宗の日々は多忙極まる。彼の率いるValkyrieは七夕祭を経て華々しく夢ノ咲の壇上──仇敵の糸引く舞台に立つなど、たったいっときですら業腹だったが──へと返り咲いた。
学院生活とアイドル活動の両方を再開したのだ、自室に塞ぎ込んでいたときと比べれば忙しいのは当然のことだった。宗は生粋の職人気質だ。自身の理想を追求して手仕事に励むのは彼にとってごく自然的なことで、創作の一切を休んでいた時期の方こそが異常事態だったのである。そんなものだから寝食すら惜しむように歌に衣装に演出にと頭を使うのも彼にとっては自然なことだった。つくづく極端な生き方しかできない性分なのだ。
夏服である半袖のシャツを身に纏いながら宗は学生という身分の煩わしさを思い出していた。とくに学院生活の大部分を占める授業時間など、聡明な宗には時間の浪費のようにしか感じられなかった。教室の席に座っている時間ぶん、彼の創作活動は遅れてしまう。宗は自他ともに認める天才ではあるがそれに胡坐をかいて授業をさぼるというような発想をしない。
であるので、その日も彼は帰宅するなり自室で製作活動に精を出していた。憑りつかれたかのように手仕事に没頭するのを斎宮家の者たちは心配げな目を向けたが、それでも宗の心持ちが数か月前とは異なっていることくらいは察しているようだった。
それに、宗の指先を動かすのは創作意欲だけではなかった。こうして締め切った部屋で勤しむ一種の瞑想行為は彼の精神に平静をもたらす。それを自覚しつつ彼はこうして裁縫道具と向き合っている。そうでもしていないと余計な雑念に飲み込まれてしまいそうで必死だったのだ。
あの日の、温かな灯りに照らされた夜一郎のかんばせを思い出す。幼いころに彼と別れてから、いつか自分の正体がばれたときにはこの友情は壊れてしまうのだと思ってきた。しかし予想された危惧はすべて彼自身によって払拭された。宗の長年のわだかまりを彼はすっかり笑い飛ばしてくれたのだ。自分を偽らずとも夜一郎との尊い友情に亀裂が生まれることはない。その事実は宗の中の僅かな、しかし確かに存在する自己否定的な翳りに光を送った。
にもかかわらず。ふと、宗の裁縫の手が止まる。そうだ。国境と誤解を乗り越えた二人の間には最早なんの隔たりもない。それにもかかわらず、宗は夜一郎の姿をあの日以来目にしていなかった。
どことなく睨みつけるような目つきでスマホが入っているはずの鞄を見る。便宜上持ってはいるが、宗のスマートフォンは基本的に役目も与えられずおざなりにされがちだった。
『連絡先を訊いておかないなんて、ドジねえ』
少女の声がいたずらっぽく宗を詰る。彼女の言うことはいつも正しい。でもそうと分かっているのなら教えてくれればいいのだ、と宗は不貞腐れる。
スマホを使ってのやり取りを宗はあまり好まない。味気ない活字と夜一郎直筆の手紙とではその価値は比ぶべくもない。だが必要に迫られてはそう理想ばかり言ってもいられないのが現実というものだ。簡易なメッセージのやりとりであれば忙しい夜一郎の立場でもできたかもしれない。詮無いことを悔いてしまうのは彼のあの日の謎めいた言葉のためだ。
全ての誤解を取り去ったのち、夜一郎は途端に小声になり言った。幼少の折、彼は物静かに笑う少年だった。再会してから頻繁に見せる快活な笑みは後天的に獲得したものに違いない。──君のことが好きになったから。と、そう言った夜一郎の声色は幼いころの記憶を呼び覚ますものだった。
思わずそのことを反芻すると、宗の裁縫の手はピタリと止む。これだ、これがあるから困る。無心になって何かに没頭しているうちはいいが、一度あの夜のことを思い出すと宗の頭は途端に夜一郎のことで占められてしまう。彼の言葉の真意をめぐり、ぐるぐると。
宗自身も、彼の自分に対する態度の端々に単なる友人関係以上のものが含まれていることを悟っていた。だからこそ性別が明らかになれば彼の自分への態度は変わるものだと考えた。君が好きだから。そう言って宗のすっかり男っぽく成長した手を包み込む彼。それは果たして過去の気持ちをただ確かめただけなのか。そもそも彼の言う「好き」に一体どれだけの意味が含まれているのか。アイラブユーやジュテームであるならまだしも、「好き」の内包するニュアンスは広い。考え始めると思考はどんどん深みに沈んでいってしまう。
……駄目だ、集中力が途絶えてしまった。とんと動かなくなった指で持っていた針を針山へ戻す。こんなはっきりしない気持ちを抱えたまま衣装製作などするものではない。宗は虚空に言い訳を立ててから速やかに眠る準備に移った。その様子を見ているのはお人形の瞳だけだ。
「宗ちゃん、おはよう!」
……翌朝部屋を出て、宗は驚愕に我が目を疑った。まだ夢でも見ているんだろうか。そんな心地で朝の廊下で出くわした人物を前にして言葉が出てこない。久々に再会した夜一郎は和やかに笑ってみせた。
「あっ、お師さんや! おはようさん~」
追って、斎宮家居候のみかがお行儀よく挨拶をする。見間違いでなければ、二人は宗が融通したみかの部屋の扉から連れだって出てきたのだった。
「どっっっ!!?? どういうことだね影片!!」
その言葉はほとんど脳を通さずに吐き出された。ぽかんとするみかに代わって、夜一郎が前へ出た。
「みかくんの部屋にお泊りしたんだよ」
と、あまりにもあっさりと彼は言ってのける。状況証拠が揃っているだけにそれは一切の疑いようがなかった。
「な、な、な!?」
打ち震える宗の意味をなしていない言葉を特別に訳すると、「なぜ、なんで、なにを言っている」である。
「あんなあ、夜一郎さんがValkyrieのこと知りたいって言うから、お師さんのこと知らへんまんまなんてそんな勿体無いことないわって思って……そしたらこの人プロジェクター持参でやってきて、」
「いままでのライブ映像とか色々とね、あとみかくんおすすめのゾンビ映画とか」
「そやねん、お師さんとゾンビ映画観る会しよ~って」
「ね」
口々にそう言って、いやに仲睦まじげに二人は顔を見合わせる。
「僕と、僕のValkyrieと腐った死体を一緒くたにするな……!」
宗がやっとのことで告げられたのはそんな文句だった。
「あ、それがね。最近はゾンビって言っても色々あるんだって」
「夜一郎……」
頼むからこれ以上腐乱死体の情報を寄越すんじゃない。大事な大事な幼馴染の名を、宗は懇願するような面持ちで口にした。
不要な情報が混じったものの、とにかく昨夜に起こったことの概要は理解した。そうしてもなお信じがたく、宗は朝からぐるぐると眩暈に襲われることになる。
「まあ、趣旨は飲み込むとして、来ているのなら来ているとそう言えば良いだろう……どうして僕に声をかけない?」
まず文句をつけたいのはその一点である。人付き合いが上手いとは言えないみかに新たな交友関係ができたこと自体は宗は素直に良いことだと思うことができる。(交友の狭さに関しては人のことを言えない宗であるがその自覚はあまりない)
宗の知らない間に親交を深めていたということもこの際目を瞑る。夜一郎の会社でのセレモニーに出席した際に連絡先の交換をしたのだろうことも、舞台上で倒れた宗を任せるしかなかったみかの心境を思えば不思議なことではない。しかし、斎宮の家の敷居を跨いでいながらこの僕に今朝まで挨拶もないことだけは道理が通らないじゃないか。宗は棘を存分に纏わせた声色で言った。しかしそれに対する夜一郎は常の笑顔を崩さない。
「ごめんね、声はかけたんだけど。なんだか忙しそうだったから」
むしろ昨晩真っ先に宗ちゃんの部屋には顔を出したんだけど。と夜一郎。
宗にはまったく覚えがない。しかし集中しすぎるあまりそれ以外のことが疎かになる悪癖に自覚はあった。どころか、そういう状態の宗はある種のトランス状態ともいえ、ゾーンに入った絶好の瞬間でもあるので、そういった際には何があっても絶対に水を差すなとみかに再三言いつけてきた。それが仇(あだ)になることがあるなんて……。
ことの顛末とどうすることもできない後悔に苛まれる宗とは対称的に、夜一郎は満足げですらある。曰く、今朝は仕事の関係ですぐに発たなければならないらしく、
「会えないかなあと思っていたから、良かった」
と、表情を緩ませる。ゆるい雰囲気を受けてみかも釣られたのかいつもより締まりのない顔で宗を見ていた。どうやら一晩で二人の仲は相当深まったようだ。この斎宮家で、よりにもよって宗を差し置いて。
「少し待っていたまえ!」
吐き捨てると共に宗は急いで踵を返した。その勢いに呆気に取られる二人のもとにまた戻るまで数秒もかからない。戻ってきた彼の手には新品同然のスマホが握られていた。
「連絡先、を」
何はともあれまずはそこからだ。変わらずスマホという存在は宗の美意識にそぐわない。それでもこれ以上遅れをとるわけにはいかない、と思った。とはいえ、勿論自分から連絡先の交換などしたことがない宗である。慣れない手つきの操作ではいたずらにブルーライトで目を痛めつけるだけだ。
「あ、俺がやるよ。触っても?」
時間がないと分かっているだけに余計焦ってしまう宗の様子をいち早く察した夜一郎が彼とスマホとの間に割り入ってくる。そして宗の手の中にあるままの画面を難なく操作する。しているようだ。宗の視点からは寄り添うように密着する夜一郎の後頭部しか見えない。少年だった頃からすっかり成長したはずの夜一郎の身体はスマホを掲げて固まったままの宗の腕の中にすっぽりと入り切る大きさだった。身体の持ち主である宗の許可なしに好き放題伸びた手足のせいだ。宗が自分と夜一郎の体格について気を取られているうちに、すみやかに操作は完了したようだ。あっけなく、触れ合うことはない彼の身体は会話をするのに適した距離に戻ってしまう。
「手を煩わせたね、どうもこれの扱いには慣れない」
「いえいえ。お役に立てて俺も嬉しい。……あ、もう本当に行かないと」
そう返答しながら夜一郎の笑顔は曇る。それは僅かな翳りであったが、だからこそ別れを惜しく思っていることが真摯に伝わり、宗にまでその気持ちが伝染してしまう。当の夜一郎が耐えているのに、自分が顔に出すわけにはいかない。そう考えて、宗はいたって普通の顔を作った。自分との別れを惜しんでくれることを嬉しくも思うが、それは宗の勝手な私情だ。
「……連絡するから」
しかしこれくらいなら口に出してもいいのでは。夜一郎は知らないことだがこれは宗にとって破格の台詞である。なにしろ彼は自身の時間に他者が干渉することを嫌う。携帯電話なんてその最たるもので、たとえ学院からの報せであれ、プロデューサーからの連絡であれ彼を縛ることはできない。普段持ち歩かないものだから逆もまた然りだ。その弊害を日常的に被っているみかの目だけが両方ともまんまるになり、無言でこの異常事態を訴えている。
「うん、待ってる」
それなのに、やっぱり夜一郎にはそんなことは少しも伝わらないのだ。
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