商業スペースあり、イベント催事場あり6階建て企業ビルの最上階、その社長室で夜一郎は次々メールのチェック、返信、他社との電話会議、スケジュール取次ぎ作業などをこなしていく。誰が見ているわけでもないのでだらりとクッションに凭れかかるくらいはご愛敬だ。デスクの一角には彼が自ら入手したValkyrieグッズが配置されている。彼がここのところ愛用しているクッションもValkyrieの公式グッズ(必要以上にこだわる宗からは最後までOKが出なかった曰くつきの品)である。
夜一郎にとって仕事は自由を勝ち取るための手段だった。日本に帰り、もう一度宗に会うという不純な動機から始まったものの、資本主義に基づいた競争社会は存外彼には向いていた。様々な通過儀礼を飛び級して得た地位は一族の内外でそれなりの軋轢を生んだが、それはそれ。その程度はもとから予想できたことだ。彼が気にするには値しない。
「失礼します」
前言撤回。誰も見ていないとは気を抜いていたものの、彼の右腕ともいえる社員、漆原だけは実に空気のような存在感でそこにいるのだった。男はつね通りの能面顔のままひとつ声をかけると、つげ櫛で夜一郎の髪の流れを整えていく。夜一郎の方も慣れたもので仕事の手を一切止めずそれを受け入れている。
仮眠室とシャワー室まで備えた社長室は、海外を相手にすることも多いせいで彼の一日の大半を担っている。昨今、こうした無茶な働き方は問題視されるため、この部屋の秘密について知っている社員はごく一部だ。それをいいことに、社長室はほとんどプライベートな空間と化していた。
「ご一緒に帰国された妹様が、ご自宅にいらっしゃるのでは?」
液晶画面と睨めっこを始めて動かない夜一郎に代わって、せかせかと彼の身支度を整えながら漆原は抑揚のない声で問う。
「あの子はあの子で部活に入って忙しくしているらしい」
「部活ですか」
「うん。陸上部」
「それは随分ご活発ですね」
「どうもそのあたりは俺に似なかったらしいな」
あんた親じゃなくて兄だろ、という漆原からの冷えた視線を液晶越しに先方と睨み合う夜一郎が咎めることはない。
「良いことじゃないですか。貴方、運動はからきしなんですから」
「そこは適材適所だよ。知っているだろう」
キーボードを弾きつつ、裏表で違うデザインのValkyrieクッションを抱きかかえる。それぞれ宗とみかをイメージした柄があしらわれているそれは言うまでもなく他社製品である。漆原はそれを無遠慮に掴んで取り上げると自社の人気マスコット、フランソワぬいぐるみと取り換える。ふわふわガーリーな猫のキャラクターである。
「ああ、今日もかわいいねフランソワ……」
それと顔を突き合わせて夜一郎はどこか遠い目になる。
「そろそろ取材の時間です、これも適所に戻させていただきます」
淡々とした口調でValkyrieクッションは部屋のソファに置かれてしまう。まさか社長室が他社製品に侵され、社長が日がなそれを抱きしめながら仕事をしているなどと外部に知られるわけにはいかない。それを夜一郎も理解しているため、文句を言うようなことはしなかった。
「漆原、最近俺はかわいさの条件について考えたりするんだが、なにも小さくて、ずっと大事に懐にしまっておけるような、それだけがかわいさではないな、とよくよく思うんだよ」
「はあ」
「むしろ大きいことは大変いいことではないか! 今度のかわいいのコンセプトはこれでいく!取材が終わり次第企画部を招集するぞ!」
「理解しがたい唐突さですが、そのように手配します」
漆原は口調だけは忠実にして、夜一郎をやや力づくで押し出すようにして応接室へと向かわせる。折角整えた頭髪を乱される前に取材陣の前まで社長を連れて行くのも彼の仕事なのだった。
「昨今は君のような職業でもああして顔を出すのかね」
宗が夜一郎のインタビュー記事を目にしたのはほとんど偶然だった。それが載っていた情報雑誌に夢ノ咲のアイドルに関する記事が載っており、仕事熱心なマネージャーの彼女がそれを自費で買ったところ、以前会った顔があったので、宗にまで情報が回ってきたといういきさつである。
彼女と夜一郎を引き合わせたのは宗なのでそれは当然の帰結だった。
「顔と名前を売るのに特段デメリットはないからなあ」
やはり彼の年齢については外部から話題に出されることが多く、写真を求められれば夜一郎も断ったことはない。しかしそれを本業アイドルの宗に知られるとなんとも決まりの悪いものがあった。
実際、宗はカメラマンの撮った数枚のスナップ写真にいくつも言いたいことがあるようだった。マネージャーから押し付けられた雑誌の切り抜きを思い出し、苦々しい顔つきになりかかってそれをやめる。折角籠屋邸を訪ねてきているのに顰め面なのは宗も望まない。
夜一郎の帰国に伴って籠屋邸は大きく改築を遂げた。それが晴れて竣工したというのでようやく宗もその門をくぐることとなったのだ。大きな庭を備えてはいるものの、邸内に大企業社長のご邸宅というほどの貫禄はない。両親やほかの家族はみな国外に点在しており、ここに住むのは兄妹と住み込みで働く数人のハウスキーパーくらいらしい。両親、祖父、兄と姉がおり、それから最近ではみかも一緒に暮らしている宗にとっては少し寂しくも感じるほどだ。
「まあ、今日は妹君の元気な姿が見れてよかったよ」
夜一郎と彼の妹は6歳ほど年が離れている。日本を離れる前に何回か顔を合わせたときには、確か彼女はやっと覚束なく歩き始めたころだった。当然宗のこともあまり覚えてはおらず、それをいいことに宗は彼女の第一印象を「兄の友人のお兄さん」にすることに成功した。いまの宗は身長177センチの男性だから、性別に関してわざわざ念を押すことさえ必要ない。
「編入先でもうまくやっているようだね」
夕食を交えながらいくつかの語らいをした妹は緊張もあるせいか口調もたどたどしく。それがなんとなく、かつての夜一郎を想起させたことを宗は自分の胸だけに秘めた。
「しかし彼女が運動部というのは驚いたな。良かったじゃないか、君に似なくて」
すくなくとも小学校での夜一郎の運動能力といったらひどかった。まず、体育の成績で群を抜いていたのは紅郎である。宗だって身体の動かし方を掴むのは早いので、やる気があるかどうかを差し引いても大抵の項目は他の子どもより早く習得していた。対して夜一郎は興味津々で取り組むくせに何をするにも不器用でいつも生傷が絶えなかった。籠屋さんの家の長男に大けがをさせる前にと思ったのか、教師たちもいつのまにか彼にはごく簡単な課題しか与えないようになっていたほどだ。
「ははは、みんなそう思うんだな」
彼が何気なく口にしたみんな、という言葉を気にしながらも、宗は悠然とした態度を崩さずに部屋を眺めた。夜一郎の私室は人を迎えるには十分なリビングルームのような構えをしており、扉を隔てた先にはベッドルームがあるのだろうことが窺えた。しかし部屋全体はあまりにすっきりと纏められていて生活感というものが感じられない。夕食の席で妹が兄に隠れてこっそりと耳打ちしたことを思い出す。
「……やはり、あまりこっちには帰ってないのかね」
兄は仕事詰めでしょっちゅう会社で寝泊まりをしているようなのだ、と宗相手に妹は顔を曇らせていた。
「心配しているのだろう。ほとんど初対面の僕に相談してくるくらいだ」
宗が指摘すると夜一郎は分かりやすく表情を固くした。宗とて本来そうとうな仕事気質で、寝食を忘れることだって珍しくないのだから他人のことを言えた身ではないのだが、そんな彼でも会社で生活することの不健康さは常軌を逸しているように思われた。
「うん……、うん。なんとも耳の痛いことだな」
自分の身はすっかり棚上げ状態の宗なのに、夜一郎は少しの反論もしないで素直に身を縮こませる。しかし何も言わないというのは受け入れているように見えて、結局話し合う余地を見せていないということでもある。
こどもながらにしてここまで権力を得ることに一体どれほどの努力が必要だったろう。しかもそれは彼にとってずっと何年も続いてきたことなのだ。その在り方を宗は理解するし、心から尊敬もしている。夢の実現のために身を粉にして邁進できるのは間違いなく尊いことだ。それが簡単にできるものでないことを分かっているからこそ、尊いのだと知っている。
「まさかこのあとまだ予定が?」
「いや、さすがに人と会うような予定はないけどね……」
本来、一筋縄ではいかない手練手管の使い手であるはずなのに夜一郎は宗の前では駆け引きのひとつだってできない。宗だって、彼の自分を相手にするときはいつも素直な気持ちを露わにするところが好きなので、かわいそうに、仕事との板挟みでどんどん小さくなる彼を見てしまっては糾弾する気も萎えていく。
仕方ない。宗はひとつ息をつくと家主である彼に少し待つように告げて彼の私室を出た。宗の意図が読めず、夜一郎は言われたまま彼を待つ。自分の部屋にいるのに気を落ち着かなくさせながら。数分もたたずに帰ってきた宗はどこからか持ってきた小瓶を疑問符を浮かべるばかりの夜一郎の前へ置いた。
たったそれだけの、細かなものを扱いなれた美しい所作に夜一郎が見惚れていると不意に名前が呼ばれる。
「おいで」
「は、はい」
思わずかしこまった言い方になってしまうのを特段宗は気に留めない。彼は机を挟んで向かい合うようだった椅子同士を寄せて、隣り合える位置へ運んだ。そこに座るようにと促す。
言われたとおりにすると膝を突き合わせる距離で二人の身体が向き合った。彼の考えが分からないからだろうか?普段だってこれくらい近づくことはあるのに、いまに限って夜一郎の胸にはにわかな緊張が走る。
「手を」
宗からの指示は言葉少なだが、それは夜一郎のどんな戸惑いよりも優先されるものだった。恭しげにさえ思えるしぐさで手を取られる。宗の白い手は見た目通りひやりとしていて、夜一郎の手を包み込んだ。
「熱い手だね」
「え! ご、ごめん!?」
「別に非難してるわけじゃないだろう」
宗の手は形良く細いのに、身長がそうであるように夜一郎より大きい。彼と比べると子どもっぽい作りの夜一郎のものとはおもに指の長さが違うのだった。それが不釣り合いな気がして夜一郎の身体はもっと熱くなってしまう。
これではいけない。クールダウンをはかるため小さく頭(かぶり)を振ると、さっき目にした小瓶の正体が目に入る。あまりにも自分に無関係なものなのですぐには分からなかったが、これはマニキュアだ。それが何故ここに?夜一郎の頭は一層混乱を極める。
「妹君から一式借りてきただけだ。そう妙な顔をしなくていい」
温度の低い掌と同様に、宗の口ぶりは冷静そのものだった。美に聡い宗はさきほど妹と会った際に彼女の指先が可愛らしく彩られているのを覚えていた。それは彼女が友達同士で集まるようになって覚えた密かなお洒落だ。当然校則違反にはあたるため、彼女はそれを休日だけにできる楽しみのように思っていた。もう一度言うが、それでも夜一郎にはあまり縁のないものであることに変わりない。
「爪の状態は悪くないね」
よろしい、と宗から独り言のように漏れる。よくわからないが及第点をもらえたようで夜一郎は少しほっとした。が、それもつかの間で、宗は掌で彼の指を支えるようにすると持ってきた爪やすりを使ってそれを整えだした。そこまで来てようやく夜一郎は彼の意図することを理解する。
「しゅ、宗ちゃん……っ!」
「暴れるな。影片相手にもよくやっていることだ、慣れてる」
「いや、なんかそれはそれで逆に申し訳なくなってくるというか、俺にするのは違くないかなというか」
何度か抵抗の言葉を連ねてみるも、宗が煩わしげにひと睨みするとやっぱり夜一郎は聞き分けよくなってしまう。時折、みかくんごめん……などとぼやく彼を無視しながら宗は実に丁寧に、一本ずつ爪の形を作っていった。
そしてあまり質がいいとは言えないマニキュア剤を、少しのムラなく塗っていく。それは彼の器用さがあるからこそ成せる技で、もしこの場に妹が居合わせたらさぞ感動したことだろう。今夜の礼代わりに、妹へ彼御用達ブランドのマニキュアを贈ることを考えながら宗は夜一郎の指先へ色を施していく。薬剤のにおいがツンと鼻をついた。
「その、これ……俺どうしたら」
薄い薔薇色に彩られた自分の手を見つめて夜一郎は身をそわそわさせる。宗はもう一方の手を差し出させて言った。
「まだ乾くまではかかる。大人しくしているのだよ」
マニキュアなんて塗ったことのない夜一郎にとってそれは意外なことだったらしく、黙り込む。むやみに触ったり動かさなければいいだけで黙る必要はないが、従順な反応は宗の思惑にとっては都合がいい。
「そら、できた。それが乾いたら今度はトップコートを塗るからね」
まだ終わりではないことをちゃんと釘差して、ようやく夜一郎の指先は一度解放される。彼にできるのは指をめいっぱい開いて宗の作品を少しも損ねないようにすることだけだ。
宗のほうに目を遣ると彼の表情は随分満足げに見えた。彼の言う通り、こういった細やかな作業は好きなのだろう。華やかな色が自分の指先にあるのは慣れないものの彼の興のためになれたならよかった。夜一郎はそう納得して、さて、では彼のためにお茶でも用意させようかと考える。そこではたと、また自分の指へ目がつく。「ペンキ塗りたて」と書かれた看板が彼の脳裏に浮かんだ。
「あ、あのう宗ちゃん……、これはいつ頃乾くのかな」
それが夜一郎には一切見当がつかない。縋るような目つきが存外心地よく、宗は唇に微笑を乗せた。
「さあ? 30分かもしれないし、もっと長いかもね」
彼は明確な答えを与えず、はぐらかすようなことを言う。
(あれ、俺、もしかして宗ちゃんに意地悪されたんだ!?)
夜一郎がようやく悟るのを見届けると宗の得意げな表情もいっそう深くなる。宗の手仕事はやはり見事なもので、彼から与えられる施しからは愛おしいものに触れていくような、そんな感慨さえ感じてしまって、とにかく、夜一郎は指の一本すら容易に動かすことができなくなってしまったのだった。それこそ仕事やメールの確認などもってのほかである。
「まあ、お茶を淹れるというのには僕も賛成だね。台所は一階でいいのかい?」
「待ってくれ、それなら俺が」
「爪」
「早く戻ってきてね……」
端的に自分の状況を指摘されれば夜一郎はなすすべなくまた椅子へ腰を下ろした。仕事人間である彼には宗をもてなすこともできず座っているだけというのが相当堪えるらしい。だからこそ彼のような男にはこうして無理やりにでも何もしない時間を与えるのはいい薬になるだろう。
夜一郎を留め置くことにまんまと成功して、宗はその小気味良さにカカカ!と笑った。
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