「君、遊園地へ行くんだって?」
電話口で彼は単刀直入にそう言った。それは夜一郎がちょうど寝支度をしながら軽くテーマパーク事業への参入に関する議事録を見返していたところへやってきた。彼の言う台詞だけでは少々誤認がある。正確にはリサーチ目的で、仕事の一環として、近々赴く予定を組んでいるのだ。それをどこからか聞きつけたらしい。
時計を見れば深夜と言える時間帯だ。一般的には電話をかけるには非常識な時間である。夜一郎は自分が夜型人間であることに感謝した。
「む、そうだったね。僕も僕でわりと昼夜関係なしに起きていたりするから……謝罪するのだよ」
「いや、宗ちゃんと話が出来るならそれが何時だって俺は嬉しいよ」
だから謝る必要はないのだ、と夜一郎が付け加えると電話口からは宗が咳き込む音が聞こえた。
「とにかく行くのか行かないのかどちらだね」
「確かにその予定はあるけど、でもそれは仕事の話で……」
きっかけは彼の社内でテーマパークへの参入に積極的な意見が出たことにあった。そこに判断が下せるほど夜一郎はその分野に詳しくない。というより、生まれてこの方一度も行ったことがないのだ。たとえ家族で行く機会がなかったとしても、今時は遠足や修学旅行という名目でやれなんとかランドだなんとかスタジオだへの小旅行が学校行事の中に組み込まれていたりだってする。これは彼が教育課程を大幅に効率化して通過してしまった弊害だ。
なので、夜一郎はまず一般的なアドバイスを同年代の知り合いに聞いて回った。夢ノ咲の生徒なら、競合他社との繋がりもなく気兼ねがない。そのどこかから宗のもとへ情報が漏れたのだろう。夜一郎の脳裏に長い浅葱色の髪の持ち主が賑やかしく笑っているのが浮かぶ。わざわざ宗にこんな話をする時点でそれは相当な酔狂だ。だが、そこの犯人捜しはいま重要ではない。
「ふうん。仕事ね。誰とも知れない人間と行くわけか。ふうん」
通話先の宗の声には分かりやすくトゲがある。その理由に夜一郎は遅ればせながら気付き始めた。
「一緒には行けないよ!?」
思わず声をあげてしまうと、宗はひどく驚いたように息をのんだ。遊園地といえば、恋人同士にとっては絶好のデートスポットだ。流石に夜一郎にもそのくらいの知識はあった。
「なッ、何故だね!? まあ、こちらも無理を言っている自覚はあるけれど、そう全否定しなくてもいいだろう!」
宗の主張は支離滅裂である。自覚があったところで何のフォローにもなっていない。
「だって宗ちゃんと俺が行くとなるとそれは趣旨が変わるから! デートするなら、仕事とは無縁のところでもっとちゃんとしたものを……」
「デ……!?」
宗はまた大袈裟に咳き込んだ。二回目ともなるとそれを聞く夜一郎は心配になってしまうが、今度はその後ろで慌てふためくみかの声も聞こえてきたのでほっと息をついた。
ところ変わって、空は晴天。健康的な空の下、軽やかなBGMを背に斎宮宗が仁王立ちで構えている。
結果から言うと、夜一郎は宗の言うことを跳ね除けられなかった。惚れた相手には滅法弱いというのは帰国してから自覚してきた性質だ。
「やあ、宗ちゃん……」
やや困り顔の夜一郎という珍しいものを前に、しかしテーマパーク事業チームの目線は背筋をぴんと伸ばして立つ宗へ向けられていた。Valkyrieの斎宮宗の名はすっかり知れたものだ。衆目に晒され、宗は気難しそうな目つきをそのままに社員たちに向き合う。
「今日は一日世話になる。とはいえ邪魔をする気などはないから安心したまえ」
「こういうわけだから……、まあ、あまり気にせず、すまないけどよろしく頼むよ……」
もはや夜一郎は説明責任を放棄していた。そんなものだから社員たちは誰一人としてこの事態を正しく理解できないでいる。夜一郎に近しい者の中では彼がValkyrieファンというのもよく知られたことだった。なので、つまり。
(うちの社長、金に物を言わせてアイドルを……!?)
不純と無粋さを兼ね合わせた視線に自ずと宗の目つきは厳しくなる。だが一方的に押し掛けた手前、感じた不満を押し込めるだけの良識はあったのでぐっと唇を結んだ。
「斎宮さん、こちらのスケジュールをお渡ししておきます」
すると夜一郎の傍らに立っていた男がいち早く状況を飲み込んで割って入った。漆原は夜一郎の側近たる男である。宗よりも大きな背丈を有する男は眉一つ動かさず淡泊な口調で言った。
「見ての通り、予定は分刻みです。それと貴方の分のチケット代金やその他かかる費用に関しては自己負担でお願いします。我々は遊びに来たわけではないので」
あまりに温度のない声だが、そんな脅しに屈する宗ではない。手渡された紙面を横目で確認するとそこには今日一日の動きがびっしりと書いてあった。無理を押している分、宗の分が悪い。いくら腹立たしい物言いをされたとしてもだ。
「漆原……」
「相手が誰であれこういうことははっきり言わなければ」
だとしても宗の心を無用にかき乱す必要はない。夜一郎に嗜められても部下の男は能面のような顔を崩さない。しかし彼がいつも通りなおかげか、やり取りを眺めるだけだった他の部下たちもなんとか平常を取り戻していく。夜一郎も部下の前で宗にばかり構ってもいられない。予定が詰まっているのは本当で、遊園地側では先方も待っている。一行は何とも言えない空気のままエントランスをくぐった。
ビジネススーツの大人たちを引き連れても、夜一郎の振る舞いは一人前と言って十分なものだった。遊園地のメインターゲットは子ども連れまたは若者同士を想定している。当然そこで提供されているものは子どもを喜ばせるものが多い。しかしそれらを前にしても夜一郎は年齢不相応な表情を崩さない。年齢に関係なく、この場での彼は大人の振る舞いそのものだった。当然だろう。そうでなければ大企業の社長など務まらない。
たった一人、とくに使命もなくついて回るだけの宗にはその姿が余計に遠いものに見える。もとから宗はテーマパークなんて子供だましに夢中になる質(たち)でもなく、むしろ人混みはもっとも苦手とするもののひとつだ。ギラギラとした色遣いの園内に早々に疲れ果て、手ごろなベンチを見つけてからはそこにすっかり座り込んでしまっていた。マドモアゼルがいればまだ気晴らしにもなっただろうが、人通りの多い場所に繊細な彼女を連れてくるわけにはいかない。
「宗ちゃん、平気?」
夜一郎がそんな宗のもとへ戻ったのは日が傾いてからのことだった。呼びかけに応じて、宗がその瞳をのろのろと上げるとそこにはやっぱり困った顔の夜一郎がいた。今日は開始早々からずっとこの表情だ。理由が自分にあることは分かり切っていて、宗は胸がぎゅうと痛くなる。
「なにか飲み物を買ってこよう、水だったら飲めるかい?」
明らかに疲労困憊の様子を見かねて、夜一郎は言うや否や踵を返す。その着物の翻りを宗は指先で力なく掴んだ。やっと戻ってきたというのに、またすぐ立ち去ろうとするものだからつい捕まえてしまったのだ。その意図を察したのか夜一郎は宗が促すまま、その隣に腰を落ち着けた。
「大丈夫だ。僕はただここで休んでいただけだから」
実際、職務を全うしていた夜一郎のほうがよほど労われるべきだろう。そこまで考えて、宗は周りに他の人間がいないことに気付く。いや、変わらず人の往来は多いのだが、ビジネススーツの集団がいない。あの気に食わない能面顔も。
「仕事はもうおしまい。みんなには現地解散してもらったよ」
「予定ではまだかかるはずだが」
「うん、ちょっと頑張っちゃった」
宗が一度見たスケジュールを忘れるはずがない。すぐさま指摘を受け、夜一郎はばつが悪そうにはにかんだ。
「あ、無理はしてないよ! もともと漆原は余裕のあるスケジューリングをする奴なんだ」
なんと、予定を組んだのは宗にそれを押し付けてきた張本人だったらしい。あれはまさしくあの男からの牽制だったわけだ。そう思い至った宗の機嫌が降下するのを、単純に彼のことが嫌いなのだろうと理解した夜一郎はそれを振り払うように話を続けた。
「色々と勉強になった。こういったことは実際に体験しないと駄目だね」
そのことに関しては宗も同感だ。喧騒からは少し距離を置いた場所で人だかりを見る。閉園の時間が迫る園内では着ぐるみによるパレードが行われるらしく、人々はいっそう浮足立っているように見えた。
「ああ。身をもって感じたとも。この人気(ひとけ)はやっぱり好きじゃない」
宗の言うことは心底の本音である。夜一郎相手に遠慮することもないからそれは当然だ。しかし言ってしまってから、目の前の表情に僅かに翳りが生まれるのを宗の視力は見逃さなかった。ただでさえ、夜一郎は一日中宗を放り出してしまったことを引け目に思っている。そのうえ一般的な遊び場やデートスポットに憧れを抱いているような節もあった。宗は自分が言葉を誤ったことにすぐ気が付いた。
「そうは言っても、君がこういう場所に来たいというなら僕だって……、考えなくもないわけだが……」
「はは、ほんと? でも俺は宗ちゃんといれるならきっとどこでも楽しいからなあ」
それだってけして嘘なんかじゃないのに、語順のせいで取り繕った形になってしまったのが宗は納得できない。素直な言葉でこちらを喜ばせることができる夜一郎を羨ましくさえ思えてしまう。
堪らず宗はその場から立ち上がった。疑問符を浮かべる夜一郎を見下ろして言葉を胸から外へ追い出す。
「行こう。今からでも」
「え、でも。もう気分はいいのかい?」
「人の波が去ったからね。むしろ好機だ」
あれだけ溢れていた客はみんなパレードを見るために場所を変えたらしい。いまなら人混み嫌いの宗も自由に動き回れるだろう。夜一郎もそのことを理解すると元気にベンチから飛び上がった。
「どうしよう! 閉園まではそれほど時間も……!」
「お、落ち着きたまえ」
夜一郎の勢いに圧されながら、宗はもう一度辺りを確認する。人の波が減っているとはいえ、アトラクション目当ての客はそれなりに残っているようで、ここからでも待機列が並んでいるのが見える。人々の背中越しに悠然と佇む観覧車の灯りが目に入った。園内のランドマークでもある大きな観覧車は音もなくゆっくりと回っている。
その箱の中へ二人で乗り込んでから、宗はまた軽い自己嫌悪に陥った。夜一郎にああ言った手前これを言うことは憚られるが、異常な速度で上下させられるコースターや子どもっぽい木馬などに比べれば観覧車とは彼にとって都合が良かった。結局これも宗の事情に合わせた結果だ。
……はたして夜一郎はこれで楽しめるだろうか。彼の立場を考えれば、普段から高層の建物なんて慣れっこだろうし、上から見下ろす景色ならば観覧車は飛行機にはかなわない。あとからそんなことに気が付いたところでもう遅い。宗は肝を冷やす想いで向かい合って座る相手を見る。夜一郎は上昇していくゴンドラの外を覗き込みながら、ぱたぱたと足を数回踏み鳴らした。らしくもなく落ち着かない様子だ。
「さっきまで賑やかなところにいたのが不思議なくらいだ」
宗の視線を受けて、夜一郎はしみじみそう言った。彼の言う通り、地上から離れるごとに喧騒からも離れていく感覚がある。下から見上げた時は煌々とした光を纏っていたゴンドラも、いまは地上の景色の方がよっぽど明るくも見えた。
考えてみれば二人きりになるのは今日はこれが初めてだ。それを実感すると宗の胸にももどかしい気持ちが生じる。閉じた空間にいるわりには、ゴンドラの広さのせいで夜一郎の身体は少し遠い。せめてもっとこっちを見てほしいのに彼ときたら、会話の折にちらりと視線を合わせてはすぐに外へと目を向けてしまう。
「あ! 見て、山からコースターが落ちた!」
もどかしい胸のうちに気付かせたくて、ついじっと送った視線はまた逸らされる。夜一郎が外へと関心を促すのを宗はほとんど無視して、視線を送り続けた。
「君、さてはいま物凄く緊張しているだろう」
だからこそジェットコースターの行方などどうでもいいことを口にできるのだ。つい、思い付いたとおりについて出た指摘に夜一郎の表情は強張る。図星だと顔に書いてある。正直なところ彼の身体はいま全身ガチガチだ。昼間あれだけ堂々と大人ぶった顔をしていた男とは思えない。
下手なだけの誤魔化しなんてするだけ無駄なことだと、普段の宗なら思うところなのだが、他ならぬ夜一郎の口からそういった類の不条理なことが飛び出すと物珍しさのほうが勝る。胸中を見透かされて観念したらしく、夜一郎は乗り出していた身をお行儀よく座りなおした。
「……そんなに分かりやすいかな、俺」
「まあ、君のそういう姿が見れるのは悪くない」
「俺はこういうのばっかり見られるとちょっと困るんだけど……」
夜一郎の凹み様といえば重大な秘密がひとつ露見してしまったくらいの面持ちなのだが、いつの間にか満足そうに笑みまで湛える宗を前にしては自分の情けなさ程度は瞬時に吹っ飛んでしまう。それ以上のことなど夜一郎には思いつかないからだ。
「それのいったい何が困る?」
宗は矜持と嬉しさと気恥ずかしさがごっちゃになっている様子の夜一郎を一笑する。
それに宗だって、観覧車に二人きりというシチュエーションにまんまと浸ってしまっているのだから、詰まるところはお互いさまなのだ。二人でいればどんな場所でも、というのは自分にも当てはまるらしい。
それを敢えて胸の内に押し込めて、宗は夜一郎の愛おしい焦燥を、夜景越しにあと暫し見つめていることにした。
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