ背丈の彼を自分だけのミュージアムへ閉じ込めてしまったような気になって。実際はそんなことができるはずもないのに、それも分からないような愚かしさ。今もなお燻ぶるおぞましい欲望を露わにさせて、罰を待つような気持ちで宗は夜一郎を窺った。
「へええ。流石賢いなあ。明け方まで見つからなかったのは宗ちゃんの機転のおかげだったんだ」
しかし当の夜一郎にはそんな葛藤の少しも伝わらなかったようである。心底気の抜けた返答をされると、素直に安堵していいものか宗にも分からなくなる。いつもの朗らかさをすっかり取り戻した彼は宗の負い目も、それこそ長年性別を誤解させたままであることさえも気にしていないように見える。
「夜一郎、しっかり聞いてほしい」
成長した幼馴染が想定よりもはるかにおおらかな人物らしいことを感じながら、けして彼が不真面目な態度で話をしているわけでないことを知っていながら、敢えて宗はそう言った。彼がどう思っていようと、今日この場ですべての罪は詳らかにされなければならない。
「僕は、君が僕の性別を誤解していることを承知でずっとそれを訂正しなかった。どころか、ここ数日は君のことを避けて……嘘までついて。君がせっかく僕を訪ねてくれたのに」
宗はお祈りを捧げる信徒のごとく懺悔を口にする。意地っ張りな彼だが、己を反省する気持ちは人一倍であり、それがぐるぐる胸中で渦巻いてこれ以上吐き出さないのは彼の性分的にも限界だ。
「つまり、……こんなことを言っても言い訳にすらならないことは重々分かっているが……、君から受ける無条件の情がどうしても手放しがたくて」
何年間も本当のことが言えなかったのは彼とのやり取りが失われてしまうのを恐れたからだった。
大切な思い出の美しい記憶さえもが、実は自分に与えられるべきものでなかったとされてしまうのが耐え難かった。それで相手を騙す結果に甘んじていたのだから返す返す醜悪な行為だ。この罪を断じてくれなければ宗の気持ちにも踏ん切りがつかない。
「宗ちゃん」
なのに性懲りもなく、彼はその名で宗を呼ぶ。ただそれが自分の身体の近いところから聞こえた気がして、宗はいつのまにか固く閉じていた瞼を開く。開いた視界の真ん中で懺悔の相手は宗の手を取る。熱い掌だった。
「まずね、俺は宗ちゃんが女の子だから手紙を書いていたんじゃないよ。俺の言葉はぜんぶ君に宛てたものだから失われるようなものじゃないし、」
はっきりとした物言いで、彼は言った。
あのころお揃いだった背丈はちぐはぐになってしまって、夜一郎に目線を合わせようとすると宗は首を下に傾けなければならない。
握る彼の手の熱からは宗を思いやり、いままさに彼が自分へ宛てた言葉を紡いでいることを実感させた。それが偽りでないという事実がなにより宗へ希望をもたらす。
「それに、」
しかし言葉の途中で夜一郎の瞳に翳りが生まれてしまう。それに。……一体なんだろう。
宗の心はこれ以上の浮き沈みにはきっと耐えられない。ああ、罰は甘んじて受け入れるのでどうか猶予はもらえないだろうか。縋るような気持ちに逆戻りして宗は息をひそめる。宗の心の審判者である夜一郎はそれが非常に言い難いことのように言葉を渋る。
「それにやっぱり、宗ちゃんへの誤解の件は俺のほうが悪いと思うんだよ」
触れる手の温度がみるみる上昇していることに気が付く。夜一郎は申し訳なさそうに、恥ずかしそうに、密やかな声でこう続けた。
「だって、他の誰もそんな馬鹿な思い違いはしてないじゃないか。君を女の子と思い込んで疑わなかったのは俺が、君のこと好きになっちゃったからで……」
最後の方はほとんど消え入るようで聞き取れなかったが、聡明な宗にはそれだけで十分だった。
夜一郎の羞恥は直接宗にも伝染し、二人はしばらく黙り込んだ。それでもやっぱりその静けさは厭なものなんかではないのだ。
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