某日、学院祭にて

 薄暗がりの中で通路に蹲る物体が目に入り、夜一郎は歩みを止めた。
 お化け屋敷という特性上、辺りは暗くて当然なのだが、足もとだけはぽつぽつと光源が置かれている。さりげない配慮に作り手のことを思い浮かべてしまい、夜一郎の口もとが綻んだ。さて、そうなるといよいよこの足元に転がった物体は企画者の意図とは無関係ということになる。夜一郎は胸の内でそんなことを考えながらゆっくりと口を開いた。

「もしもし」
「うひゃあああ!! のの、の、呪わないでほしいでござる!!」
「……ござる?」
 駆け寄り軽く肩を叩くと、その人物はすぐに上半身を飛び上がらせた。暗がりに慣れてきた目を凝らせば、爽やかなスカイブルーのジャケットを着ているのも分かる。夢ノ咲の生徒に違いない。顔を覗き込めば柔らかそうな黒髪越しに涙でうるんだ瞳が見えた。
「落ち着いて、大丈夫かい?」
 どうやら迷子のようだ。そう合点がいった夜一郎は小柄な彼の腕を引いて暗い部屋の壁際へ避難させる。制服を着ているからには高校生なのだろうが、縮こまっている様子も相まって、下手をすれば中学入りたてくらいの歳にも見える彼は夜一郎を見詰めてなお、ぷるぷると震えている。きっと怖いものが苦手なのだろう。可哀想に。友達とはぐれでもしたのだろうか。

 目の前で小動物が震えていてはなんとかしてやりたいと思うのが心情だ。夜一郎は少し考えて、そっと両手を彼の耳に宛がった。辺りはいかにもお化け屋敷といったおどろおどろしいBGMが流れ続けている。加えて時折、誰かの悲鳴まで聞こえるとあってはとても気は休まらないだろう。咄嗟の機転で彼の両耳を塞いでみると、それが功を奏したのか夜一郎の手の中のぷるぷるは次第に収まっていった。
「か、かたじけない。もう平気でござる」
 正気が戻った少年はここが文化祭の催しの一部分にすぎないことを思い出したようだった。それにしたって備品のひとつをとってもリアリティがありすぎる。世界観に飲まれてしまう人がいるのも分かる。その仕事の手際に関心するばかりの夜一郎ではなく、彼のような人こそ歓迎されるべきお客さんだろう。

 と、夜一郎がこれまた経営的な思考をしてしまった、そのとき。
 目の前に青白い光が灯った。

「──お兄さんたち、迷ったのなら手を貸してあげよウ」
「びゃああああ!?」
 声が言い終えるより先に少年のイキのいい悲鳴が夜一郎の耳を劈いた。姿を現したお化け衣装の彼もその音量には顔を顰める。
「ひっ!ひと! 人魂でござるうううう!」
 ひとだま。辺りをふわふわ漂う不思議な光を目で追いながら、夜一郎は頭で辞書を引く。海外生活が長い彼にはそもそもここのコンセプトが合致していないのである。
「そウ、人魂。身体という器から解放された彷徨える魂……」
 夜一郎のきょとんとした顔に補足するようにお化け役が言う。その言葉節は謎めいた呪文のようだった。ドラマチックな物言いに、さきほど落ち着かせたばかりの少年がまた半狂乱で慌てだす。
「ほら、よく見て。彼、知り合いなんじゃないのかい?」
「ひぃ!? お化けに知り合いなんていないでござる!」
「……ちょっといじめ過ぎたかナ。ボクだよ、逆先夏目ダ」
「逆先殿?」
 このままでは堂々巡りだと気づいたのだろう。お化けはようやくその正体を明かした。二人とも同じアイドル科であることは違いないのだし、素人目から見ても感ぜられる独特の雰囲気も備わっている。夜一郎の思った通り、二人はお互いに知り合いらしい。

 逆先と名乗ったお化けは暗がりの中でゆっくり瞳を細める。
「本来なら迷子のための非常口があるんだけど、もう中盤も過ぎてしまったしネ。抜け出すならこのまま出口に向かったほうが早い」
 頭に乗せた狐の面をずらしながらの助言に長い前髪の少年はまた小刻みな振動をはじめる。これは困った。怯えきった彼を連れてここを抜け出すのは至難だ。夏目に無理を言って一時でも明かりを点けてもらおうか。しかし他の客もいる手前、あまり周りの空気を壊してしまうのもよくないだろう。
「そ、その通り! 逆先殿の出し物を台無しにするわけにはいかないでござるよ!」
 夜一郎の心配を振り切り、彼は身を震わせながらもそう言った。お化けの正体が分かったことで多少なりとも恐怖が薄らいだようだ。
「偉いぞ! ござるくん!」
「拙者、流星イエロー仙石忍でござるからして!」
「ふふ、助かるヨ。流石ヒーロー」
 奮い立ってみせる忍のさまに夜一郎はお化け屋敷というロケーションにまったくそぐわない快活な笑みを見せる。同じく微笑む夏目の瞳は悪戯っぽい形のまま夜一郎に向けられた。
「お兄さんにまで途中退場されちゃ、宗にいさんも浮かばれないだろウ」
 宗にいさん。夜一郎にとってはまったく聞き慣れない呼び名だ。年下である夏目や忍は宗にとっては後輩にあたる。日本の一般的な教育から離れてしまった彼には想像することしかできないが、これが先輩後輩関係というものなのだろう。
(みかくんも確か、お師さんとか呼んでいた)
 どちらも威厳を感じる呼び名だ。それらと比べてしまうと幼いころ呼んでいたのをそのまま何も考えずに引き継いでいるのは場違いなのでは。と、夜一郎は遅ればせながら思い至った。

 先導する夏目のおかげもあり、一行は薄暗い通路も難なく進んでいく。それが忍、夜一郎の二人を油断させたのだろう。ちょうど古びた家屋を通り過ぎようとしたその時。突如、一本の腕が襖の間から伸びて夜一郎の目の前を掠める。
 彼とつかず離れずの距離を保っていた忍もそれをもれなく目撃してしまい、再び劈く悲鳴があがった。
 突然のどっきり展開にさすがの夜一郎もどんぐり眼を大きくして謎の腕を凝視する。指先を赤黒く染めた腕は一度空を掻いてから半分閉じられたふすまをがらりと開けた。

「夜一郎さんやあ! いらはい~!」
 中から現れたのは迫力たっぷりに施されたメイクを懐っこく歪ませたみかだった。このお化け屋敷がユニット合同の催しである以上、彼も勿論お化け役としての仕事を全うしているのだ。

 みかの身に着けた日本人形風の血みどろ衣装は夏目の狐面衣装とは趣きが異なる。衣装の製作者が別なので当然のことなのだが──和の共通コンセプトがそこのちぐはぐさを上手く包括している──、とにかくみかの装いは作り手の極限までこだわる気質のおかげで美しいながらもかなりショッキングな仕上がりになっている。正体がみかと分かっても、忍はその衝撃から立ち直れないらしく力なく夜一郎の袂を掴んだ。
「んへへ、ええやろ? お人形さんのべべなんよ~」
 二人の視線を受けて上機嫌でみかはくるくると回る。宗の世界観に合わせて、今回はマドモアゼルともお揃いの衣装だ。それがみかには嬉しいらしい。シチュエーションも相まってまさに無邪気な呪い人形の踊りのようだが、肝の据わった夜一郎には微笑ましい様子にしかうつらない。

「あ、もしかしてさっきのわーって腕が出てくるのって……」
「そやねん! おれ、おばけ役なんてよお分からへんけどゾンビの真似やったらできるかなあ、って……」
「やっぱり! どうりで覚えがあると思ったよ!」
「ああ、それのせいカ。こっちのブースの悲鳴の上がり方がなんか違うの」
 なにやら意気投合しはじめる二人を尻目に、夏目は冷えた声をあげて俯瞰する。実際、みかのホラー映画仕込みの演出は本格的すぎる。何事も本格派のValkyrieらしいといえばらしく、そのアイドルらしからぬ脅かしっぷりは一部で反響を呼んでおり、ファン外からの客を呼び寄せているようだ。世間の需要に敏感な夜一郎はそれを肌で感じていた。なるほどホラー需要。夜一郎の顔が思わぬ商機の気配に引き締まる。彼の中でみかがホラー大使に任命された瞬間だった。

「……性懲りもなくまた腐乱死体の話をしているのかね」
 すると、呆れ半分の調子で暗闇の先からまたお化けがやってきた。マドモアゼルを携え、深紅の着物を纏った彼。宗の出番はまだ先のはずだが、みかのはしゃぎようを見て小言の一つでも言おうとやってきたのだろう。
「宗ちゃん!」
 その立ち姿を見た瞬間、夜一郎はほぼ条件反射的に声をあげてしまった。やってしまってから、ついさきほど彼への呼び方を改めようかと考えていたのを思い出した。現にそれを聞いた後輩組は奇妙なものを見るような目を夜一郎に向けている。
 だが、当の夜一郎はそれを分かっていながらも、真正面を向いたまま微動だにできないでいる。宗の装いはみかや腕の中のマドモアゼルと揃いのものだ。それでもその姿が夜一郎にはいっそう艶やかに、美しく見える。

「小僧、僕の友人が世話になったようだ。礼を言う」
「主催者として当然だヨ。このお兄さん、かなり肝が据わってるみたいでちょっと悔しいくらいだけド」
 夏目の人魂やみかのホラー演出さえ通用しなかった夜一郎は宗の姿を前に途端にまごまごした口振りで言った。
「しゅ、宗ちゃん。その、……とても綺麗だね。格好いい……」
 褒めるにしたって普段の彼ならもっと順序立った言い方ができるはずである。それがいまはすっかり稚拙な表現しかできなくなっている。
「う、うむ」
 ただ、対する宗のほうもいつもの口煩いのが一変、頷いたきり言葉が続く様子がない。装いを褒められて蘊蓄のひとつも口にしないどころか、正真正銘照れているのだ。あの夢ノ咲学院の帝王が。これは大変なことだぞ、後輩たちは瞳の動きだけで互いを見合わせた。

 

 お化け屋敷らしからぬ生温い空気を際限なく醸し出した二人は、夏目の判断により速やかに退場宣告を出された。
 宗と夜一郎が仲良くつまみ出されたところに「あ、ついでに宗くんたちも休憩に入ってください~」と、つむぎが間延びした声をかける。なにしろValkyrieの二人は学院祭が始まる直前まで細部の調整をしていたうえ、ここまでは働きづめだ。それはValkyrieにとっては日常茶飯事ではあったのだが、合同企画であるかぎり片一方のユニットのバランスに偏るのは望ましくない。
 それでもいつもであればつむぎの提案など一蹴するところを、宗はぐっと思いとどまった。そして夜一郎を出口のところに待たせて、また部屋の中へ引っ込んだのだ。なので、廊下に放り出された夜一郎は一人手持無沙汰に学院祭で賑やかしくする生徒たちを眺めている。学院内のものは大概が物珍しく、あちこち見回してるうちに数分はすぐに過ぎた。夜一郎の和装が幸いして、お化け屋敷の出口で立っているだけの彼はそこのスタッフにしか見えないようで、不審がられることもなかった。

「……待たせたね」
 夜一郎が飽きずにきょろきょろしていると、メイクを落とし、制服姿に着替え直した宗が姿を見せる。彼が纏うのは、先程の妖艶なまでの麗しさではなく白いシャツの輝くような美しさだ。夜一郎はそれを直視して狼狽える。ただでさえ夜一郎の胸はこのあとの時間のことを思って、期待でいっぱいだ。いちいちこれでは身がもたないな。そう悟って、わずかに視線を逸らした。すると、その先ではおなじく学生服姿に着替えたみかがちらちらとこちらを見ていた。
「んあ、ええと……」

 夜一郎と目が合うと、みかは物陰からこちらを見て、意味のない言葉を吐く。その様子はまるっきり出会った初日に戻ってしまったかのようだった。何か言いたいことがあるらしいのを言い出せず色違いの瞳で顔色を窺っている。
「あの、あのなあ……?」
「うん」
「おれもお師さんとお祭り見て回りたくて……、えと……」
 みかは胸に詰まらせてた気持ちを頑張って外に出した。つまり、それは宗の自由時間を自分に譲ってもらえないかという彼の我儘だった。夜一郎がみかの意味をなさない呻きにも一個ずつ相槌を送ったからなんとかそれが言葉にできたのだ。
 そんな優しい人に勝手な想いをぶつけるのはなんだか間違ったことのような気がする。宗のことが好きなのは夜一郎だって同じことなのに。みかは罪悪感で身を小さくした。

「それは素敵な案だ!」
「えっ」
 しかし、みかの危惧とは打って変わって夜一郎から飛び出したのは明るい声だった。思わず、色違いの瞳が驚きで溢れそうになる。二人のやり取りを静観していた宗もみかと同じタイミングで同じような声をあげた。二人分の、えっを聞き、夜一郎は急いで自分の言葉を取り繕う。
「あ、待って。違うや。ちょっと順序が飛んでしまった。つまりね、俺と宗ちゃんとみかくんの三人で一緒に回れたらそれはすごく楽しいだろうって」
「え、三人? おれと、夜一郎さんと……?」
「うん。どうかな」
「え、えええ」
 みかの窺いを立てつつ、夜一郎はこれ以上の妙案はないとばかりに微笑んでいる。みかは大混乱だ。だって、口には出さないが宗だって夜一郎と二人でいたいはずである。自分の手仕事に関してワーカーホリックな彼がすんなり休憩に入るなど、普通は有り得ない。夜一郎が乗り気なぶん、引っ込みもつかなくなってしまった。どうしよう。

「余計な気を使うな、影片。夜一郎の案で僕は構わない。むしろ合理的でいいと思うがね」
 夜一郎とまじまじ顔を突き合わせるみかの襟を掴み、引き離しながら宗は言う。みかの不安は再度覆った。宗とて、いつも散々な扱いをしてるわりにしっかりみかのことは大事に考えているのである。双方の希望がかなうのであれば別に三人で行動するのは彼にとってどうということではない。

「特に夜一郎、君の時間は僕たちよりよほど有限だろう」
「それを訊いてくれるかい宗ちゃん! なんて言っても夢ノ咲の学院祭だからね。公私関係なく学ぶことは多いとか社会経験だとかなんとかで幹部連中を言いくるめて午後半休を勝ち取ってきたんだ」
「それは良い。大健闘なのだよ」
「朝まで合法で楽しもう!」
「や、朝までは学校開いてへんけど」

 みかの咄嗟の突っ込みは大してきいていない。夜一郎の意気込みは並大抵ではないようだ。どちらにせよ、二人がそれでいいというのならそれは満場一致と相違ない。一方的な遠慮や罪悪感が無意味になり、ようやくみかは口もとを緩ませる。
「せやったらおれ、屋台のお好み焼き食べにいきたいわあ」
 お好み焼き、という言葉に宗は途端に苦虫を潰した顔になった。みかの食の好みが宗の美意識にそぐわないのは元から知れたことだ。神は宗に多大なる才能を与えた代わりに人間らしい食欲というものをほとんど与えなかった。そんな彼からすれば祭りの屋台飯などジャンクで粗悪なものでしかない。
 反して夜一郎の味覚は極めて一般的だ。重責を担う社会人とはいえ、身体は普通の10代男子である。加えて世間知らず、そのうえ好奇心も強いとくればみかの希望に興味を示すのは当然といえた。多数決でみかの意見に軍配が上がる。三人になると民主制が生まれるのだ。三人ってすごい。みかは思い知った。

「僕は結構。美しくないものを身体に取り入れると考えただけで苦痛だからね……影片、君もほどほどにするのだよ。君は胃の容量だってそう多くはないのだから……」
「なるほど医食同源論というやつかな、実際こういう楽し気なものは心を楽しくするよね」
 宗の主張に半分同意しながら、いつのまにか夜一郎はフランクフルト、チョコバナナ、林檎飴の屋台モノ三種の神器を両手に抱えている。目についたものを手当たり次第手に入れて満足げだ。自分が屋台に並んでいた僅かな時間とは思えない戦果にみかはぽかんとする。
「それ、全部食べるん……」
「はは。みかくんも食べたいものがあったら遠慮しないで言ってくれ」
「おれはお好み焼きでたぶんお腹いっぱいやよ。あ、でも林檎飴はきらきらしてて綺麗やね」

 ぴかぴかの林檎飴はいつだって子どもたちの目を惹く。しかしその正体は林檎丸々一個分だとみかは知ってしまっている。食べきれないことが分かり切っているので彼はそれを一度も食べたことがなかった。理由は異なるが宗もそうだ。みかが感想を口にするのを耳にして、改めてそれを見てみる。屋外の太陽光を受けて確かにそれは輝いているようにも見えた。
「いる?」
 宗の無言の観察眼を受けて、林檎飴の持ち主が言った。物欲しそうに見えてしまった、というのが宗の自尊心に小さくヒビを入れる。実際は自分ばかりが屋台飯を抱えていることに対する気おくれみたいなもので、夜一郎に他意はなかったのだが。
「や、やめたまえ! 大体食べ歩きなんてはしたないだろう!」
「でもそれが作法みたいなものだって、さっき屋台の大きい人が」
「三毛縞ああ!!」