ある戦友のご令嬢

※オリキャラの描写が8割です。お覚悟ください。

 

 そもそも、いつも当事者に断りがないのだ。
 窮屈な着物の帯を煩わしく思いながら彼女は内心で独りごちた。

 日本でも指折りの美しい庭を臨む一室で、今日初めてお目にかかる相手を見る。籠屋夜一郎は想像していたよりもずっと若々しく、物腰の穏やかな男だった。こちらは両親と三人揃っているのに、長机を挟んだ対岸では彼はたった一人で彼女の父母、そして彼女自身を相手に話をしている。若干18歳の若さながら、彼は三代続く大企業の社長であり、また家長でもある。自分とは違って誰かの庇護下にあるわけではないのだ、と彼女はぼんやりと思った。
 そんな相手と、父の仕事相手でたまたま年齢が同じだったというだけで結婚を前提とした顔合わせが行われていた。若き気鋭の社長を手中に収めることがよほど肝要らしい父は、ずっとひっきりになしに話し続け忙しなく喉を渇かせている。
「××さん、よければ外へ出てみませんか」
 相手からそんな提案を受けても、彼女の心はひたすら憂鬱だった。かといってそれを表に出すわけにはいかない。幸いと、相手方の自分への感触はそう悪くないように思えた。父の期待のこもったまなざしに見送られながら彼女はそっと夜一郎のあとへ続いた。

 日本庭園ながら、和洋の植物を揃えた庭ではちょうど秋薔薇がいまにも綻びそうな頃合いだ。肩ほどの高さにもなる垣根は若者が語らい合うにはちょうどいいのだろう。自分の数歩うしろに佇むだけの彼女に、夜一郎はなにを強制するでもなく垣根に目を向けた。
「早咲きの薔薇があるね」
 彼の言う通り、茎をひとすじ伸ばした先端に小振りながら白薔薇が咲いていた。日照時間などの影響でそこだけ早く咲いたのだろう。それに眼差しをそそぎ夜一郎は独り言のように続ける。
「こういった手入れの行き届いているところは盛りを過ぎると花を一斉に摘み取ってしまうから。それは来年また大きな花を咲かせるためではあるんだが……」
 てっきり現実主義の実業家と思っていたのだが、草木を慈しむ心をお持ちだとは。少々意外に思うとその視線を受けてか、夜一郎は物静かに口を閉ざしてしまう。しまった。花でもなんでも、もっとあちらの好きに語らせておくんだった。話題が消えてしまったことを彼女は悔いた。
「あの、すみません。お忙しいでしょうに時間を取らせてしまって」
 少しの沈黙さえ耐えられず、社交辞令めいた台詞が彼女の口をつく。
 実際、いくら会話したところでもとからこの縁談の決定権は発足人である父とその相手にあり、そこに彼女の意見はあまり関係がない。だからこそ夜一郎からどんな話題を振られても大した意味があるとも思えず、ひいては相手に無駄な時間を過ごさせていると感じていた。であれば、決め事はすべてそちらで済ませていただいて、自分だってこの場だけでもさっさと解放されたい。それが彼女の本心だった。

「苦労されてるようですね」
 しみじみとした声を出したのは夜一郎のほうだった。思わず彼女が顔をあげると青年社長は眉根を僅かに困らせて微笑っていた。それは彼女への同情というにはあまりに当事者としての実感に満ちた表情だった。しかしそのように顔を曇らせたのは本当に一瞬で、すぐになにか決心したようにひとつ息を吐くと彼女のほうへくるりと身体を向けてこう続けた。
「でも貴方にその気がないようで良かった!」
「え、え、え?」
 彼女は目を何度も瞬かせて夜一郎の奇妙な言動に思わず顔を青くする。ついさきほどまでの若い婚約者ふたり、という雰囲気は一変した。庭の複雑な構造が周知から遠ざける役目を全うしているため、その異変は誰にも気付かれない。
「わ、私、そんなに分かりやすい態度でした?」
「態度というか、突然どこの馬の骨とも知れない男を宛てがわれて大歓迎というひとも少ないだろう。とはいえ決めつけもよくない。だから実際お会いする必要があった」

 彼女の不安など知らぬ顔で夜一郎は次から次へ言葉を繋げる。ある程度気持ちが高まると息継ぎが少なくなっていくのは彼の癖だ。その矢継ぎ早の言葉を追うのに必死で、彼女は自分の心うちを読まれてしまった恥ずかしさを一旦忘れるほかなかった。その言いっぷりを聞いて判断するに彼ももとからこの縁談に乗る気はなかったようだ。同じ立場なので、彼女にはそれがよくわかる。やっぱり父が強引に取り付けただけらしい。彼女の胸は申し訳なさでいっぱいになる。
「父は、婿養子なんです。私の家の直系を継いでるのは母のほうで。たぶん、生まれで苦労したんだと思うんです。それで私の結婚相手を探すのにも積極的で……その、」

 今回のことはなにも初めてのことじゃない。でも父なりに娘のことを考えてのことなのだと、彼女は咄嗟に取り繕うようになってしまう。自分たちのあいだに親子の情は確かにあるし、彼女もそれは感じている。でもだからといって。だからといって自分の人生の全てを預けることは受け入れ難いことだった。
「……実は、実は私、父には内緒でアルバイトをしてて」
 今度は夜一郎が驚いた顔をした。彼女も、それは彼女のなかで最大の秘密ごとのはずなのに。どうして口にしてしまったのだろう、と言ってしまってから唇を噤む。覆水盆に返らず。家族にも明かしたことのないそれを、彼女は白状した。

「運動部の中には朝練習という習慣があるでしょう」
「うん」
 実際、夜一郎は学校生活の分野にはまったく詳しくないのだが素直に頷いて先を促す。彼女の言葉は遮られることなく続けられた。
「それで、その、部活があるからと言って、授業の前に学校近くのコンビニで……」
「コンビニ!」
 その辺りで夜一郎は声まであげて笑い出した。それは年相応とも思える屈託ない笑い声で、彼女の疚しさをほんの少しも咎める様子がない。
「私が入ってる箏曲部は一度も朝練なんてしたことないんですが」
「はははは! そうかそうか、そうなんだね。あはは」
 他人からここまで爆笑されたのははじめてて、彼女はさらに言葉を続けてしまう。夜一郎はついに腹まで抱え出した。失礼だと怒ったっていいはずだが、それを見ている彼女はなんだか胸がすく思いだった。

「ふふ。はー……なるほど。君はすごいな。うん。ふふ、いや、これは本当に」
 一頻り笑った夜一郎はどうにか真面目な顔を作って何か考えこみはじめた。それを、もうどうにでもなれ、という風で彼女は聞いている。
「俺に考えがある。少し長丁場の戦いにはなるがね。乗ってくれるかい?」
 もうすっかりくだけた口調になって夜一郎はそう言った。彼女は、彼の考えがわからないなりに、でもそれは自分を貶めるようなことではないだろうことを理解する。 
「どうとでも。私、もう最大の秘密を知られてしまいましたから」
「大丈夫、必ずうまくいくよ。ぜーったい吠え面かかせてやろう」
「まあ下品だわ」
 使い慣れない品のない言葉は彼女をあやしく誘惑した。

 沈黙は金で、彼の言う通り長期での作戦には余計なことは言わないというのが最も互いの身を守ることなのだった。
 あれから夜一郎と彼女は個人で連絡を取り合い、何度も二人きりで会うことさえした。それは第三者から見れば非常に友好的な交流でしかなかったし、二人の結婚を望むものにすれば一層そうだ。忙しい夜一郎と会うためだと言えば父はあっさりと夜間の外出まで許した。
 二人きりで食事などしながら、彼女が学校やアルバイトでの話題を出すと夜一郎はひどく興味深げに耳を傾ける。かわりに彼女は彼の海外での様子を聞くのに大層関心を寄せた。もともと勝手にアルバイトを始めたのだって、いつかどこかに飛び出していくために少しでも足しになればと思ってのことだった。そういったところまで話をすると、夜一郎はふむ、とまた考え込む。
「そうだな。じゃあその方向で考えていこう。例えばこういうのはどうかな──」

 

 やがて季節が変わり冬がやってくる。ついに二人の作戦は最終段階に入った。

 夜一郎が訪ねれば父はすっかりご機嫌で、大袈裟な身振りで家の応接室へ彼を招き入れた。
「籠屋くん、我が家にお越しいただいてすまないね。事前に言ってもらえればまた相応の場を用意したんだが」
 彼は年甲斐もなく気もそぞろ。と思えば祝う準備は万端だとでも言うように小躍りでもしそうな様子だ。夜一郎はにっこり微笑んで、やはり多くを語らない。たとえば彼女がバイト先であったことなどを話すと、それは何、あれは何、とあんなにお喋りが止まらない彼なのに。
「娘とうまくやってくれているようで本当に嬉しい」
「はい。××さんは貴方が考えているよりも、ずっと素敵なかたです。私はこれからも彼女と良好な関係を築いていきたい」
 夜一郎が忍ばせた棘に気がつくのは彼女だけのようだ。
「ときにお父さん、彼女の進学についてはどうお考えですか」
「進学?」
 今日この場ですぐにでも婚約を、と考えていたらしい父は面食らったように表情を固くする。
「まあ、本人が望むのであればそれも……とは思うが、結婚するならば早いほうがいいだろう?君も」
 父の無理解に深い、深ーい溜め息を吐き出したいのを彼女は耐えた。
「私がニューヨークで学位を修めたことはご存知でしょう。話すうちに彼女も興味を持ってくれましてね。語学の素養も十分におありです」
「そ、そうなのか? いままでそんなことは一言も……」
「お恥ずかしながら、夜一郎さんに勉強を見てもらっていましたの。彼と仲良くするように、とのことでしたので」
「ああ言ったな。それは、言ったぞ」
 一家の大黒柱が、若い二人に圧され、次第にたじろぎを見せる。彼は二人の思惑を知らないなりになにかの風向きが変わったことだけは肌で感じ取っていた。目配せをする二人の様子は端から見ても仲睦まじそうだ。違ったことはなにもないはずだった。

「お父様、これを」
 満を辞して、彼女がひとつの書類を父の前へ差し出す。英文で書かれたそれは米国の某大学への留学承諾書だった。
「へ!?」
 予想外の登場に父からは威厳を忘れた声が出る。なにもかもが彼の思惑の外のことだ。つまり、二人の要求はかわいい娘を国外留学させよ、とのことなのだ。
「いや、突然こんなもの出されても、こんなところへ送り出して一体何年待てというんだね!?」
「四年制の大学ですわ。ここのところに書いてあります、お父様」
「四年も!?」
「たった四年じゃないですか。夜一郎さんは一途なお方です。むしろ、有り難くも私のご支援をしてくださるとお約束してくださいました」
 娘の顔色からは少しの不安も読み取れない。若き二人は四年間心変わりすることなどないと信用しきっているのだろう。
「……一度も家を離れたことがない娘なんだ」
「勿論、俺がサポートします」
 思考の余地など与えないとばかりに二人が各々で詰め寄っていく。
「いや、しかし。しかしだな」
「彼女に何かあれば飛んでいく覚悟です」
 果たしてこの部屋はこんなに狭苦しかっただろうか?喉の渇きを覚え、グラスに入った液体を飲み干す。そこには今日に限ってなぜか娘が甲斐甲斐しく酌をしたアルコールが注がれていたが、それを気に掛けるだけの余裕も男には与えられない。さあさあ。お父様、こちらですわ。と、若者二人に圧され、ついに男は震える手でサインをした。
 途端、彼を苛んでいた重苦しさは消え去った。そこには娘とその婚約者の満開の笑みがあるだけだった。
「夜一郎さん! やりました!」

 娘の喜びようはひと際輝かしく父親の胸を打つ。感極まったように婚約者へ駆け寄り、抱擁のひとつでもするのかと思いきや、彼の目の前で立ち止まりがっしりと熱い握手を交わし合った。それは大きな商談が成功した直後のようで、父にも大変覚えのある光景だった。故に、なにかおかしいと思う。
「籠屋くん、娘とは結婚を前提としたお付き合いをしているのだよな……?」
「厭ですわ、お父様。私たちそんなこと一度でも言いました?」
 娘が柔らかく父の希望の息の根を止めにかかる。男は自分がはかりごとの上に立たされていることを知った。真っ白になりかかる頭で夜一郎を見る。

「一体、何のために見合いをしたと……私は君に、娘を引き合わせて」
「ですから、お会いしました」
「君も娘を気に入ったのではないのか!?」
「いやあ。すっかり意気投合しましてね!」

 男がいくらいままでのことを思い出そうとしたって、確かに二人の関係は一度だって明言されたことがなく、すべては願望のフィルター越しの景色でしかなかった。世の中は結果がすべてである。いま娘の手の中にあるサイン済の紙だけが最後に残されたのだ。
「あら、『吠え面』……」
 全てを悟り呆然となる父へ、彼女はひっそり呟いた。

 

 そして時は流れ。本日、彼女は親元から離れる。
 夜一郎との共謀のあと、彼女は改めて父と話し合った。必要書類のサインをもらったとはいえ、協力してもらえないのではそれはいくらでも握りつぶされてしまう。娘からの熱心な説得は同時に父への最後通牒でもあった。これまで通りに彼女を縛り付けることは容易である。しかし今度それをすることは二人の間に一生消えない、決定的な溝を生むだろう。結局、父はいくつかの条件付きで彼女の留学を認めたのだった。

「……それで?」
 ここまで来てようやく現れた登場人物が怜悧なまなざしで彼女を見下ろす。
 旅立ちの日、夜一郎は空港まで彼女を見送りにきていた。ここまで親身に自分を助け、いくら感謝したって足りないその相手は恩着せがましさのかけらも見せず彼女へ笑いかけた。そしておそらく話をしていた途中だったのだろう。傍らの長身へ言葉を返す。

「えーと、それでめでたしめでたしってことなんだけど」
 途端、藤色の瞳が強く、強く彼女へと向けられた。睨まれている。そう理解しても彼女はまだ二の句が告げられない。
「ヴァ、ヴぁる……!?」
 驚きに目を開き、ただ口をぱくぱくさせるだけになるのも仕方がない。彼女はいま、あの、Valkyrieの斎宮宗に凄まれているのだから。

 斎宮宗といえば格式高い、情熱のアイドルである。その佇まいは画面越しに見るよりもはるかに一部の隙もなく美しい。そんな男がこちらを射抜くように見下ろしているのだからこんなに恐ろしいことはない。思わず助けを求めるように夜一郎のほうを見ると彼は宗の怒りを物ともしていない様子で暢気な声を出す。

「××さん、こちらは斎宮宗さん」
「存じてます!」
 当然、紹介されるまでもなく見たことのある顔だ。彼女は何度も首を縦に振った。その反応を見て宗は当然だとでも言うように胸を張った。彼から初めてマイナス以外の感情が垣間見えて、彼女はようやく肩の力を抜いた。
「斎宮さん……、が夜一郎さんとどのようなご関係で……?」
 宗があまりにも堂々と姿を晒しているために、すでに周りでは衆目が集まりはじめている。彼女の口からも当然の疑問がついて出た。

「君に関係があるのかね?」
 すると間髪入れずに鋭い声が返ってくる。何故か自分はあの斎宮宗から敵意に近い何かを向けられているらしい、聡い彼女はそれを理解した。
「まあまあ、そんなこと言わないで。折角こうして知り合ったのだから、いい機会じゃないか」
 自然と宥めるようになる夜一郎が、二人が友人関係なのだと彼女に説明した。それはいいとして。そりゃ、斎宮宗にだって友人くらいはいるだろう。その相手が夜一郎というのは意外ではあったがさほど不思議なことでもない。
 でもそれだけではここまでついてくる理由にはならない。宗はむっすりとしたままで、とくに何か言うでもない。なので彼女は疑問をひとまず置いて、まずは恩人へ別れの言葉を伝えようと思った。
「一方的に助けられたなどと思わないでくれ。君はいわば俺の戦友だ。何か困ったことがあったらいつでも連絡してほしい」

 感謝をこめて頭を下げる彼女へ、夜一郎は言う。彼の耳障りの良い言い分はてっきり父への方便なのだと思っていた。戦友、という言葉は彼女の胸に新たな勇気を与えた。彼女の旅立ちに際して心底嬉しげな表情を見せてくれる夜一郎の隣で、宗は何か言いたそうな顔をしたまま落ち着かない。

「困りごとがなくても連絡していいですか?」
「な!? それは……!」
 反射的に声をあげてしまう宗のほうへ、二人の視線が注がれる。
「ほ、ほどほどにするのだよ……」
 そして歯切れの悪い口調でそう言った。その様子を見て彼女は宗がここまで同行してきた目的を察する。

「あの、ご心配なさらずとも、今回の縁談で夜一郎さんは被害者のようなものですし、私ともずっと善意でお付き合いくださっただけですので」
「それは分かる。彼が君を放っておけないことも、最良の結果を出したこともね」
 思うに、さっきまでの宗は努めて冷静に振舞っていたのだ。それが一度堰を切ってしまってはもう収まらない。

「だが軽々しくそういう真似をして、本気で惚れられたらどうする!」

 ──修羅場だわ。彼女は思った。
 感情を露わにする宗を前にしても夜一郎は変な冗談を聞いてしまったあとみたいに、困ったようにちょっと笑うだけだ。
「ええ?」
「こら、わかってないな。僕は本気で言っているのに!」
 宗が自分の言葉に明確に怒りの色を含ませると夜一郎はようやく慌てだす。しかし時はすでに遅い、と彼女は傍観しながら思った。もっとも確信しつつ焚きつけてみたのは彼女なのだが。

「君が僕に無断でどこの誰とも分からない相手と何度も逢引きしたり、あまつさえ空港で待ち合わせしているとなれば勘違いもするだろう!?」
「でもいい作戦だったろう、先方もうまく丸め込んで……」
 宗が言っているのはけして作戦の粗がどうということではないのだが、達成感でいっぱいの夜一郎の思考はなかなかそこまでに至らない。
「ああ、宗ちゃん。黙っていたのはその、悪かったよ。お願いだから機嫌をなおしてほしい……」
 彼の、いつだって口達者だった弁は宗のご機嫌取りに必死だ。

「良い方がいらしたんですね」
 口をついて出たのはそんな感想だった。彼女だって今回の縁談にいまだ否定的なのは確かだ。でも夜一郎に既に相手がいたのならこちらに少しの素振りも見せなかったのも納得できることだった。
 彼女の台詞に当の本人たちは肯定も否定も示さず、俯いたり視線を泳がせたりしている。どうやら関係性としては微妙な時期であるらしい。

「まあそれならそれで。でもそれじゃあ本当に私、はじめから振られることが前提だったのね」
 父も早合点したものだ。そう思ってから、彼女はなんだか悪態のひとつでもつきたい気分になったがそれは胸に留めた。夜一郎のこれまでの言葉が作戦のための嘘じゃないことを知ったからだ。
「夜一郎さん、いまでも私のことを素敵だと思ってくれますか? 父がそう評価するよりも」
「当然じゃないか!」
 すぐさま返ってくる恩人で戦友である彼の言葉に彼女はほっと息をついた。いまはその言葉から与えられる自信があればなんでも乗り越えていけると思えた。

「本当に、遠慮せずに連絡してくれよ。俺は確かに忙しくはしているけど、その代わりフットワークは軽いほうだから呼びつけてくれれば案外融通はできるんだ。あ、これは別に君のことを過度に心配しているとか、信用していないとかそういうわけではなくてだね。君はこれから自分の人生を進んでいくことだろうし、そういうときは他者を存分に巻き込んで構わないということでね」
「ふふ、戦友ですからね」
「そう! それだ。我ながら良い喩えをした」
 息つく間もなく喋る夜一郎の癖にも慣れたものだ。彼女はいつのまにか不敵な笑みになる。それは二人で悪巧みしたときの顔そのもので、夜一郎は一際満面の笑顔になる。
 彼の潔白な笑みは初めから彼の心もそうなのだと示してはいる。でもあんまり罪の意識がないものだから、彼女は今度は同情的な気持ちになってしまった。さっきから、ずっとやきもきした様子で、自分たちにいつ割り込もうか考えているだろうもう一人に対してだ。

「斎宮さん。このひと、もう少しちゃんと捕まえておかないと多分ずっとこうですよ」
「う、うるさい! 君に言われるまでもないのだよ!」